1995年5月に人事異動でソウルに赴任したとき、韓国には非電化のナローケージ(軌間762mm=2ft6in)が残っていた。水仁線といって、元々は水原(スウォン)と仁川(インチョン)を結ぶ延長50kmあまりの路線だったが、路線短縮によりその頃は水原ー漢大前の20kmしか残っていなかった。

3年間のソウル勤務の予定だった僕は、慌てて水仁線に行かずともそのうち訪問すればいいだろうくらいに思っていて、蒸機の走るソウル郊外線やTGVに似た外観のディーゼル特急が走る京釜線、フランス製電機が太白山脈を越える中央線を中心に鉄チャンをしていた。

ところがその年の12月のある日、『中央日報』という新聞を読んでいると、年内で水仁線が廃止されるとの記事を見つけた。他紙に同様の記事はなく半信半疑だったが、同紙では「電撃的廃止」という表現が使われていたと思う。驚いた僕はその週末に早速撮影に訪れることにした。恥ずかしながら今で言う葬式鉄もいいところである。

↓水仁線の情景。味噌汁軽便の雰囲気はあったが、762ミリゲージのヘロヘロ感には乏しかった。

当時の韓国は庶民レベルでも対日感情が決して良いとはいえず、日本人駐在員がマイカーを運転することは控えるような雰囲気が濃厚だった。韓国人の運転する車との事故などの際に無用のトラブルを避けるためであった。しかし、向こう見ずの僕は自らハンドルを握っていて、マイカーで水仁線を訪れることにした。自宅のあった龍山区のアパート(マンション)から果川を経由して1時間ほどで水原に着いた。

国内で鉄チャンするときと同じように、初めての線区ゆえまずはロケハンをした。すると、漁川(オチョン)という駅の近くに小川が流れていて、そこを鉄橋で渡る水仁線がいい感じで、駐車スペースがあったこともあり、そこで撮ることにした。

その頃の水仁線はたしか1日3往復までに減っていて、朝昼晩に1往復ずつ走るだけだった。途中駅での列車交換はなく、水原を出た列車が終点の漢大前でそのまま折り返して戻ってくるという運用だったと記憶している。つまり全線1閉塞だった。

↓水原ー漁川にて。車内は立ち客であふれ、窓の向こう側が見えない。2両目の乗降扉は故障しているのか開けっ放し。

↓上の写真の列車が漢大前で折り返し、水原に向かう。2点ともライカM3にアダプターを介しCZゾナー50mmを付けて撮影。

冬のソウル近郊は雪こそほとんど降らないものの気温は北海道並みに低く、おまけにこの日は風が強く、列車の待ち時間がとてもつらかった。写真を撮ろうという人間は僕以外になく、下りの933レを逆光側で、上りの934レを順光側で撮った。ライカM3での撮影だった。日本のキハ10系気動車を小型にしたような車両だった。

事前の情報では列車は単行とのことだったが、この日は2連でしかも相当の混雑であった。おそらく廃止を知った人たちが日曜日ということもあり乗り納めに押しかけ、急遽増結したのだろう。当時韓国に鉄道ファンはいないとされていて、市販の鉄道趣味誌などは皆無だったが、乗り鉄はいたのかもしれない。

 

翌週末も水仁線を訪れた。前回は終点までロケハンできなかったので、今回は全線をロケハンしようと早目に自宅を出た。しかし、前日の降雪の影響か国道は大渋滞で、前回の撮影ポイントまで2時間以上を要した。もう列車が通過してしまったかもしれないが、混雑で遅れているかもしれないとダメもとで待っていると、はたして下り列車がやってきた。撮影後車を西に走らせると程々の撮影ポイントを見つけたので、駐車可能な畑に車を停め、築堤を進んできた上り列車を両面撃ちした。

この日も先週に増して寒く、耳が引きちぎれそうになるほど風の強い日だった。2回の訪問で寒さにめげた僕は再々訪問することはなく、水仁線は記事にあった通り年内限りで運転を終了した。

↓列車通過ギリギリに現着し、息を弾ませながら撮影した。

↑↓雪はないが、気温が低く風が強いという厳しい条件での撮影だった。その苦労が画面に反映されないのがつらいところ。M3にエルマー90ミリで撮影。

その後の水仁線であるが、なんと廃止から25年後の2020年9月、水原ー漢大前の開通により全線が復活したという。復活した水仁線は軌間1,435mmの標準軌、交流25,000V•60Hzの電化路線で、首都圏電鉄の一翼を担う重要路線として、ソウルの清凉里(チョンニャンニ)駅から直通列車が運転されるようになったらしい。別に訪問したいとは思わないが、長い時の移ろいを感じないわけにはいかない。