バス旅は続くよどこまでも~駿府ライナーで30年前の高速バス初体験を偲ぶ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

新宿駅南口高速バスターミナルを初めて利用したのは、平成元年10月の開業直後に、新宿と常陸太田を結ぶ常磐高速バス「常陸太田」号に初乗りした時だったと記憶している。

 

 

明治通りから、新宿駅構内と高島屋に挟まれた流入路を使って敷地内に入っていくのだが、当時はタカシマヤタイムズスクエアもなかった時代で、どのような佇まいだったのか、はっきりと覚えてはいない。

「常陸太田」号の新宿到着は19時30分で、既にとっぷりと日が暮れている頃合いだったから、ごみごみした場所に入っていくものだな、という印象だけだった。

 

狭い流入路を徐行するバスの行く手に、突如、深々とVの字に窪んだ急坂が現れた時には、度肝を抜かれた。

コースの頂点に引っ張り上げられたジェットコースターのように、バスは坂の手前で速度を落としてから、つんのめるように坂を下り始め、底に達すると、床を擦らないか心配になるような角度で上向きに姿勢を変え、仰け反るような姿勢で登っていく。

乗っている分には面白かったが、運転手さんは大変だろうな、と思った。

何かの構造物をくぐるためだったのか、それとも、建設中だった高島屋の搬入口が地下にあって、その通路だったのか。

 

 

バスを降ろされた突き当たりは、圧迫感のある天井が頭上を覆い、打ちっ放しのコンクリートの柱や梁が剥き出しだった。

頭上に被さっていたのは、後に高島屋となる建物なのか、駅の構造物なのか、まるで穴蔵のような場所で、バスが中央の太い柱をぐるりと時計回りに回る位置で乗り降りさせるという、まさに急ごしらえの構造だった。

 

新宿の高速バスターミナルと言えば、「中央高速バス」などが発着する西口が有名で、その出入りも狭隘路であったから、過密な都心部にターミナルを設けるのは大ごとなのだな、と合点した。

 

 

新宿駅南口に高速バスターミナルを設けたのは、それまで東京駅八重洲口を拠点としていたJRバス関東だった。

国鉄の分割民営化から2年を経て、経営を軌道に乗せようと懸命だった同社が、なりふり構わず新宿に進出したのか、と目を見開いたことが昨日のようである。

 

その後、新宿駅南口高速バスターミナルを発着する路線は、東北や北関東、信州、北陸、中京・関西、山陽、山陰、四国方面まで、驚異的な勢いで増加した。

東京駅から東名高速道路を経由して中京・京阪神方面を結ぶ夜行高速バスとして、昭和44年から運行されている「ドリーム」号がある。

伝統の自社路線に追いつき追い越せと言わんばかりに、新宿駅南口から中央自動車道経由の「ニュードリーム」号が次々と拡充されていく様は、新たな時代の到来を思わせて、バスファンとしては大いに心を躍らせたものだった。

 

 

平成3年の新南口の開設に伴い、2代目のターミナルが改札口の真下に移転すると、外見は綺麗になったけれど、中に足を踏み入れれば、乗車券売場や、乗降場と同じ空間の一角を共有する待合室は、夏が暑く冬寒く、排気ガスの匂いが立ち込めて、決して居心地のよい場所とは言えなかった。

 

新宿駅の埼京線ホームに立つと、柵越しにバスターミナルの全貌が丸見えで、電車を待つ間に様々な行き先の高速バスが出入りするのを楽しく眺められるのは面白かった。

 

 

新宿駅南口は、大正14年に建設された甲州街道の跨線橋の北側に設けられ、昭和20年まで、京王線の電車が南口の東側にある駅まで、路面電車として運転されていた。

戦時中に電力不足で電車が跨線橋を登れなくなり、西口に駅を移転したのは有名な話である。

 

東口から西口へと発展を遂げた新宿駅周辺の街並みが、平成に入って南口に裾野を広げ、平成3年に跨線橋の南側に新南口が開設され、平成8年に新宿貨物駅の跡地を利用したタカシマヤタイムズスクエアが新南口に隣接して完成し、平成10年には、小田急線の線路に蓋をして新宿サザンテラスができ、タカシマヤタイムズスクエアと線路上の歩道橋であるイーストデッキで繋がっている。

