昭和人俊やんの鐵活日誌回顧録帳

筑豊電鉄2000形引退~さよなら西鉄由来の連接車

筑豊電鉄(筑鉄)2000形が今秋引退するそうである。

筑鉄はかつて西鉄北九州市内電車(西日本鉄道北九州線)に乗入れていた関係から、西鉄の路面電車が使われていた。当初は筑鉄所有車がなく、西鉄側からの片乗入れだった。

2000形は、西鉄福岡市内電車(西日本鉄道福岡市内線)および同北九州市内電車の連接車を移籍~改造した車で、筑鉄初の自社所有車であった。長らく主力だったが、筑鉄自社発注の3000形・5000形導入および運用減で数を減らし、2003ACB(※1)のみが平日朝ラッシュ用で残っていた。

 

唯一デジタル画像として所有していた筑鉄2000形の写真。黒崎車庫に休車留置中の2000形2007ACBで、現在はすでに廃車となっている。黒崎駅前駅ホームから望遠で撮影。

 

2003ACBの引退で、筑鉄から西鉄路面電車由来の連接車は全廃となってしまう。

私は幼少期を西鉄北九州線沿線、小学生時代を筑鉄沿線で過ごしており、通勤通学でこそ使ってないものの、西鉄・筑鉄の電車に乗る機会は多かった。筑鉄はほぼ全列車連接車(※2)、西鉄北九州線折尾口も連接車が頻繁に入っていた(※3)。幼少期の頃、とある事情から北九州本線~枝光線直通(戸畑行または幸町経由系統)に度々乗っていたが、連接車で中央町のデルタカーブを通過した時の感動は、未だに忘れられない。

西鉄北九州線・筑豊電鉄線の電車は、私の鉄道趣味の原点の1つであり、その最後の生き残りが引退するのは、私にとって非常に寂しいことである。

今年の夏季休暇、およそ2年半ぶりに北九州の実家に帰省の予定だが、残念ながら2000形に乗ることはできない。ただその頃には引退記念乗車券等が出ると思われるので、是非購入したいと思っている。

 

約60年(西鉄時代含む)近い活躍、お疲れ様でした。

 

【おまけ写真】

2015年夏、私単独(通常はヨメ同伴)で帰省した際に撮った筑鉄の写真。

(冒頭の黒崎車庫2007ACBの写真含む。)

なお、撮影当時は全列車車掌乗務だったが、現在は平日朝の一部を除きワンマンとなっている。

 

黒崎駅前駅にて、筑豊直方行。

 

通谷駅にて、楠橋行。

現在の主力である3000形の標準塗装車。

 

永犬丸駅にて、筑豊中間行。

3000形は筑鉄初の自社発注車だが、走行機器は西鉄北九州線1000形連接車(~後の筑鉄2000形2100番台)から流用した吊掛車である。

 

西日本の難読駅名第3位にランクインされた「永犬丸(えいのまる)」駅(※4)の駅名標。

駅名(地名)の由来は、大昔入江だったこの地に出入りしていた船の名前から来ているとか?

ちなみに第1位は琴電琴平線「挿頭丘(かざしがおか)」駅だそう。

 

【注釈】

※1:

A車=パンタ・制御器搭載の制御電動車(モハ・モ)、B車=補器類搭載の制御電動車(モハ・モ)、C車=中間付随車(サハ・サ)の意。

正式呼称ではないが、2003ACBは、モハ2003A+サハ2003C+モハ2003B(西鉄流だとモ2003A+サ2003C+モ2003B)と表現することができる。

 

※2:

当時の記憶だが、一部ワンマン化未改造ボギー車の運用もあった。

 

※3:

Wikipediaによると、1973年9月時点の日中ダイヤで、「砂津 ~折尾 連接車(車掌乗務) 10分間隔」とある。

 

※4:

筑鉄は西鉄北九州市内電車の支線的な扱いが長かったことから、地元民は筑鉄の駅を「電停」と呼ぶ人が多い(事実、実家の親も「電停」と言っていた。)が、軌道線ではなく普通鉄道線なので「駅」と呼ぶのが正しい。

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