また日にちが経ってしまって新鮮味のない記事になってしまいましたが、お付き合い頂ければ幸いです。

 

コロナ禍の影響のため、2年連続で運休になってしまった宗谷本線の観光列車・急行花たび そうやですが、今年2022年シーズンは「今年こそ、行けSOYA」のキャッチフレーズ通り全ての日程が運転され、6月5日(日)の稚内発旭川行を以て無事終了しました。

 

私自身、初運転となった5月14日の旭川→稚内と翌15日の稚内→幌延に乗車、さらに21・22日の両日(実はこの時が本番…)は念願の全区間往復乗車が叶い、満足したつもりでしたが、最終列車となる6月5日の稚内発の空席を、前日の夕方になってえきねっとで拾ったんですよ…😅

 

そんなワケで、ラスト1本の稚内発花たびに乗るため、稚内駅に「ワープ」してきました💨

この日はどんよりとした曇り空で、有終の美を飾る事ができないのは残念…😢朝の気温はひと桁台の6℃前後と、花たび運転期間中で最も寒い…😖4~5月に季節が早く進み過ぎた分、帳尻を合わすかのように一気に逆戻りしてしまった感は否めませんね…。

 

 

 

駅舎(キタカラ)内にある日本最北の駅そば『ふじ田』が早々と営業中だったので、軽く朝食を摂る事に。そういえば、音威子府駅の『常盤軒』閉店の記事で道内の現存する駅そば店舗の項目で稚内の記載が抜けておりました(訂正済)。大変失礼を致しました。

ただ…ここの駅そばは、薄味なのがちょっと物足りないかなぁ…と(あくまでも個人の感想)。

 

 

 

食べ終わり、私は駅のほうへ。

花たびそうや号歓迎パネルが見られるのも、この日が最後。

 

 

 

私はえきねっとで拾った稚内→旭川の花たび急行指定席券(6月4日購入!)と、同区間の普通乗車券を指定席券売機で受取及び購入。今回はあくまでも花たびに乗る事だけを重視したので、LOVEパスを使わない事にしました。

 

 

 

「臨時急行」と表示された発車標ディスプレイ。

結局、稚内駅において花たびの愛称名は表示される事はありませんでした。8時前の時点で改札口には既に数名が並んでおり、やはりフリースペースの座席目当てでしょうか。

 

 

 

キハ54 501(トップナンバー)による音威子府発4321Dが8:08に到着、数名の乗り鉄と沿線民の女子中学生グループが降りていきました。

この車両が南稚内に引き上げた後、花たび車両が入線します。

 

 

 

改札開始に先立ち、稚内市のご当地キャラ『りんぞうくん』『出汁の介』、そして稚内市観光ボランティアガイドの方々が、乗客のお見送りと車内の観光ガイドのためホームに入ります。

 

 

 

そして8:20位に改札が開始され、フリースペース目当ての乗客は乗車口に並び、撮影のファンはそれぞれの場所で花たび車両の入線を待ちます。

そして、8:24にようやく入線。稚内駅は棒線駅になってしまったため、1つの列車しか入る事ができない制約もあって発車時刻までの余裕が取れないのです。

 

 

 

今回はお約束ショットを撮らず(撮れず)。

本当は私もフリースペースに席を押さえようとしましたが、結局景色の良い進行右側は全て埋まってしまい、当初の指定席1号車(進行左側席)に座る事に。まぁ…どうせこんな天気じゃ利尻山も見えないし…。

 

 

 

8:34、盛大なお見送りを受けながら花たび最後の旅立ちが始まります。

 

 

 

次の南稚内駅では、駅員一同のお見送りが。

意外な事に、コチラから乗車する者も数名見掛けました。当駅周辺にもホテルなど宿があるため、その関係でしょうか。

 

 

 

抜海の丘を登り、日本海沿いの利尻山(利尻富士)が見えるスポットに出ると列車は徐行するのですが…言うまでもなく海の向こうには何も見えません😢

結局、花たび運転日に利尻山が見られたのは5月15、22の両日(いずれも上り列車)だけだったのでしょうか?豊富駅までの間観光案内を務める稚内市観光ボランティアガイドの方が(晴れていればこう見えるという事で)、利尻山の写真ボードを持って車内を回っていました…。

 

 

 

