出世した跡継ぎ | 勇気づけの嵐c6217139-08

勇気づけの嵐c6217139-08

ブログの説明を入力します。

勇気づけの嵐

 

 

   

   

 

 

ベストセラー書「嫌われる勇気」で大ブレークを果たしたアドラー心理学では、困難を克服する活力を与える「勇気づけ」をとても大切なものと考えています。


本ブログは、夫婦関係、子育て等の困難から救われた自らの経験を活かす為、幸福を目指すこの心理学の案内役となり、各種ワークショップやカウンセリング等への橋渡しができればとの思いでスタートしました。

また、勇気づいた人の象徴的存在である嵐の活動、旅や趣味の世界等についても合わせて綴っていますので、同好の方にお楽しみ頂けたらと思います。

巻き起こせ!

勇気づけの嵐
 

 

<重要なお知らせ>

 

【記事再掲載のご案内】

 

本ブログに移行して来る前の記事も改めて再掲載して行く事にしました。

 

こちらの記事一覧に加わって行く事になります。

 

2017年6月1日の記事からからボチボチやってます。

 

今回、以下の記事を取り込みました。

 

 

<シリーズ・勇気づけの暮らし・67>


安倍晋三氏銃撃に絡んで某宗教団体が槍玉に挙がっています。

 

高額な献金を絞り取って信者の生活を破壊したり、信者獲得活動にノルマを課したりするエセ宗教団体は、犯罪組織に近いものを感じますし、宗教を掲げるテロ組織等と合わせ、ここで取り上げる価値のないものです。

 

選挙で勝ったからと言って、ヤバい組織と持ちつ持たれつの関わりについて開き直りを見せる先生方も同様です。

 

ところで、これらをホントの宗教だと思い込んで入信し、のめり込むのは本人の自己責任であり、目が覚めたら脱会等すれば良い訳です。

 

今回の事件では、この親が自己破産した時期にもよりますが、救済を求める手段を取らず、またその財産が当てにできなくなったからと言って、銃撃にまで辿り着いてしまう親依存は、自立をはかる為に心理療法を要する事例でしょう。

 

逆に、こうした事件を警戒して、信仰そのものにアレルギー反応を起こす方々が増えてしまう事も無視できません。

 

極端になると、無神論を掲げる社会主義の様に、自力救済の為に闘争も辞さないと言う傲慢さや、今流行りの独裁に近づいてしまう事も思い起こして頂きたいのです。

 

そこで、アドラー心理学が重視しているところに注目して頂けるなら、極端を避けた普遍性、他力と自力のどちらの救済も認める柔らかい決定論、そして利他的な共同体感覚、これらに照らして賢い選択をする事が、信仰を通して幸福になれる道なんだなあと改めて思う訳です。

 

多様性と普遍性、どちらも大事ですが、前者は人、後者は神に大きく関わって来る様な気がします。

 

ここに認めざるを得ない線引きがあるのでしょうか?

 

様々な価値観を認めつつも、それら全てを受け入れ承認を求める事は不可能なので、普遍性に依り頼んで対応する事は、幸福への近道と成り得るのかも知れません。

 

オーストリア時代のアドラーは、一時期社会主義との関わりを持っていて、カトリック等の旧来の教育システムを改革するのに、その政治勢力は大きな力になりました。

 

しかし残念ながらこの成果も、ファシスト政権、そしてそれをも倒したナチスの侵攻によって打ち砕かれてしまいました。

 

なのでアドラー心理学による平和な社会の実現は、権力を行使できる政治組織に頼るよりも、個人個人のより私的な信仰等によって、対立よりも愛と赦しを実践する為の建設的なものと結び付く事が良い結果をもたらすのではないかと個人的に思う訳です。

 

(続く)

 

 

<買収の旅・25>

 

さて、伊那電から他社へ直通する跡継ぎ鋼製車として昭和4年からサハニフ400型も活躍しましたが、前回登場の富士身延車が昭和24年から南側線区に直通を始めた事で特殊任務を解かれ、内2両は昭和27年、荷物室を運転台にリフォームしクハ5900型となりました。

 

後に、より特殊な任務として、何と言う事でしょう!

 

交流電化黎明期の実験車両に抜擢されクヤ490型に大改造。

 

クモヤ490型に改番されたモハ73型に直流を供給する為に整流器を備え付け、ペア方式で、仙山線で試験に供されたのです。

 

試験終了後はその場で営業車に復帰、クハ490型となり、スキー客等を運んだラッキーな車です。

 

他の3両は、やはり仙台を挟んだ反対側、仙石線に転属し、改番整理でサハニ7900型となりました。

 

その中で生き残った2両は、青森県の弘南鉄道に譲渡され、晴れて運転台が付きました。

 

一方、電動車の方は、大正12年からの木造車も、昭和2年製の鋼製車も、似たスタイルで、リニア鉄道館にいる木造国電モハ1型の正面中央窓を狭くした感じ。

 

加えて、ドア部そして前面もつられて車体裾が下に伸びていたので、前面の馬面感が目立ちました。

 

これらは、先述の富士身延車と交代し、1200V車ながら、600V富山港線や、750V可部線に移って行きました。

 

このケースでは電装解除された車もありましたが、モータ付きで残ったものには、フル・ノッチでも半分程度しか電圧がかかりませんから、スピードはユルユルだったと思われます。

 

伊那電デ122→デハ122(改番)→国鉄モハ1922(買収→改番)。

 

とここまでのストーリーで終われば、めでたし、めでたしなのですが、またまた三河鉄道がらみで大きな疑問符が。

 

買収前の昭和3年、1200V木造電動車デハ110が三河に譲渡されデ201、後に名鉄合併でモ1101となります。

 

でも、三河の鉄道線は最初から1500Vなんですよ!!

 

どうしてこの様に1500Vで走れるのに、伊那電では面倒な付随車による直通運用をしたり富士身延車の助けを借りたりしたのか??

 

不思議でなりません。

 

1両だけだったので、譲渡と言いながら、またもや自社工場でミステリアスな細工でも行った?

 

例えば、絶縁を強化した上、抵抗器をかませる等して自車内で降圧すれば、1200V以上がモータにかからない様にできそうです。

 

切り替え装置が必要となるので伊那電からの直通用ではこれをやらなかったのでしょうか?

 

真相は闇の中なので、どうにもスッキリしない事例です。

 

尚、こんなミステリーが起きるのは、伊那電の社長が三河の専務を務めていたからですね。

 

(続く)

 

 

<鉄道動画集>

 

YOU TUBE「スヌーピー1」からご覧下さい。