 

 

平成23年5月に「バスタ新宿」の建設工事が始まり、3代目のバスターミナルは更に南に追いやられて、代々木駅に近い位置に移転した。

待合室は綺麗になったものの、乗り場が更に手狭になってしまったために、到着便は新宿駅東口のロータリーで客を降ろしていた。

老朽化していた跨線橋の改築とともに、その南側に人工地盤を設けてバスタ新宿とJR新宿ミライナタワーが完成するのは、平成28年4月のことである。

 

何時からどのような工事が行われていたのか定かではないけれど、僕の記憶の中にある新宿駅南口は、常に、あちこちに工事の天幕があり、通行規制をする警備員が立ち、作業車の出入りが絶えることがなかった。

いつ、この街は完成するのだろう、と思った。

 

 

今でも、「バスタ新宿」の賑わいを目にすると、30年前に「常陸太田」号で初めて乗り入れた初代のバスターミナルの、如何にも仮普請といった佇まいが、懐かしく思い出される。

 

僕が新宿-静岡線「駿河ライナー」号を利用したのは、平成28年1月のことで、「バスタ新宿」がオープンする3ヶ月前だった。

「代々木駅バスターミナル」と呼んだ方がいいのではないか、と思うような3代目バスターミナルは、僕が勤めていた職場から歩いても行けるような至近距離であった。

仕事を終えた土曜日の午後に、まずは窓口で14時20分発「駿河ライナー」号の乗車券を購入し、発車時刻まで近くの喫茶店でくつろいだ。

 

 

東京と静岡を結ぶ高速バスには、強い思い入れがある。

 

昭和59年5月に、僕が生まれて初めての高速バスを体験したのが、静岡駅発東京駅行き国鉄「東名ハイウェイバス」だった(「僕の高速バス初体験記①」「僕の高速バス初体験記②」)。

一発で高速バス旅の魅力に取り憑かれた僕は、その後も何度か「東名ハイウェイバス」で東京と静岡の間を行き来して、大いに楽しませていただいた。

やがて、全国に高速バス路線が雨後の筍のように増えていく時代を迎えると、僕の興味は未乗の路線に移り、同じ路線に繰り返し乗る機会が失われていったので、「東名ハイウェイバス」東京-静岡系統からも遠ざかってしまった。

 

コーヒーを飲みながら、最後に静岡へ高速バスに乗ったのは何時のことだったっけ、と遠い記憶をまさぐってみたけれど、判然としなかった。

 

 

今回、「駿府ライナー」号に乗ったのは、静岡に何らかの所用が生じた訳ではない。

静岡に用事で出掛けたことなど、1度もなかったな、と苦笑いが浮かんでくる。

仕事を終えた時に、ふと高速バスに乗りたくなり、だからと言って遠くまで足を伸ばす余裕もなく、職場の最寄りのバスターミナルから「駿府ライナー」号でも初体験してみるか、と思い立っただけである。

 

東京駅を発着する「東名ハイウェイバス」しか運行されていなかった静岡駅に向けて、京王バスとJR東海バスが新宿発渋谷経由の「渋谷・新宿ライナー静岡」号を開業したのが平成19年4月、2ヶ月後にJRバス関東と静岡鉄道バスが「駿府ライナー」号を登場させた。

双方とも静岡市内の停留所が異なっていたが、僕は「駿府ライナー」号が新宿駅南口高速バスターミナル発静岡鉄道新静岡駅行き、「渋谷・新宿ライナー静岡」号が新宿西口高速バスターミナル発JR静岡駅行き、と理解していた。

 

 

新宿の街なかで、何度か、開業直後の「駿府ライナー」号を見掛けたことがある。

「新静岡」と行先を掲げたバスに目を遣りながら、同じ新宿発静岡行きならば、馴染みのJR静岡駅ではなく、新静岡駅に向かう「駿府ライナー」号の方が目先が変わって面白いかな、と思った。

 

JRバスグループ同士が組まずに、それぞれ他の民間バス事業者と別個の路線を開設するとは珍事だな、と思っていたが、平成29年4月に2路線は統合され、起終点の「バスタ新宿」とJR静岡駅の停車は共通になったものの、途中停留所が異なったままである。

