蒼き山なみを越えて 第3章 昭和48年~53年 小・中学校のバス遠足 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

僕が子供の頃、長野市には2つの路線バス事業者があった。
県内最大手の老舗である川中島自動車と、鉄道系の長野電鉄バスである。


僕が通った信州大学教育学部附属長野小学校の遠足に来るのは、いつも川中島自動車だった。

附属小学校の遠足は4月、5月、6月と10月の年4回あって、基本的に徒歩であるが、6月はバスや電車を使って遠くに行くことになっていたから、子供たちはみんな、毎年6月の遠足を楽しみにしていた。

 

 

隣りの敷地にある附属長野中学校の遠足は、系列校なのに、なぜか長野電鉄バスだった。 

 

小学生の僕らは、中学校の敷地に勢揃いした長野電鉄バスを眺めながら、川バスの方がいい、いやいや鉄道を持ってる長電だろ、などと勝手に品定めしたものだった。

鉄道は、遠くに行く以外は滅多に利用しない地方都市であったから、乗り物に興味を抱きやすい年頃の子供たちの関心は、自然とバスに向いたのだろうと思う。

 

 

川中島自動車は、大正14年に当時の川中島村で創業した老舗の事業者で、最初の路線は長野-上山田線だったという。

更に篠ノ井-新町、稲荷山-新町、長野-川中島、川中島-笹平(後に高府へ延伸)、長野-篠ノ井などと路線網を広げ、昭和初期に北信のバス事業者を次々と吸収合併して大町、白馬(当時は四ツ谷)、山清路、上田・大屋、中軽井沢、戸隠、柏原へと営業エリアを拡大、加えて赤倉、妙高高原、関山など新潟県にも路線を広げた。

 

太平洋戦争の敗戦後も、社会経済の復興と合わせて地域の足として目覚ましい発展を遂げ、「人が住むところバスあり」と豪語するほどの路線網と収益を誇ったのである。

 

 

ところが、モータリゼーションの発達と過疎化の進行により、昭和30年代から利用者が減少に転じ、昭和43年には赤字に転落した。

昭和47年に、県道戸隠野尻線を運行していた路線バスが、トラックとすれ違いざまに路肩が崩れて鳥居川に転落し、死者15人、負傷者67人を出す事故が起きた。

後に、事故の原因は危険な道路を放置した行政側にあると判断されて、無罪が確定したものの、一審で運転手が有罪判決を受けるなど、補償問題も影響して再建が思うように進まず、労使間の対立も強まり、経営が悪化の一途をたどっていた時期に、僕は同社のバスを遠足などで頻回に利用したのである。


市内路線の大部分を担う、地域の欠かせない足となっていながらも、小学校の遠足に来るバスは、古くさくて、オンボロばかりのように思えた。

子供の身勝手な主観で、かつ容赦のない評価に過ぎないけれど、緑一色のボディカラーもダサく感じられたものだった。
今から思うと、決して悪くないシンプルな色合いだったと思うのだが。
 

 

後の話になるが、川中島自動車は、昭和58年に会社更生法の適応を申請して、事実上倒産した。

長野県を揺るがせた一大ニュースだった。

最初は長野電鉄から人材が派遣されて経営の再建が図られたが、うまくいかなかった。

続いて松本電鉄の経営陣が乗り込み、路線数もかなり縮小されたものの、その後は高速バス路線を中心に奮闘している。

 

何よりも、平成10年2月の長野冬季五輪輸送を、中心的存在として完遂したことは記憶に新しい。
平成10~20年代の川中島自動車は、県外高速バスや県内特急バスに積極的に参入し、長野電鉄バスよりよほど華やかに見えたものだった。

 

それだけに、平成23年に、諏訪バスとともに松本電鉄に吸収合併されてアルピコ交通を名乗り、川中島自動車の名が消えたのは、僕にとって意外であり、寂しく感じられたものだった。

今でも市民の中には、「川中島バス」と呼ぶ人が少なくないと聞く。

 

 

