今日はこれに尽きますね。

昭和57年6月23日、つまり40年前の今日、東北新幹線が開業しました。

後述しますが様々な事情から、最初の開業区間は中途半端感が否めない大宮-盛岡間という暫定的なもので、東京-新青森間が全通するまで実に28年を要しましたが、この5ヶ月後に開業する上越新幹線とともに、 “北の鉄道” の輸送形態を大きく変えたのは皆さんもよくご存じのことかと思います。でも、新幹線の建設は、国鉄の歴史において常に政治とそれに群がる “悪い大人達” が絡み合った関係で、ある意味で「国鉄の黒歴史」という人も少なくありませんでした。今回は新幹線開業という華々しいドキュメントではなくて、新幹線がもたらした “罪” の方を掘り下げてみようと思います。

 

昭和30年代、東海道本線の輸送需要が年々高まって、このままだと線路容量がパンクすると危惧した国鉄は、様々出された案の中から、在来線とは別の新たな鉄道の建設を目論みます。戦前に計画されながら戦争で凍結した「弾丸列車構想」を再度叩き台にしたもので、それがいわゆる「新幹線」になるわけですが、東海道新幹線を建設するにあたって、当時の識者は「自動車が普及しているわけだし、高速道路が網の目のように通れば、そんなもん要らねぇ」と新幹線建設には疑問視していました。実際に建設費用が膨らみ過ぎちゃって、東海道新幹線開業後は赤字の連続でしたよね。

 

でも、いざ開業して本領を発揮すると、高速大量輸送、なお且つ安全正確であると良い事ずくめ。あれだけ反対論を唱えていた識者は掌を返し、「全国に新幹線を走らせよう」と翻意、新幹線建設のための法案まで答申する始末。甚だ雑駁ではありますが、そうして出来た法案が「全国新幹線鉄道整備法」です。政治を巻き込んだ悪法っちゃあ悪法なんですけど、まず手始めに東北、上越、そして成田の3つが選定・整備されることになります(その後、北海道、長崎ルートを含めた九州、北陸の各新幹線も整備対象に)。「えっ!? 成田ってあの成田?」と思う方もいると思いますが、そうです、あの成田です。羽田空港に変わる新しい空の玄関口として千葉県成田市に建設することを決定し、そのアクセスで新幹線を走らせようというものでした。でも、成田空港の建設は地元民の大反対合唱と、それに呼応した反社組織によって時に暴徒化したのは歴史の授業とかで習ったかと思いますが、成田新幹線もルートが予定されていた沿線自治体と地元住民の大反対合唱でこちらは計画そのものが消滅しました。既に建設が進められていた東京地下駅と東京と千葉湾岸部の路盤は後に京葉線に転用され、成田付近は京成とJR東日本によって活用されています(成田スカイアクセスも同様)。

 

成田新幹線は建設されることはありませんでしたが、東北4県と新潟県の人々は「オラが町に新幹線を」と概ね容認されたようで、東北地方や新潟県では用地買収も建設も順調に進められました。でも、この2路線、特に上越新幹線は新潟出身である時の内閣総理大臣の “肝いり” って言われたりして、「総理大臣のために新幹線を通した」と大きな関心事になりました。

 

一部完成した区間で試験車両を用いたテストが開始され、営業用車両となる200系が完成して俄に開業ムードが高まりつつあった昭和50年代中盤。

最初は東北、上越新幹線同時開業を目論んでいましたが、上越新幹線のトンネル工事中に異常出水というトラブルが発生して工期が大幅に遅れました。また、肝心の大宮-東京間が沿線住民の大反対合唱によって、用地買収が難航し、工事そのものが出来ない状態に。それで夏季繁忙も近づいていたことから「とにかく、出来上がっている所から走らせよう」ということで、大宮-盛岡間の暫定開業になったわけです。この区間は並行して在来線(通勤新線~後の埼京線のこと)を建設することで何とか合意に達し、開業から3年後の昭和60年にまず上野まで、東京駅へは民営化後の平成3年にようやく乗り入れることになります。

そうそう、企画段階では東京駅で東海道新幹線と相互乗り入れも検討されていたんですが、民営化後に雲散霧消してしまいました。採算性の問題もあるんでしょうけど、JR東日本とJR東海が犬猿の仲では、相互乗り入れなど夢のまた夢になります。

 

結果的に、「全国新幹線鉄道整備法」で企画の俎上になった3路線全てが何かしらの問題を抱えていたことから、「悪法」あるいは「愚法」って言われちゃったりしまして、加えて良いイメージが湧きません。彼方此方への癒着が問題になった日本鉄道建設公団も然りね。

でも、冒頭お伝えしたように、今や東北地方は新幹線無しでは生きていけません。当時の国鉄や政治家などは「先を見越した」新幹線構想だとは思っていなかったんでしょうけど、結果的にそうなってしまった。まさに「棚からぼた餅」です。

 

今の東北新幹線は「はやぶさ」をフラッグシップに、「はやて」「やまびこ」「なすの」があり、それに山形新幹線の「つばさ」、秋田新幹線の「こまち」が加わりますが、開業当時は速達タイプが「やまびこ」、各駅停車タイプが「あおば」でした。18種類を数えた上野発着の在来線電車特急のうち、いち早く消えたのは「やまびこ」だったわけですが、「はやて」や「はやぶさ」の登場で「やまびこ」が「あおば」の立ち位置に “降格” してしまいました(「あおば」は平成9年に廃止)。

ただ、全列車が各駅停車かといえばそうではなくて、速達タイプも残されており、それこそ「やまびこ」の立ち位置って何よ?って言いたくなります。「はやて」なんかは早朝深夜に北東北と函館を結ぶ2往復だけになってしまい、JR東日本は何を考えているんだかよく解りません。

 

当時からあまり新幹線って興味が無かったんですけど、東北・上越新幹線はもっと興味の対象外で、200系も好きじゃなかったです。在来線の特急や急行も新幹線に移譲する形でどんどん消えていきましたし、そういう意味で昭和57年という年は私にとって、鉄道趣味の大きな曲がり角になったのは確かでした。

因みに、JR東日本のコーポレートカラーである緑は、東北・上越新幹線のグリーンラインが由来であることは忘れていません。

 

 

【画像提供】

タ様

【参考文献・引用】

JR時刻表2022年4月号 (交通新聞社 刊)

ウィキペディア(東北新幹線、やまびこ)