 

 

3分の2程度の座席を埋めた「駿府ライナー」号は、定刻に新宿駅南口バスターミナルを後にすると、高島屋の南で明治通りに出て、新宿4丁目交差点で甲州街道に左折した。

この辺りはいつも車が道路から溢れんばかりで、跨線橋を渡って初台交差点で山手通りに左折するまでの僅か2kmを、20分近く費やしたりする。

 

新宿駅西口を発車する「渋谷・新宿ライナー静岡」号の方が山手通りには早く出られそうだが、渋谷マークシティに寄るので、初台ランプから首都高速中央環状線山手トンネルに潜り込み、大橋JCTで首都高速3号渋谷線に入る「駿府ライナー」号の方が、結局は早いのかな、と思う。

大橋JCTは、地下から高架まで70mの高低差を目が回るような螺旋状の流入路で昇っていくたびに、よくぞ過密都市のど真ん中にこのような設備を建設したものだ、と感嘆するけれども、渋滞の名所でもあり、僕はここを通る高速バスに乗っていて、スムーズに進めた記憶がない。

一方の「渋谷・新宿ライナー静岡」号は、渋谷から国道246号線で大橋JCTの先の池尻ランプから首都高速3号線に乗るので、「駿府ライナー」号より渋滞知らずかもしれない。

バスに乗る時間を短くしたければ、渋谷マークシティから乗車するのが間違いないようである。

 

巨大な円筒の中をのろのろと登っていくバスの車内で、ふと、ウサギとカメの競争を思い浮かべたが、「駿府ライナー」号と「渋谷・新宿ライナー静岡」号のどちらかが怠けている訳ではないから、筋違いの連想であろう。

 

 

首都高速3号渋谷線を走り出してしまえば、車の流れは見違えるように滑らかになり、車窓も広々とした郊外らしい景観に移り変わっていく。

多摩川を渡れば東京としばしの別れであり、川崎、横浜北部の住宅地が、起伏の多い丘陵地帯を一面に覆っている。

 

久しぶりに静岡行きのバスに乗っている、と言うだけで、ともすれば「東名ハイウェイバス」東京-静岡線に乗った30年前に引き戻されるような気がする。

 

もちろん、異なる点はたくさんある。

座席定員制で好きな席を選べた「東名ハイウェイバス」と対照的に、「駿府ライナー」号は座席指定で、好むと好まざるとに関わらず、この日の僕は6Dなどという中央部右側の席に押し込められている。

 

 

その代わり、「東名ハイウェイバス」は、タイヤハウスが床から飛び出しているような低床の古びた車両だったが、「駿府ライナー」号は床の高いハイデッカー車両で、視界も良好である。

 

座席については、「東名ハイウェイバス」は国鉄列車のグリーン車と同じ臙脂色の柄で、何となく豪華な気分を味わえたけれども、「駿府ライナー」号に採用されている青い「楽座シート」と比べて、どちらの座り心地が良いのかは分からない。

「楽座シート」は、座面の幅を、それまでの標準だった880mmから940mmに、前後間隔も860mmから880mmに拡大し、がっしりとした背もたれと、100mmも幅のある中央の肘掛けが特徴で、隣りの相客と肩が触れ合うことがないのが良い。

 

この日、僕の隣りには若い女性が座ったが、「楽座シート」ならばそれほど身を縮める必要がない。

そもそも、僕が頻回に利用していた時代の「東名ハイウェイバス」東京-静岡線では、隣席が埋まるような混雑を経験したことがなかったので、比べようがないのである。

 

 

一時は「するが」号と銘打った特急便が運行された時代もあるけれど、東京駅と静岡駅を結ぶ「東名ハイウェイバス」東京-静岡線の大半が急行便で、高速道路上のバスストップに小まめに立ち寄っていく道中だったので、新宿を出てから静岡市内までノンストップの「駿府ライナー」号とは、走り方も自ずと異なっている。

 

新旧の路線で色々と変化が見られるけれども、何れも高速バスの進化と捉えるべきなのだろう。

 

