東高野街道を行く(道明寺天満宮編) | としのブログ

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菅原道真公ゆかりの天満宮




先に紹介した古代道明寺の講堂がこの付近にあったようですが、全く遺構は残っていませんので、このまま道明寺天満宮へ行ってみます。




I01  道明寺天満宮は少し高台にありますので、神門には少し階段を上がります。


階段の横には立派な常夜燈が左右にあります。


これまた真新しい立派な、天満宮と書かれた碑が建っています。



また、神門の左横には「土師窯跡」とあり、説明は漢文なのでわかりにくいですが、日本の陶業の発祥の地であるらしい。


1780年(安永9年)に建てられ神門を潜ります、梅紋が入った幕があります。



I02  神門を入って右手に相撲の土俵があります、これは道明寺天満宮の祭神の菅原道真公の祖先の野見宿禰が相撲の祖と言われた事に端を発したと言われて、毎年9月1日に農業の節を祝う八朔祭と合わせて「土俵入り」を行っています。


I03   神門を潜りまずあるのが、手前に青銅の灯籠と注連縄柱です。


I04  注連縄柱を潜ると、左右にたくさんの常夜燈や灯籠が並んでいます、全ては紹介出来ませんが一部見てみます。

これは一番大きな常夜燈で、1912年(大正2年)の日時があります。




右手の大きな常夜燈は、1830年(文政13年)の常夜燈で支柱(竿)は円筒であるのが特徴です、それに対して左手は1918年(大正7年)の常夜燈で四角ですね、またその上の火を灯す部分を(火袋)と言いそれを支えている下の部分は(中台)は、右手は六角で、左手は四角ですね、まるでここは常夜燈の博物館みたいで中々面白い。


宝暦12年と書かれた灯籠です、それぞれ時代が違ったり元々あった場所が違ったりしたのかも知れません、右側に有るのは「筆塚」で、やはり学問の神を主神祭にしているだけ有って学問→勉強→

筆となり、筆を大切にしていると言う事で毎年4月25日には「筆まつり」を開いといるとの事です。


I05  道明寺天満宮の説明板

御祭神は、もちろん菅原道真、道真の叔母の覚寿尼、日本神話に出てくる天照大神の息子の天穂日命です。


由緒は、垂仁天皇三十二年、相撲土俵で登場した野見宿禰に「土師」の姓とこの一帯の領土を与え、祖先の天穂日命を祀り土師神社と称した事が始まりのようです。

「土師」とは、土を使う「師」と人を指したようだ。


I06  注連縄柱の左手に小さな門があり、「明治天皇行在所」とあります、1877年(明治10年)明治天皇が一時的に宮殿としてご利用されたと言う事です、現在は天寿殿と言う結婚式場です。



I07   明治天皇行在所の碑の前にあるのが手水舎です、コロナの影響で水は溜めておらず、近づくとセンサーで水がチョロチョロと流れます、それはそれで凄いですね。


なんだか懐かしいポンプがある井戸があります、この井戸は1677年(延宝5年)と言うから江戸時代の初期にはあったようです。


I08  中央の参道に戻り鳥居を潜ります。


I09  撫で牛、天満宮には多くの牛がお祀りされています、それは祭神である菅原道真公が丑年の生まれであった事や、道真公が太宰府に左遷され、伯母である道明寺の覚寿尼公に別れを告に来た時、藤原時平の刺客が道真公を襲って来たが、白牛が助けた伝説が残っている為です。

 この青銅製の牛は、同じ場所に戦前まで同じような青銅の牛があったが撤去され長い間台座だけでしたが、2002年(平成14年)の道真公1100年大祭に復興されました、寺院の賓頭盧さんと同じで、自分の病いと同じ場所を撫でると完治すると言われています。



撫で牛の向かいには、その伝説の白牛も祀られています。


撫で牛の横にあるのがさざれ石で、君が代の歌詞の中に出てきますね、ちなみに君が代のさざれ石のモデルは、岐阜県揖斐川町にあるさざれ石公園にあります。


I10  少し進んだ左手には能舞台(能学殿)があります、1815年(文化15年)に建てられました。


I11  道明寺天満宮の拝殿です、1745年(延享2年)に建てられました。


野見宿禰がこの領土と「土師氏」を与えられ、その子孫がこの地に土師神社を創建した後、菅原道真公を主祭神とし天満宮となり、1952年(昭和27年)土師神社は、道明寺天満宮と改名する。





I12  「 元宮土師神社」がある、天満宮が現在の場所に出来るまでは、ここが本宮であった。


I13  復元修羅、1978年(昭和53年)、道明寺天満宮より西に行った旧国道170号を超えたところにあるミツ塚古墳の周濠から古墳を作る際、大きな石を運ぶソリ(修羅)が二基見つかった、その修羅を復元したものである、ちなみにミツ塚古墳は仲姫命仲津山古墳の倍塚である。


I14  白太大社です、菅原道真公が左遷され太宰府に向かう時にお供をした白太夫命を祀っています、白太夫命は本名は渡會春彦と言い、伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の大内人(官職)を務めた渡會高主の六男で、自身も祀官を務め、菅原道真(幼名 道明)に小さい時から支えた人物である。三重県の旧県名である渡会は、伊勢神宮に関係し渡會氏と由来が同じである。


白太大社の拝殿と備前焼の狛犬


I15   拝殿の左手から裏には神社習合時にあった旧道明寺跡の碑がある。


旧道明寺跡の碑であるがはっきりとはわからない。


I16  道明寺天満宮の本殿の裏側


I17  境内の右奥にある和合稲荷社


稲荷社なので、狛犬は狐ですね。


どちらの狐も可愛いです。


もちろん商売の神様で、昔は耕作物の豊作をお祈りしたと思います、毎年2月25日に稲荷大祭を催し餅まきが開かれます、古い習慣ですが、それはそれで楽しみですね。


I18  そして道明寺天満宮と言えば梅園ですね、時期が違うので咲いてはいませんが。


梅園の真ん中に、観梅橋があり登る事ができます。


では登って見ます。


満開時はきっと綺麗な梅園でしょう。


梅園越しに本殿が見えます。


I19  梅園の奥、道明寺天満宮の一番奥に八嶋社があります、八嶋とは土師連八嶋のことで、推古天皇3年、聖徳太子の発願により自宅を提供し土師寺を開基しました、その八嶋を祀っているのが八嶋社です。


さあこれで、道明寺天満宮の一番奥まで行きました、まだまだ紹介しきれませんが、道明寺天満宮はこのへんで、東高野街道に戻る前に近鉄道明寺駅まで寄り道です。


I20  道明寺天神商店街と言います。


I21  なんだか懐かしい雰囲気の商店街です。


I22  近鉄道明寺駅です、とんがり屋根のかわいい駅舎ですね。


駅の横にある「大坂夏の陣」の石碑でこの一帯は道明寺合戦の舞台でもあります。


I23  駅から続く参道の入口にある常夜燈です。


さあ、東高野街道に戻ります。



前編で紹介したH25まで戻りました、ここからはクランクを前方に進みます。


I24   結構広い道を南進します。


I25  街道らしいクランクを進みますが、道幅がぐっと狭くなります。


I26   歴史街道らしい道幅で進みます、前方に西名阪道の高架が見えます。


I27   この西名阪道の高架を潜ると藤井寺市から羽曳野市に入ります。


次編から羽曳野市編になります。


つづく