片や長野電鉄バスは、前身の長野温泉自動車の創立が昭和2年で、戦前に権堂駅、信濃吉田駅、湯田中駅といった長野電鉄沿線や、松代・保科、山田温泉、野尻などに路線網を広げた上で、昭和16年に長野電鉄に営業権を譲渡している。

 

川中島自動車に比べれば路線数こそ少なかったが、なんと言っても鉄道会社である。

当時の長野電鉄線は、長野、須坂、中野の都市間輸送や近郊輸送ばかりでなく、志賀高原の開発にも力を入れ、「地方私鉄の雄」と言われるほどの存在感があった。
資金が、川中島バスより余裕があったのだろう。
 

少なくとも、貸切車には、新型の車両を揃えているように見えた。
明るいベージュ色に赤いラインが入ったボディカラーも、華やかに見えたものだった。
友達がバスの絵を描く時には、大抵が長野電鉄バスだった。

 
 
白地に赤いラインの貸切バスを揃えた長野観光という事業者もあった。

タクシー会社のバス部門で、長野観光タクシーは、僕の父の愛用だった。

 

「なんかあった時には、長野観光に電話して〇〇(僕の名字)と言えば、家に連れて来てくれるからな」

 

と、幾分過保護の傾向があった父が、口癖のように言っていた。

 

ごくたまに、小・中学校の敷地に長野観光バスが並んでいることがあり、誰が使うのだろうと、みんなで詮索したものだった。

外からの学校見学か、PTAの行事で使われたのだろうか。

 

当時の長野観光バスは、川中島自動車や長野電鉄バスと比べものにならないほど、ピカピカの新車を揃えているように見え、眩しかった。

赤字路線を抱えるバス事業者よりも、収支が良かったのだろうか。

 

 

平成の中頃に、長野観光バスが東京と長野を結ぶ定期便を運行していた時期がある。 

 

ネットで検索すると、「エコライナー 信州中野→新宿・横浜 ゆったりシートバス」と銘打って、「エコツーリスト(株)」が募集する「高速ツアーバス」、利用予定運行会社「長野観光自動車」と書かれている、平成11年の古いページを見つけた。

時刻表には「信州中野 5:15発 新宿 9:30着 横浜 10:30着」としか記載されていないが、下の注釈に「このバスは長野・東部湯の丸を経由します」と書かれており、長野市も6時前後に停車したものと思われる。

 

その頃に、新宿警察署前の交差点で、「エコライナー」と書かれた長野観光バスを見掛けたこともあった。

おお、長野観光もついに高速バスに進出したのか、頑張れ、と思ったが、乗る機会には恵まれなかった。

貴重な長野観光バス体験になったはずなので、無理しても乗っておくべきだった、と今でも悔やんでいる。

 

 

昭和49年、僕が小学校3年の6月の遠足の目的地は、志賀高原だった。


僕にとって生まれて初めてのバス遠足は、長野幼稚園に通っていた頃に、妙高と赤倉に近い池の平へ遠足した時で、続いて小学校2年の6月に戸隠神社の奥社へ向かう遠足だった。

どちらも、あまりに小さくて全く覚えていないが、戸隠は、いすゞBU30P・川崎車体の「オバQ」と呼ばれた愛嬌のある前面を持った観光用車両だったと記憶している。

戸隠神社の奥社は、車で乗り付けることが出来ず、駐車場から延々と歩かなければならないのだが、参道の入口に、緑色のバスが並んでいた光景だけは、かすかに脳裏に刻まれている。

 

 

志賀高原への遠足も同じ車種で、どのように古い車両でも、乗ってしまえば、それほど気にならないものである。
 

このバスの特徴は、横長のスライド式の窓だった。
縦3列くらいの座席に、1つの窓枠が跨がっていたから、何処かの席で窓をいっぱいに開けると、残りの列の窓が塞がってしまう。
当然、窓の取り合いになった。
窓を開けてのバス旅行も、今となっては懐かしい。

 

 