乗客の車内での過ごし方も30年前とは大違いで、隣りの女性は、発車してから、ずっとスマホをいじるのに余念がない。

それが進化と呼べるものかどうか、僕には分からない。

僕は移ろい行く窓外を眺めている方が、ずっと性分に合っていて、どれだけ歳月が流れようが、こればかりは変わりようがない。

 

 

「東名ハイウェイバス」東京-静岡線の初乗りは上り便だったので、車窓の順番は逆であるけれども、それだけに、時を遡っているかのような錯覚に陥ってしまう。

 

用賀の東京ICで首都高速と東名高速道路の構造の違いに驚いたこと。

地の果てまで続いているかのようにひしめき合う、住宅の多さに度肝を抜かれたこと。

東京料金所の敷地の広さに目を見張ったこと。

 

鉄道では見たこともない車窓の新鮮さと、最前列の席から眺めた運転手の巧みなハンドルさばき、何よりも高速バスの走りっぷりの素朴さや小気味良さに魅入られて、静岡から東京まで、飽きることは一切なかった。

当時の僕は運転免許を持っていなかったが、感謝の挨拶のハザードランプの点滅や、車線を譲る際にヘッドライトを消すなどのプロドライバーの慣習も、高速バスで知った。

 

すっかり高速バスの虜になって30年、人生の様々な場面で、僕は高速バスに乗ってきた。

「東名ハイウェイバス」に乗った頃の自分に比べれば、「駿府ライナー」号に乗っている僕は、少しばかりすれっからしになって、少々のことでは感動しなくなっているけれども、この日は、目に入る全てのものが懐かしく感じられた。

 

 

圏央道を分岐する海老名JCTと小田原厚木道路を分岐する厚木JCTで、大蛇のように視界を閉ざす流入路が後方に過ぎ去ると、建物が点在する田園の彼方に連なっていた丹沢の山々が、いつの間にかこちらに近づいている。

東名高速は少しずつ勾配を増して、やがて箱根の山越えに挑んでいく。

 

この辺りは「東名ハイウェイバス」の車窓でも見所の1つだが、30年前にはなかった拡張工事が平成3年に完成してからは、一層面白くなった。

下り線は、旧来の上り線を下り線に転用することで車線増を実現し、上り線は新たに3車線の新線を建設したのである。

旧来の上下線は鮎沢川の谷筋に沿っているが、新しい上り線は箱根外輪山の尾根筋を横切るように造られたので、旧線に比してトンネルと橋梁が多く、大井松田ICと吾妻山トンネルの間は既存線の北側、都夫良野トンネルから小山バスストップまでは南側と、捻れた線形になっている。

 

旧線と新線の構造の大きな差異は、そのまま30年間の設計思想や建設技術、そして我が国の国力の発展を感じさせる。

 

 

下り線は、平行する旧来の上下線双方を使っているものの、合体させた訳ではないので、大井松田ICのすぐ先で左ルートと右ルートの二股に別れる。

 

幾度か自分の運転で通ったことがあるが、漠然と、山側に敷かれている右ルートの方が交通量が少なく、走っている車の平均速度も速いような気がしていた。

左ルートに鮎沢PAやバスストップが設けられているので、「東名ハイウェイバス」は左ルートを走らざるを得ないのだが、「駿府ライナー」号の運転手さんがどちらを選ぶのだろう、と興味津々だった。

 

 

これまでに乗車した高速バスは、大井松田ICと御殿場ICの間で停車したり休憩する予定がない路線でも、左ルートを通る場合が多く、稀に右ルートへ入っていくバスに当たると、運転手さんが飛ばし屋なのかな、と前方を透かし見たりしたものだった。

左右のルートも景観がそれほど変わるはずもなく、乗客としては、安全かつ時間通りに目的地まで運んで貰えればどちらでも良いのだが、何となく、昔の上り線を逆走している、というワクワク感があって、右ルートの方が好みだったりする。

 

この日の「駿府ライナー」号は、よほど遅い車を抜かなければならない場合を除いて、常に左の車線を走り続ける慎重な運転手さんがハンドルを握っているようで、安心感は抜群だったが、大井松田の先では当然のように左ルートにバスを進めた。

 

 

