最後に山口線で蒸機を撮ったのはいつだろうと思って調べたら1992年3月だった。デジタル写真の時代になってから一度も撮っていないことになる。30年もご無沙汰なのかと時の流れの速さに心底驚くとともに、山口線での蒸機運転の長さを再認識した次第。SLやまぐち号は1979年8月1日の運転開始だから、今月で丸43年になる。1937年製造のC57 1の梅小路入りが1972年だから現役で走ったのは35年。既にそれを上回る復活運転歴である。

C57ファンの僕は運転開始の1979年に続き1980年に訪れたほか、京都勤務時代の1986年と87年、東京に戻ってからも1988年から92年まで90年を除き毎年出かけていた。しかし、その後は本業が超がつくほど忙しくなったり海外勤務があったりで、山口詣では途絶えてしまった。また、1999年から磐越西線でC57 180の復活運転が始まったことで、一層山口線から足が遠のいてしまった。遠くの山口線まで出かけなくてもC57に出会えるようになったからである。

↓長門峡を発車し加速するC57。最後尾にマイテ49 2を連結している。(1987.6)

↓夏の照りつける太陽の下、C57が宮野から続く坂を登ってきた。(1989.7)

↓三谷ー名草にて。期待していなかったら爆煙でやってきた。(1989.8)

山口線での復活運転に際し当初は梅小路のD51 1が候補だったが、ナメクジのため集煙装置が取り付けられないということに気がつき急遽C57 1に変更され、その集煙装置も鷹取工場式の図面が残ってなくてやむなく長野工場式になったという逸話がある。当時の国鉄担当者は本社のそういう場当たり的な対応に心を痛めたというが、集煙装置でC57のスタイルの良さが損なわれたのはたしかである。しかし、山口線ではそれだけ厳しい運転が求められるということであり、他の動態保存蒸機がボイラー圧力の上限を抑えて使用しているのに対し、C57 1はボイラー圧力16㎏/㎠の性能いっぱいまで使用する本気運転と仄聞した。

それだからこそ仁保•篠目間の田代峠などでの爆煙はとても素晴らしいと思ったし、爆煙ゆえの集煙装置と思うと、あまり気にならなかった。撮影現場では線路端から望遠レンズで前面を圧縮し、煙を強調した写真を数多く撮影した。しかし、拙著『Excellent Railways ー遥かなる鉄路ー』には山口線を走る蒸機の写真を数点収録したが、正面ドカンの写真は敢えてはずし、中国山地を越えんとする情景のものを選んだ。

↓霧に霞む津和野の街並みを見下ろしてC57が勾配を駆け登ってきた。(1991.3)

↓宮野•仁保間にある有名踏切でたまには正面ドカンで捉えたいと思っていたら、幸いにもこの日は同業者が少なく、希望の立ち位置を確保できた。(1991.3)

東京から山口線にでかけるときは、それ単独でというよりは九州への途中に立ち寄るとか、山陰とセットでということが多かったように思う。新婚時代に連れと日本海に面した『荒磯館』という旅館に泊まって新鮮な地元の海の幸を満喫したことなどとても懐かしい。

そうはいっても山口線は東京からはあまりに遠い。北海道にはよく出かけるくせに何を言うのかと思われるかもしれないが、関西方面から歴戦の面々が多数参戦されていることを聞くと、心理的な距離は北海道の比ではないのである。

それでも集煙装置のつかない蒸機が旧型客車然とした編成を引っ張るのは大いに魅力的だ。C57 1が再び走るようなことがあれば、山陰の魚介も目当てに久しぶりに訪れたいと密かに思っている。

↓(以下3点とも)最後の訪問となった1992年3月はC57とC56の重連運転が目当てだった。運転初日の重連運転後も山口線にとどまり、爆煙を堪能した。

↑↓宮野ー仁保にて

↓長門峡の発車はいつ来ても裏切らない。長門峡ー渡川にて