僕らは大いにはしゃぎながら車中を過ごしていたが、国道292号線・志賀草津有料道路の登り坂で、いきなり、バスがガクン、と止まった。

後部のエンジンルームから、濛々と白煙が上がっている。

何が起きたのか、と誰もが愕然としたが、そのうちに、オーバーヒートらしいぞ、との囁き声が聞こえた。


信州大学附属長野小学校は、40人学級が1学年に3組あり、遠足では1組にバス1台ずつが当てがわれていたのだが、運悪く、僕らのクラスのバスは最後尾だった。
他のクラスのバスは先に行ってしまって、姿が見えない。
山の中だから公衆電話も見当たらないし、もちろん携帯のない時代である。

他のバスの姿が見えると、僕らは、おーい、おーい、と窓から手を振って助けを求めたのだが、志賀高原は長野電鉄バスの営業エリアだから、路線バスは素知らぬ顔で追い越していく。

 

 

運転手は、何とかバスを動かそうと奮闘していたが、少し進むだけでも、ガックンガックンとノッキングして、前後に激しく揺れるだけである。
その衝撃で、唇を噛んで血だらけになる子もいた。

もう、このバスは、ちょっとやそっとでは生き返らないのだな、と思った。

 

どのように救出されたのか、全く忘却の彼方である。

長野電鉄バスの1台が停車してくれて、その運転手が伝言を預かったような気もする。

長野市内から救援バスが呼ばれたのか、他のクラスのバスが引き返して来たのか、僕の記憶は、動かなくなったバスの車内で途切れている。

 結局、遠足を途中で打ち切り、目的地には行けず仕舞いで、手前の蓮池か丸池あたりでお茶を濁す羽目になったらしい。

 

何年か経ってから、

 

「あの遠足は何処に行くはずだったんだろう」

 

と、母に聞いたことがあり、

 

「あら、覚えていないの?白根山よ。お前だけ白根山に行けなかったんだねえ」

 

との答えが返ってきた。

両親は白根山を旅行したことがあり、弟は、2年後の自分の遠足で、無事に白根山に行けたらしい。

僕は、大学生になってから、国鉄バスの「志賀草津温泉線」で、ようやく白根火山を訪れた。

 

 

小学5年生に進級した昭和51年の夏のことである。
 

この頃の政界は「ロッキード事件」一色に染まり、事件に関わったとされる人物の屋敷に小型飛行機が突っ込んだり、田中角栄元首相が逮捕されたり、騒然としていた。

国会の証人喚問に召喚された証人が、「記憶にございません」を連発し、僕ら子供も事あるごとに真似したものだった。

 

家族で名古屋見物に旅行し、小牧にあった名古屋空港で渦中のロッキードL-1011型旅客機の実物を目にしたのも、この頃である。

父方の叔父が名古屋空港に勤務していたので、訪ねて行ったのだと思う。

 

 

世界初のカップ麺である日清食品の「カップヌードル」が開発されたのは昭和46年であったが、昭和51年には「日清焼きそばUFO」や「どん兵衛きつねうどん」などが販売され、1度は食べてみたいと思っていたのだが、親は、子供の身体に良くない、と絶対に許してはくれなかった。

 

昭和49年に現役を引退した野球選手の長嶋茂雄氏が、昭和50年に読売巨人軍の監督に就任していきなり最下位に転落したが、この年に見事にリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズで阪急に敗退した。

小学校に入学した時に、通学で被るように配られた黄色の帽子は、読売巨人軍のマークが入った野球帽で、特定球団の帽子を国立の学校が配って良いものか、現在ならば問題視されるかもしれない。

しかし、当時は「巨人、大鵬、卵焼き」の時代の名残りが強く、横綱大鵬は昭和46年に引退したが、飛び抜けた人気を誇る巨人の帽子は、普遍性があると判断されたのかもしれない。

 

僕は、長嶋茂雄氏が「巨人軍は永遠に不滅です」との言葉を残して引退した時には、何の感慨も湧かなかったので、ファンではなかったと思う。

ところが、昭和51年の長嶋巨人のリーグ優勝は嬉しかった記憶が明確であり、いつの間にか巨人ファンになっていたようである。

その巨人を日本シリーズで破ったのが、関西の鉄道会社である阪急だったので、同時期に鉄道ファンになっていた僕は、複雑な心境だった。

 巨人ファンになった経過は定かではなく、大人になってから説明を求められると、

 