日本最北の無人駅なおかつ木造駅舎である抜海駅を通過するのですが、この度の廃駅報道はまさに寝耳に水な話でした…。せっかく地元住民の存続運動の熱意が実ったのに…。塩狩駅みたく、全国の鉄道ファンや秘境駅愛好家、そして観光客から募金を募って(ふるさと納税で返礼品に鉄道グッズというテもある)存続のための資金を集められないモノでしょうか。豊浦町(小幌駅)や幌延町(糠南駅など)とは対照的に、無人駅を観光資源に役立てようとしない稚内市の今回の対応は非常に残念です。

(当日写真は撮れなかったため5月22日乗車分から代用)

 

 

 

抜海駅の次は、日本最北の『ダルマ駅』(貨車駅)・勇知駅を通過します。

稚内市観光ボランティアガイドが「アイヌ語で蛇のいる処(筆者注※「イオチ」が語源。函館本線の余市も同様の説がある)、そんな恐ろしい意味の地名ですが…」と前置きした上で、ここはとても美味しいジャガイモ『勇知イモ』の産地という事をアピールしておりました。

 

 

 

列車は宗谷丘陵の酪農地帯を進みます。

写真には写っていませんが、牛の飼料である牧草ロールの事について稚内市観光ボランティアガイドの方から解説がありました。かつて牧場の象徴だったサイロの代わりとして牧草ロールをビニールに包んで保存する事が現在では主流となり、その包装の色により直射日光の加減で味が変わるとの事です。

 

 

 

花たびの乗客には、乗車区間を問わず上下列車でそれぞれ異なる乗車証明書が車掌から配布され、上り列車は2号車の『山明号』があしらわれています。

 

 

 

9:20、豊富駅1番線に到着。

 

 

 

この日は最終日という事もあり、豊富町のおもてなしとしてご当地キャラ『とよとみくん』のお出迎えや、町の特産品販売がありました(5月22日にも実施)。

 

 

 

 

6月4・5の両日は『宗谷線鉄道施設PRデー』と題して、花たび車内(増結1号車フリースペース)において宗谷本線にまつわる鉄道施設や、その維持管理の取り組みを理解してもらうため、ワイヤレスマイクを用いた解説が行われました。 司会進行は旭川支社の営業社員の方、そして解説を務めるのは名寄保線所の所長さんです。

最初に紹介したのは、保線員が使用する鉄道電話の電話ボックスのお話で、携帯電話の普及で不要になったNTTの公衆電話ボックスを払い下げてもらい、暴風雪が多発する厳しい自然環境において指令などとの通話のやり取りが聞き取りにくい事を防ぐために設置しているとの事でした。

この後も、後に紹介する下平トンネルや問平陸橋など、要所要所で解説がありました。全部で11箇所の解説があったとの事でしたが、それを聞くためには増結1号車へ移動しなければならず、後半の箇所では聞いておりませんので悪しからず。

(抜海駅ポイント付近に設置の電話ボックス。写真はイメージ)

 

 

 

幌延駅1番線には9:45に到着。7分停車します。

 

 

 

ご当地キャラ『ホロベー』と地元住民らのお見送りを受けながら幌延駅を出発。 

 

 

 

雄信内駅にて運転停車し、旭川を6:03に発車した宗谷本線を全線走破する普通列車4323D(※旭川→名寄は321D、幌延→稚内は4325D)と交換します。車両はキハ54 513(宗谷北線仕様のロング延長なし、集団見合式簡リク)

右に見えるペンギンのぬいぐるみに注目…。

 

 

 

宗谷本線唯一にして、日本最北の鉄道トンネル・下平トンネルに入ります。

以下は花たび そうやHP「車窓みどころ その3「下平トンネル」の物語」より引用。

  • このトンネルは、「下平トンネル」と呼んでいます。
  • 宗谷線の同区間が開業した1924(大正13)年にはまだこのトンネルをくぐるルートではありませんでした。
  • 下平トンネルは、1965年に雪崩や土砂崩壊から列車のご利用のお客様を守るために、ルートを変更して掘削したトンネルです。
  • 以前は、天塩川沿いに下平陸橋と呼ばれる15の桁が連なる橋りょうを通るルートでした。
  • しかし、1961年に隣接する斜面から雪崩が発生し、15の桁すべてが雪崩で天塩川に吹き飛ばされる災害が発生しました。
  • 幸い、当時、眉毛にツララが垂れるような極寒の中、雪崩警戒のための警備をしていた工務社員がいち早く雪崩を発見し、列車を止めたことで、お客様と乗務員の命を守りました。
  • 現在は、雪崩警戒員に替わって、この下平トンネルが、このルートを雪や土砂崩壊から守っています。
ところで、下平トンネル開通以前の遥か昔、先程通過した下沼~幌延間(2006年に廃止された南下沼駅の幌延方)にトンネルが存在していました。工事中の飯場で夫婦の惨殺事件があったとの事で、「男女の幽霊が出る」といった怪談が怖れられるようになり、距離も短い事から崩されて切通しになったとの事ですが、その時期は不詳となっています(1948年の米軍撮影による航空写真にはトンネルと思しき構造物は見当たらない。付近には1956年に建立された地蔵尊がある)