この区間は、ぐいぐいと高度を上げながら、酒匂川の橋梁を渡る頃に、身もすくむような高さから谷底を見下ろす眺望が楽しいのだが、右側の座席を指定されているので、左ルートと並んだかと思えば上下にずれたりする右ルートばかりを眺める羽目になった。

 

それでも、見晴らしが効く場所では、重畳と連なる山々が目に入って、箱根とはこれほど奥深かったのか、と圧倒された。

しかも、折り重なる稜線の彼方に、富士山が顔を覗かせたではないか。

東名高速道路を下る高速バスに乗っていて、厚木付近や、御殿場以遠の静岡県内以外の区間で、富士山を目にした記憶はなかった。

たまには右側の席も悪くないではないか、と思う。

 

 

左右の下り線ルートが合流し、箱根越えの頂点を極めた「駿府ライナー」号は、足柄SAでしばしの休憩をとった。

 

「東名ハイウェイバス」も足柄SAで休憩し、僕にとって初めてのサービスエリア体験となったのだが、最初は、運転手さんから休憩時間が7分と聞いて、中途半端な数字に戸惑った覚えがある。

「東名ハイウェイバス」が駐車したのは本線に近い専用スペースで、トイレから少しばかり離れていたが、用足しを済ませ、売店で幾許かの買い物をしてバスに戻れば、ちょうど良い頃合いで、よく練られた休憩時間ではないか、と感心した。

「駿府ライナー」号が「東名ハイウェイバス」の伝統を受け継いで7分休憩したのか、もう少し長かったのか短かったのか、よく覚えていないから、やはり程よい長さだったのだろう。

 

駐車場のあちこちに除雪した雪が残っていたのと、大阪へ向かう「東海道昼特急大阪」号が一緒に停車していたこと、何よりも、富士山が全貌を表したことが嬉しかった。

 

 

箱根越えの登りで眺めた富士山は多少の雲を被っていたが、その後はすっかり雲を打ち払い、富士川の先まで「駿府ライナー」号の車窓を飾ってくれた。

 

登りより勾配が緩やかだが、カーブの多い下り坂を一気に駆け下った「駿府ライナー」号は、沼津ICを過ぎて富士川を渡り、製紙工場の煙突が林立する富士市街を横目に見遣りながら、由比の海岸に出る。

 

 

国道1号線と東海道本線も、迫り来る山々に押されるように近づいてきて、狭い由比の町なかで寄り添って進む。

最も海側を走る東名高速から駿河湾を一望するこの区間は、東京と静岡の間の車窓の白眉だと思っている。

右側に座っているのが惜しくなるけれども、車窓をいっぱいに占める海原はこちらの席でも充分に眺められるし、由比の鄙びた町並みや、東海道線の由比駅が目に入ってくるから、なかなか楽しい。

 

スマホからずっと目を離すことがなかった隣席の女性が、ふと顔を上げて海に目をやり、そのままじっと眺めていた。

 

 

薩多峠を越えた東名高速道路は、一転して山あいに足を踏み入れるが、520mの興津トンネル、790mの清見寺トンネル、370mの袖師トンネルを続け様にくぐり抜けると、静岡平野に飛び出し、間もなく減速した。

こんな所で速度を落とすのが怪訝に感じられたが、「駿府ライナー」号は、平然と清水ICを降りていく。

 静岡ICまで行かないのか、と驚いた。

 

「駿府ライナー」号と「渋谷・新宿ライナー静岡」号は、静岡市内に幾つかの停留所を設けている。

前者は北街道と呼ばれる県道67号線を、後者は南幹線と呼ばれる県道407号線を経由する、と聞いてはいたけれども、時刻表に記載されている永楽町、押切、大内観音、瀬名川、古庄、沓谷、三松といった静岡側の停留所を見ても、何処にあるのか、全く気に留めていなかった。

まさか、平成15年に静岡市と合併した旧清水市内から停車していくとは思わなかった。

 

  

「東名ハイウェイバス」東京-静岡線は、静岡ICで東名高速を降りて市内に入る経路だった。

静岡市内が無停車だったので無理もないと思うのだが、何度も訪れているにも関わらず、静岡市内でどのような道路を使ったのか、車窓から眺めた街並みを記憶に留めているものの、僕は全く理解していなかった。