「信州は田舎で、テレビ局も少なくて、巨人戦しかやっていなかったんですよ」

「小学校の通学帽として配られたのが、巨人の帽子でしたしねえ」

 

と答えることにしている。

 

鉄道ファンになったのは、突如として、としか言いようがない。

気づいたら、自宅に置いてあった全国版の大型時刻表を読み耽るようになっていた。

実家の本棚に置いてあったのは、昭和45年12月号の時刻表である。

表紙は、新大阪と大分を結んでいた特急「みどり」だった。

おそらく、父が購入したものであろう。

父は、出身大学がある金沢まで頻りに出掛けていたから、長野から金沢まで直通する特急「白山」や夜行急行「越前」、もしくは直江津で乗り換える場合の時刻を調べていたものと思われる。

 

 

その時刻表を初めて手に取ったきっかけは、忘却の彼方である。

気づいたら、各地の特急・急行・夜行列車が走っている線区を中心に、夢中でページをめくっていた。

紀行作家の宮脇俊三氏も、初めての時刻表で真っ先に開いたのは、当時東京と大阪を結んでいた特別急行「燕」のページだったと書いているから、子供は優等列車に惹かれるものらしい。

小学生の身では行けるはずもない旅行計画をノートに記して、独り悦に入っていたのだから、空想旅行を楽しんでいたものと思われる。

 

この頃は風疹がたびたび流行し、妊婦の感染が胎児に影響する先天性風疹症候群が社会問題になり始めて、女子中学生を対象にした風疹ワクチンの接種が開始されたのが、昭和52年であった。

弟が風疹に罹り、うつらないように僕が子供部屋を与えられたのが、昭和51年だったと記憶している。

僕の父親は、医師でありながら予防接種に懐疑的で、僕ら子供には絶対に射たせなかった。

子供心に不思議だったのだが、今ならば理解できる。

当時の注射器や針は、今のように使い捨てのディスポーザルタイプではなく、何人も使い回していたのである。

学校の予防接種で、ワクチンが入った注射器1本で、少量ずつ複数の児童に注射していた時代だった。

幸い、僕は幼稚園の時に麻疹、水痘などの流行病に罹患を済ませ、小・中学校は無欠席で通すことが出来たのだが、風疹だけは現在に至るまで罹ったことがない。

 

子供部屋で勉強しているふりをしながら、時刻表をめくって架空の旅行計画を立てたりしていたのだが、基本的に宿題を出さない小学校だったので、弊害はなかった。

当時住んでいた戸建ての借家は、1階に居間や寝室、台所や浴室、洗面所が全て1階にあり、僕は2階の10畳一間を独り占めしたのだが、時々、階段を軋ませながら親が昇って来る気配を察すると、慌てて時刻表を仕舞い、教科書とノートを開いたものだった。

未だに子供部屋としてたびたび夢にも出てくるのは、この借家の2階であるほど、強烈な印象を残した。

 

同級生にも鉄道ファンの子がいて、親と東京に出掛けた際に、東京で様々な鉄道写真を撮って来ようものなら、みんなで群がって眺めたものだった。

焼き増し代を払って、分けて貰った何枚かは、今でも大切にしている。

 

 

この年の7月に開催された飯綱高原での林間学校には、川中島自動車の武骨な路線用2扉車が配された。


「何だよ、このバス、真ん中にも扉ついてんじゃん」
「路線バスで行くのかよ」
 

遠足気分に浸れる前方1扉の観光バス車両を期待していた僕らは、街でよく見掛ける路線車の登場に、落胆の声を上げた。

 

路線バス車両の貸切使用は世の中で決して珍しくないが、僕らはこの時初めて経験したのである。
座席も硬く、背もたれも低かった。
せめてもの救いは、都会の路線バスと違って、全員が座れる座席数が確保されている車両であったことだろうか。
 

