函館本線函館起点147.6kmに上目名駅があった。あの伝説のC62重連急行ニセコ(104レ)の撮影名所である151キロポストの最寄駅でもあった。

駅周辺に集落はもとより人家といえるものはなく、どうしてこんなところに駅を作ったのかと思うような立地であった。駅員が配置されているのにも驚いた。熱郛側・目名側いずれからも上り勾配のサミットに位置していることから、列車交換のための信号場機能を果たしていたのだと思う。

↓上目名駅で交換する上下列車。右が森発札幌行の45レ、左が小樽発函館行の130レ

僕が初めて上目名駅を訪れたのは1980年12月。倶知安07:51発の130レに乗り08:49に上目名に着いた。快晴の朝だった。さっそく151キロポスト目指して歩き始める。天気が良いと歩くのもあまり苦にならない。程なくして151キロポストに到着。定石のハイアングルで撮るべく線路脇の斜面を登ろうとするが、サラサラのパウダースノウに腰まで体が埋まってしまい、雪を掻くばかりで全く登ることができない。たった数メートルの高さなのでなんとか登れないかと悪戦苦闘するが、やはりダメ。せっかく151キロポストまでやってきたというのに断念せざるを得なかった。仕方がないので近くの線路端から撮影することにした。

↓151キロポスト付近の様子

結局その日はそこにずっといて、本命の104レ(急行ニセコ)を撮影した。C62重連時代から、104レが来る頃になると雲が湧いてきて吹雪くと言われていたが、この日はそんなこともなくずっと晴れていた。

あまりパッとしない初訪問であったが、駅で記念に硬券の入場券を買って倶知安のニセコ•ユースホステル(YH)に戻った。

↑↓朝日を受けてキハ40が目名からの坂を登ってきた。

↓104レのお出まし。この日は珍しく定時にやってきた。

次の訪問は年が明けた1981年3月。昼前に上目名駅に着いた。曇っていたが、3月になり雪も締まって斜面を登れるだろうと思っての再訪であった。ひとりトボトボと歩いてたどり着いた151キロポストの手前のカーブ。当初の読み通り雪の斜面を登ることができた。そろそろ104レがやってこようかという頃になって雪が降り出した。そんな中で現れた104レは三つ目のDD51が先頭に立っていた。思い描いていた通りの写真を撮ることができ、意気揚々と駅に引き返した。願わくば14系編成でなく旧型客車編成のニセコだったらと思ったが、致し方ないことである。

↓降雪の中を104レがやってきた。このへんの写真は拙著『Excellent Railways ー遥かなる鉄路ー』に収録しようかどうか最後まで悩んだが、編集上の諸般の事情により断念せざるを得なかった。

駅待合室にはC62重連の写真が所狭しと飾ってあり、どれもファンから送られてきたもののようだった。中にはキネマ旬報社発行の『蒸気機関車』誌編集部員の写真もあって、その人は実名とペンネームを使い分けていることを知った。

この撮影旅行では10日後にも上目名にチャレンジした。ニセコYHで同室だったN大のMさんと一緒に出かけて、151キロポスト付近でキハ40や客レを撮ったりして時間をつぶした後、本命の104レは150キロポスト付近の斜面に登って撮影した。この日も三つ目のDD51が先頭だった。

↑↓151キロポスト付近を行くキハ40と客レ

↓10日前と同じ場所にて縦構図で撮影

そして、目名始発の下り列車に乗るため、そのまま二人で目名駅まで歩いた。途中で急行宗谷がやってきたので、線路端で撮影した。目名駅ではO大のYさんと出会ったが、僕の属する鉄研のS先輩の高校同級生と知って驚いた。もっと驚いたのは、蒸気機関車が走っているわけでもないのに目名駅に3人もの鉄チャンが集まったこと。観光地でもない寒村の小駅でのちょっとした事件であった。

↓目名まで歩いて向かう途中で捉えた急行宗谷。当時は函館発稚内行であった。

この都合3回の訪問で満足したのか、それ以降上目名を訪れていない。上目名の熱郛側にある大きなカーブは下りC62重連急行ニセコ(103レ)の撮影名所だったが、トンネルを越えなければならずアクセスのハードルが高かった。ダイヤ改正のたびに急行ニセコの編成が短くなっていったこともあり、苦労してまで撮りに行こうという気にはなれなかった。そうこうしているうちに上目名駅は1984年3月31日限りで廃止(廃駅)されてしまった。