「駿府ライナー」号の市内停留所も、静岡ICと静岡駅の間に置かれているのだろう、と早合点していたのである。

 

「東名ハイウェイバス」の東京から静岡までの所要時間は、特急便で約3時間10分、各駅停車の急行便で3時間20分~30分、「駿府ライナー」号は高速道路上のバスストップには殆んど寄らないものの、「東名ハイウェイバス」急行便と似たような時間を費やしているのは、このためだったのか、と了解した。

 

 

清水の街は、大井川鐵道を利用した帰路に、静岡鉄道の電車の初乗りを兼ねて訪れた曾遊の地である(「紅葉の大井川鐵道紀行 ~鉄道博物館のような本線と井川線アプト新線のED90型機関車~」 )。

あの時は、平成18年2月に開業した清水駅発東京駅行きの高速バス「しみずライナー」号で東京に戻った。

 

「しみずライナー」号があるのに、「駿府ライナー」号が旧清水市内を経由するのはどうしたことか、と思うけれど、平成24年から両線共通の往復割引券が発売されたので、なるほど、と了解した。

 

 

北街道は清水市内から東海道本線、東海道新幹線の北側に渡り、梶原山と日本平に挟まれて平地がすぼまる辺りで、東名高速道路としばらく並走する。

そのうちに、東名高速は東海道本線と東海道新幹線を横切って南へ大きく蛇行し、静岡ICは静岡駅の南側に位置しているが、「駿府ライナー」号は市街の北側から静岡駅に向かう。

 

車窓は暮れなずむ街並みを映し出し、梶原山の麓では、えらく寂しい場所を走るのだな、と心細くなった。

 

 

冬の日暮れは駆け足で、清水ICを出た時には明るかった窓外が、17時34分着の新静岡駅に停車した頃には、すっかり暗くなっていた。

「駿府ライナー」号の終点は、平成21年から乗り入れるようになったJR静岡駅だった。

 

静岡駅は、僕が初めて高速バスに乗り込んだ原点とも言うべき場所である。

思い起こせば、気晴らしに当てもなく鉄道を乗り継いで静岡まで来たものの、帰路の交通手段について悩んだ挙げ句、ハイウェイバスを使ってみようか、と思い立ったことが、全ての始まりだった。

乗車券売場に歩を運べば、東京行き「東名ハイウェイバス」急行便が発車間際で、係員に促されて慌てて駆け込んだ。

発車時刻が差し迫り、もしかすると過ぎていたかもしれないのに、財布には大枚しかなく、申し訳ないと冷や汗をかいたことまで、ありありと脳裏に蘇ってくる。

 

あれから30年、様々な高速バスに乗ったものだ、と思う。

もし、あの時「東名ハイウェイバス」に乗らなければ、僕の人生は変わっていたのだろうか。

 

久しぶりに東京からの高速バスに乗って静岡駅を訪ねてみたけれども、再開発で一新されたのか、それとも昔の「東名ハイウェイバス」乗り場と場所が違うのか、周りを見回してみても、30年前の面影は何処にも残っていなかった。

 

 

この旅の1ヶ月後、新宿四丁目の交差点で静岡鉄道バスの「駿府ライナー」号を見掛けた。

新宿駅南口バスターミナルを発車したばかりのようで、街の派手やかなネオンに照らされながら、甲州街道に左折していった。

以前にも見かけたことのある場所で、既視感に襲われたような妙な心持ちだったが、以前は「新静岡」だった行先表示が「新静岡・静岡駅前」に変わっているのを見て、時代の流れを感じるとともに、無性に旅心を催した。

 

まだ乗りたいのか、と我ながら苦笑したけれど、僕は、昭和59年5月に静岡駅で「東名ハイウェイバス」に乗り込んでから、平成28年1月に静岡駅で「駿府ライナー」号を降りるまで、このような心境を繰り返して、30年間高速バスに乗り続けて来たのである。

 

そして、これからも──。

 

ふと、「線路は続くよどこまでも」の歌が頭に浮かんだ。

高速バスに、そのような人口に膾炙した歌はないけれども、「野を越え 山越え 谷越えて 遥かな町まで 僕たちの 楽しい旅の夢つないでる」、僕にぴったりの歌であった。

 

 

 

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