加えて、僕の脳裏にトラウマが甦っている。

昭和39年に完成した有料道路「戸隠バードライン」は、2年前の「志賀草津ルート」より遥かに勾配がきつい箇所が少なくない。
このような古くさい路線車で、故障して立ち往生する恐れはないのか?
4年生に進級した時にクラス替えがあったので、志賀高原でのバス故障を経験した友達は、同級生の3分の1くらいになっていた。
 

出発して間もなく、目ざとい子が、車内前方に掲げられた料金一覧表を見つけて声を上げた。
 

「おい、このバス、戸隠への路線バスらしいぞ」
「この道の専用か!」
「じゃあ大丈夫だよな、きっと」
 

実績にまさる保障はない。
車内に安堵感が広がるのを感じ取って、なあんだ、みんな心配していたのか、と苦笑いした。

 

 

川中島自動車の長野と戸隠を結ぶ路線バスは、「戸隠バードライン」を経由する系統と、国道406号線から県道86号線を経由する系統があった。

使われていたのは、日野RC300Tという車種で、搭載されていたエンジンはDK20型、と書いても、車両ファンではない僕にもチンプンカンプンなのだが、社史でも戸隠線に投入された車両であると書かれているから、大馬力であったのは間違いないだろう。
速度を落とすことなく、グイグイと九十九折りの坂道を登っていくバスの走りっぷりは、実に頼もしかった。

 

大学生になってから、僕は、帰省した時の気晴らしに、長野市近郊へ向かう路線バスに乗りに行くようになったが、県道戸隠線で狭隘な山道のスリルを味わった後に、「バードライン」経由の路線バスで帰って来る、というコースは、お気に入りの1つだった。

 

 

小学5年と6年の2年間、冬季に2回ずつ催されたスキー教室へと、話は移る。
小学校の冬の行事は、1年と2年が裏山で橇滑り、3年と4年が、当時東洋一の大きさと言われた長野スケートセンターでのスケート教室だった。
 
橇滑りは、短い斜面を滑り降りるだけの他愛もないものだったが、後に僕が初恋の相手として恋い焦がれる女の子と一緒に1つの橇に乗っている写真が残っており、当時は異性を意識する年頃ではなかったにしろ、甘酸っぱくもほろ苦い思い出を残している。
ハンドル付きの橇を持ってきた友達がいて、無性に乗ってみたかったことを覚えている。
スケートは、スピードスケート用の靴が足が痛くて滑るどころではなく、フィギュアスケート用の靴がしっくりしたので、僕は今でもスケート靴はフィギュア用1本槍である。

スキー教室の行先は、新潟との県境に近い黒姫駅まで国鉄信越本線の電車を使い、駅から歩いてすぐの県営黒姫スキー場だった。

当時、長野市立の小・中学校は、夏の臨海学校や冬のスキー教室の行き先が統一されていて、スキー教室は飯綱スキー場だったのだが、国立の附属小学校が黒姫スキー場という点で、何となく疎外感を感じたものだった。

幼かった僕は、自宅の近所の遊び友達が通う市立の小学校と別の学校に通うことに、仄かな抵抗を感じていて、学校行事の行先まで異なっていることが納得できなかった。

 


 

だからと言って、スキー教室が嬉しくなかったのではない。

大いに楽しみにしていた。

ところが、昭和51年の1月、初めてのスキー教室を前にして、子供可愛さのあまりに過保護の傾向があった父が、怪我をするといけないからスキーに行くのはまかりならん、と言い出した。

父はとても怖い存在だったので、内心で反発しても、その感情を表に出すことなど、出来るはずもなかった。

スキー教室の時も、表立って抗議した記憶はない。

 

前日に、スキー教室を目前にして浮かれた友達が、昭和51年からテレビで放映が開始されていた野球アニメ「ドカベン」のテーマ曲を、

 

「青春って何だ~あの白い球ァ~」

 

と歌っていたのを、しょんぼりと聞いていた記憶だけが、なぜか明確に残っている。

みんなスキーに行けていいな、と無性に羨ましく、40年以上経過した今でも、歌っていた友人の表情まで一緒に思い出されるのだ。

 

