徒歩旅行日:2021年3月19日(金)
前回箱根から三島まで歩いた日から5日しか経っていないが、私はまた歩きに向かっていた。この日は平日。土日の天気が悪そうだったため、上司に頭を下げ有給を貰った。久しぶりに海風を浴びながら進んだ、24.5キロを振り返る。今回歩いた道のりは下記マイマップへ(水色のライン)
そして前回の箱根から三島までの区間の旅行記は、このリンクから。会社員の東海道53次 徒歩旅行記⑦【箱根八里・後編】 - 旅の記憶
8日目 駿河湾に沿って、松原を進む
スタート地点まで自宅から向かうのに初めて新幹線を使う。出費を惜しみ、小田原〜三島間のみ新幹線を使った。所要時分僅か20分。嬉しいことに最新車両のN700Sがやって来た。通路側でもコンセントがあるのが嬉しい。
14時前、三島駅に到着。結構遅めのスタートになったが、少し寄り道を。
駅の目の前にある楽寿園へ。ここは元皇族の別邸として造営された敷地が公園として開放されている。入園料300円を払って中へ。
まず目に止まったのは小さな動物園。早く歩かなければ、という焦りがありながらも、ついつい動物たちを見入ってしまう。アルパカはすごく人の動向を見ているし、レッサーパンダは熟睡中。そして与那国馬なんて初めて見た。
平日であることもあり、静かな園内。SL・C58も展示されていた。
楽寿園一番の見どころは、この小浜池だと思う。富士山からの伏流水が湧き出ているのだ。そしてこの公園内には富士山の溶岩が沢山ある。この小浜池は湧水量によって湖面の水位が日々変わるらしく、楽寿園のホームページを覗くと水位が書いてある。
今日の東海道歩きのスタート地点に向けて歩く。この道沿いの川は小浜池から?三島市街地を流れる川はどれも本当に透き通っている。
西武グループの伊豆箱根鉄道、レトロな街並みの中を黄色い電車がゆっくりと通り過ぎて行く。14:30、遅くなったが歩き始める。
「9階建てマンション建設絶対反対」の看板と、建ってしまった9階建てマンション。思わずマンションの階数を数えてしまった。
三島広小路の駅前から歩き出してすぐ、清水町という町に入る。その境目に千貫樋という流れがあった。先ほど見た小浜池の湧水を清水町の灌漑用水として送るために鉄筋コンクリート製の樋が作られている。千貫樋の歴史は古いらしく、北条氏と今川氏が和睦をしたのを機に1555年に北条氏の領地から今川氏の領地に向かって作られたと伝わる。
そして、この千貫樋を境に伊豆国から駿河国に旧国名も変わる。
かつて八幡村と呼ばれていた地区を歩く。頼朝と義経が対面したと伝わる石が残されていた。清水町内には柿田川湧水群という、綺麗な公園があったのだが、時間がおしていたので断念。
黄瀬川を渡り、沼津へ。
街に向かって、黄瀬川が合流した狩野川沿いを進む。堤防が高くしっかりと護岸をされている。水害が起こりやすい地域なのだろうか。
沼津の街に入ってきた。12番目の宿場、沼津宿は今の市街地と重なる。沼津は港町、水深の深い駿河湾から色々な海の幸が水揚げされる。深海水族館も行ってみたかった見どころの一つ。ただ時間の関係でこちらも断念。東京から新幹線で向かえばよかったものだ…。
沼津宿は本陣が3軒あった。いずれも石碑が建てられていた。廻船も寄港していた街で、街道を行き交う人、船に関わる人で賑わっていたようだ。
町の外れに差し掛かった頃、乗運寺というお寺があった。
この先、沼津宿から原宿にかけて、駿河湾沿いに千本松原という松林が続く。その松を植えたのが、このお寺の開祖、長円という僧らしい。塩害や風に苦しむ村人たちのために、松の苗を植え続けたという逸話が残っている。また、大正時代に伐採計画のあった千本松原。その計画に対して反対運動をしたという若山牧水の墓もあった。境内の枯山水も美しく、しばし庭を眺めながら休憩。
「トイレどうぞ」と優しい言葉が書いてある商店の前を通りつつ、約20分。少し旧道を外れて、千本松原に来てみた。
17時前、青空も淡くなりつつある時間帯、静かな松林の広がりに息を呑む。
松林を抜けると、穏やかな駿河湾が広がっていた。
これから歩くことになる、富士や静岡が遠くに見える。綺麗な景色であるとともに、行き先が遥か遠くであることに少し絶望する。写真では見づらいが富士の製紙工場の煙突も見えた。
振り返ると伊豆半島が見える。伊豆半島は元々島で、日本列島にぶつかったと聞くが、こう景色で見ると俄かに信じがたい。毎年4センチ伊豆半島は北に動いているらしい。
旧道を外れ、少しばかり海沿いを歩く。
松原沿いの道路も良い景色。
再び旧東海道へ出る。東海道本線を走る車両は、JR東海の白地にオレンジのライン。
ひたすら一本道を歩き続け、13番目の宿場・原宿へ。ここはまだ沼津市。
小さな宿場だったが、富士山の眺めで人気があったと本には書いてある。当時の旅人も景色を楽しんでいたようだ。
宿場内にはお寺が多かった。
原宿で日が暮れてしまった。時刻は19時。原宿で止めてもよかったが、あと10キロ強、次の吉原(よしわら)宿まで行ってしまおうと決めた。
この決断は正しかったのだろうか。永遠に続く、暗い夜道をただひたすら歩き続ける羽目になる。明るいうちに歩いたらどんな景色だったのだろうか。あまりにも景色が見えず、遠くに見える街灯を目標にただ、ただ、歩き続けること1時間半。
製紙工場の煙突や夜景が見えてきた。富士市、吉原に入ってきたようだ。
富士山麓の富士市は製紙工業の街。夜でも煌々と工場が光っている。吉原に夜到着して悔やまれるのは左富士を拝めなかったこと。茅ヶ崎とここの2ヶ所が唯一、京都に向かう道中で左手に富士山が見えるのだ。
旧東海道は、吉原駅から北へ進路を変える。吉原宿はこれまでに二度、津波を経験していて、内陸に街を移転したそうだ。そして21時、吉原宿内にある岳南電車の吉原本町駅で本日は終了。24.5キロの長旅は終了。
また次回、スタート時に街の景色は楽しむこととする。かつて東京の井の頭線で活躍していた車両で吉原駅へ。
装飾で彩られた車内に一人。
2020年暮れに一度、岳南電車に乗りにきたことがある。岳南電車はかつての京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の京王線、井の頭線の古い車両がどちらも現役で走っていることを知った。同じ京王だけど東京では決して並ばない2つの車両が同じホームにいる光景は胸を熱くするものがあった(明大前ユーザーとして)。
夜遅くの帰宅となりこの日は終了。
次回につづく。