家でもよほど憔悴して見えたのだろうか、思いがけず、

 

「いいよ、行ってこい」

 

と、父が折れた。

何が起きたのか、事態の急変に気持ちが追い付かず、嬉しいはずなのに呆然としている僕の視界の片隅で、母が、いそいそとリュックに持ち物を詰め始めた。

 

 

翌日は、スキーを存分に楽しんでから帰路についたが、黒姫駅で、待てど暮らせど列車が来ない。

信越国境は我が国でも有数の豪雪地帯だったので、遅延は少なくなかったようである。
駅の待合室で騒いでいた僕らも、2時間あまりも経つと、さすがに不安が募って、口数が少なくなっていった。
雪は殊更に激しく降りしきり、あたりが暗くなってきた。
 

学校が緊急に手配したのだろう、救援に駆けつけたのは、小学校が御用達にしているはずの川中島自動車ではなく、意外にも長野電鉄バスだった。

路面の雪を蹴散らして、颯爽と黒姫駅前に現れたバスの勇姿に、僕らは、わあっと歓声を上げた。
駅員さんが、心なしか悔しそうな表情を浮かべていた。

 

車中のことは殆んど覚えていないが、この時が、長野電鉄バスの初体験であった。

 

 

当時、長野電鉄バスは、国道18号線を経由して長野駅と野尻湖を結ぶ路線バスを運行していた。

本数は少なかったが、善光寺平の東側を迂回する国道18号線ではなく、長野市の北の浅川、仁之倉を経由する県道で野尻湖に向かう系統もあり、同社の路線バスで唯一、善光寺大門に乗り入れる貴重な系統だった。

 

つまり、黒姫駅で、急遽貸切バスを申し込むには、川中島自動車よりも長野電鉄バスの方が容易だったのであろう。

それからのスキー教室でも、帰路の信越本線上り列車が時刻通りに運転されたことは1度もなく、何度も待ちぼうけを食らわされた挙句、小学校6年には、最初からバスがチャーターされた。

 

大学時代の近郊気晴らしバス路線として、仁之倉経由で野尻湖へ向かい、国道系統で帰って来るコースが加わったのは、言うまでもない。

 

 

昭和53年に入学した信州大学教育学部附属長野中学校の生活は、教師にも友人にも恵まれて、初恋もして、楽しい思い出ばかりだったので、特に、この年は強く心に刻まれている。

 

「附中生は規律正しくあれ」

 

というのが合言葉になるほどで、今から振り返れば窮屈な校風だったと苦笑したくなるのだが、僕の性に合ったようで、Yシャツに白いトレパンと定められた服装も含めて、自由だった小学校とは異なる、大人の厳しい世界に触れたような青臭い気分に酔っていたのかもしれない。

初恋の対象となった女の子は、小学校でも同級生で、特に意識していなかったのだが、中学に入学して再び同級生になった途端に、眩しい存在に変わったので、自分でも驚いた。

最後まで片思いで終わったのだが、その女の子と同じクラスで過ごしている、というだけで幸せな気分だった。

 

世間を騒がせた汚職事件で首相の座を追われた田中角栄氏の後は、三木武夫氏が短期間だけ首相を務めてから、福田赳夫首相の時代になっていたが、師走に、田中派が推す大平正芳氏が与党の総裁選を勝利すると言う政局があったり、それまで優勝経験がなかった弱小球団のヤクルトが、広岡達朗監督のもとでセントラル・リーグを制覇するどころか、日本シリーズで無敵を誇っていた阪急を破って日本一になるといった話題に事欠かなかったものの、僕にとっては、映画とテレビの年だった。

 

この年の目ぼしい公開作として、「スターウォーズ」や「未知との遭遇」といったSF大作や、角川映画「野生の証明」などが挙げられるが、僕らの話題にのぼることは少なかった。

何よりも、映画館でお金を払って新作を観る機会など、当時の中学生にそうそうあるはずもなく、記憶に鮮明なのは、昭和50年に公開されて、昭和53年4月24日に「月曜ロードショー」で初めてテレビ放映された「新幹線大爆破」であった。

 

当時の長野県の民放は、TBS系列のSBC信越放送と、フジテレビ系列のNBS長野放送の2局しかなく、テレビ映画も、荻昌弘氏が解説を務めるTBSの「月曜ロードショー」と、高島忠夫氏が解説するフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」だけだった。

日本テレビ系列のTSBテレビ信州が開局するのは、翌年の昭和54年であり、テレビ朝日系列のABN長野朝日放送の開局は平成元年である。

 

「新幹線大爆破」放映の翌日に、クラスは、この映画の話題で大いに盛り上がり、

 

「ひかり109号に爆弾を仕掛けた」

「青木君、落ち着いて聞いてくれ」

 

などと、台詞の物真似が飛び交ったものだった。

 

 

僕らが話題にする映画の大半が、テレビ放映された作品ばかりであり、宣伝が巧みだった「野生の証明」などは、CMで流れた「お父さん、怖いよ、何か来るよ、大勢でお父さんを殺しに来るよ」という薬師丸ひろ子の台詞だけを、ろくにストーリーも知らないままに真似ていたのである。

 

唯一、この年に公開された「さらば宇宙戦艦ヤマト」だけは別格で、平成3年に「魔女の宅急便」に抜かれるまでアニメ映画の興行成績のトップを叩き出した作品だけあって、映画館で観た友達も多く、僕を大いに羨ましがらせたものだった。

「宇宙戦艦ヤマト」の下敷きやクリアファイルなどを学校へ持ってくる友達もいて、映画を観ることも関連グッズを購入することも許して貰えなかった僕は、授業中に、ノートの片隅に下手くそなヤマトの絵を描くのがせいぜいだった。

僕は、この頃から「宇宙戦艦ヤマト」の熱烈なファンになっていた。

絵は下手だったけれども、自宅の子供部屋に閉じこもって、「宇宙戦艦ヤマト」のサイドストーリーを小説に書いたこともある。

登場人物が全て中学のクラスメイトという、思い出せば赤面ものの内容だったが、書き取りの練習にはなったのだろう、小説が佳境に入った頃、国語の授業で、先生に字が上手いと褒められたことも、今となっては懐かしい。

 

テレビと言えば、家族で鑑賞する定番の刑事ドラマは、金曜日の「太陽にほえろ!」だったが、激烈な反対運動の末に、この年に開港したばかりの成田空港を舞台にした「大空港」が毎週月曜日に放映され、チャンネル権を握る父親が主演の鶴田浩二のファンだったこともあって、我が家のラインナップに加わった。

昭和47年から放映されていた「太陽にほえろ!」が若干マンネリ気味に思えたことと、まだ乗ったことのない航空機への憧れ、そしてオープニング曲が気に入ったことから、大好きな番組だった。

 

この年に放送されたNHK大河ドラマ「黄金の日日」も、未だに僕にとっては歴代の大河ドラマで最も好きな作品で、初めて全ての回を欠かさずに観たものだった。

 

 

中学1年の夏に実施された、美ヶ原高原への1泊遠足に配車されたのは、もちろん長野電鉄バスだった。

 

美ヶ原への往路は、国道18号線を上田を経て大屋まで行き、国道152号線に右折して、丸子町で県道美ヶ原公園沖線に入っていく、高原の北側からの経路を使った。

この経路は、長野から大屋までは川中島自動車の基幹路線である「国道線」のバスが走っており、そのおかげで、大屋の地名は小さい頃から知っていた。

上田駅から大屋駅を経由して丸子、長久保、美ヶ原落合を結ぶ国鉄バス「和田峠北線」も、国道152号線と県道美ヶ原沖線を行き来していた。

この頃は、遠足で出掛ける先々に、きちんと路線バスが走っていた時代だった。

 


 しばらくは塩田平の田園を坦々と走るだけの長閑な道路であったが、のしかかるように迫ってきた山々の麓で、いきなり泥道に変わったものだから、目を見張った。

大きく揺れ始めた車内で、それまでは騒然と過ごしていた友達が、いっせいに黙り込んだことを覚えている。
信州の道路は概して整備が遅れていたが、この頃になれば、さすがに未舗装の道路は珍しくなっていた。

まして、高名な観光地である美ヶ原、白樺湖方面への入口であるから、まさか、舗装が切れるとは思ってもみなかった。

 

 

前日に雨でも降ったのか、水溜まりが多く、ぬかるんだ凸凹道である。

バスが上下に激しく揺さぶられると、バシャッと、泥混じりの飛沫が窓のすぐ下まで跳ね上がった。
狭隘な道路の両側に鬱蒼と生い繁った木々の枝が、窓ガラスを叩く。
あまりの悪路に、車内は静まり返ったままだった。


行く手に、急な斜面を巻いている、勾配のきつい180度の右カーブが見えた。
前を行くバスは曲がり切れず、切り返しのために、いったんバックを始めた。
僕らのバスも手前で停止して、誰もが固唾を飲んで見守っている。
後退した勢いで、前のバスの車輪がロックしたまま泥をグリップできず、ズルズルッと滑った。
すぐ後ろは崖である。
 

「うおっスリップした!」
 

と、誰かが小さく叫んだ。
幸いにも、なんとか踏ん張ったので、安堵の溜め息があちこちから漏れ聞こえた。

 

 

右窓のすぐ上に見える急坂の路面を、前のバスの泥だらけのタイヤが登っていくのを見送ってから、僕らは不安を隠しきれないまま、前に向き直った。

次は、僕らのバスの番である。

 

「左オーライです。オーライ、オーライ……」

 

ステップにに立ったバスガイドが、緊張した面持ちで、扉の外を見ながら誘導する。
はみ出してしまうのではないかと心配になるほど、崖っぷちの路肩ギリギリまで車体を寄せてから、僕らのバスの巨体は、大きく右へ回りこんだ。
運転手が、全身でハンドルをぐるぐる回すのが見える。
僕らの身体が、遠心力で左へ大きく傾く。
 

切り返し……なし!
僕らのバスは、一発で曲がり切ったのだ。
 

見事な職人技だった。
車内に歓声と拍手が湧き起こり、運転手は左手を挙げて応えた。 

 

 

日没の直前に着いた1日目の目的地、山本小屋は深い霧の中だった。


駐車場でバスを降り、身体を伸ばしている僕らを尻目に、1台、また1台と、赤いテールランプをぼんやりと輝かせながら、長野電鉄バスが霧の彼方に走り去っていく。

これから、あの悪路を戻らなければならないのか、と思うと、自然と頭が垂れる思いがした。
 

翌日は、高原を横断して、王ケ鼻から松本側に下山し、バスで帰路につく予定だった。
そちらが美ヶ原高原の表玄関であるから、悪路の心配はなかったし、事実その通りだった。

 

ただし、用意された松本電鉄バスは前後2扉の一般路線車で、僕は内心でがっかりしたのだが、車種に文句を言うような年齢ではなくなっていたし、疲れでぐっすりと眠り込んで過ごしたので、特に不満はなかった。

翌年の夏の燕岳登山でも、麓の中房温泉への往復は松本電鉄バスがチャーターされたのだが、同じく一般路線用の車両だった。

 

 

『それでは附属中学校の皆さん、どうかお気をつけて』
 

最後尾のバスから、不意に、別れの挨拶が聞こえた。

バスが、車外にアナウンスできる設備を備えているとは、この時に初めて知った。

驚いて振り返った僕たちの目に、マイクを持った手を振っている運転手の姿が見えた。
扉越しに、深々と頭を下げているガイドさんの姿も。

ひと仕事を終えた、まさにプロの姿だった。

 

「ちょっとさあ、格好よすぎじゃねえか?」

 

同級生の1人が呟いた。

 

すっかり痺れてしまった僕らは、いつまでも、バスの後ろ姿に手を振り続けた。

バス旅の爽やかな余韻に、名残りを惜しみながら。

 

 

 

 

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