 

 

 

糠南~雄信内で見掛けた肉牛の群れが走るシーン。普段ではなかなか見られないだけに圧巻でした。立派なステーキになれよ!(命を頂く事に感謝🙏)

 

 

 

列車は天塩川沿いの区間に入り、その中でも特にハイライトである問平陸橋の区間を走行します。

以下は花たび そうやHP「車窓みどころ その2「問平陸橋」の物語」より引用。

  • 川を横断しない変わった橋は、「問平陸橋」と呼んでいます。
  • 天塩川は春の雪解けで水位が上昇するため、線路の位置を高くする必要があります。そのため、同区間では川を横断しない問平陸橋等の橋を架けています。
  • 【鉄道橋の一般知識】
    この橋りょうは、上路プレートガーダー[plate girder]と呼ばれる橋りょうです。上路プレートガーダーは、桁(ガーダー)の上面を列車の走行路とし、鋼板(プレート)と形鋼の組み合わせによって構成される桁(ガーダー)です。この桁は、1919年(大正8)年6月12日付、達540号により設定された設計図のシリーズです。
  • 【保守の苦労】
    保守上の苦労としては、雪解けの季節など天塩川の水位が上昇すると橋桁に水がつく恐れがあるため警備(黑色の水位)をしています。桁下と水面との距離にしたがって、運転速度を25km/hに減速したり(⻩色の水位)、運転を中止する(赤色の水位)措置を講じています。このような状況になった際には、橋脚が洗堀されていないかどうかを点検して、安全を確認してから列車の運転を再開しています。

 

 

 

10:35、天塩中川駅に到着。約19分停車します。 

 

 

 

中川町のご当地キャラ『じゅえる』は着ぐるみで登場。このキャラはちょうど10年前の2012年に考案され、中川の文字をベースに、アンモナイトや首長竜が棲んでいた太古へ続いていく妖精のイメージでデザインされたそうです。葉っぱの形という事で、「木を植える」をもじったネーミングとなっています。

 

 

 

次の停車駅である音威子府駅は下り列車と同様に停車時間が短いため、天塩中川駅停車中は音威子府村のキャラクター『おとっきー』も登場。面積の86%が森林という同村の「森の妖精」という事で、元々の自治体名だった常盤村から村名を変更して50周年を迎えた2013年に誕生しました。元々存在していた駅名からそのまま自治体名や字名になるというのは決して珍しい事ではないようで、鉄道が輸送手段の地位として高かった時代の象徴といえましょうか。特に音威子府は天北線がかつて分岐していた事から交通の要衝として機関区や保線区など輸送の要だったため、村の人口の多くが国鉄職員やその関係者だった時代が長く続いていたまさに『鉄道村』でしたから…。

 

 

 

ホーム上では、中川町と音威子府村の特産品販売が行われました。

当駅受け取り分の予約販売分ご当地弁当として、『スタミナステーキ丼』『ローストビーフ寿司』の他に、『かに飯そば弁当』のみ予約外分で特別に販売されたのですが、あれこれと写真を撮っているウチに売り切れてしまいました…😥事前に知っていれば早々と買いに走ったのに…。

 

 

 

結局買えなかった『かに飯そば弁当』ですが、5月22日乗車の時に予約購入をしていたのでその時の写真を載せておきます。そばの麺は勿論音威子府そばで、独特の黒い麺とその食感…その味わいは申し分なく、そしてかに飯(カニはかつて興浜北線が通っていた枝幸に因む)も駅弁で見られるソレとは異なり炊き込みご飯で、カニの風味と食感も相俟ってとにかく美味い!もう一度食べたかった…(急遽切符を取れた事情により予め予約できなかった)

 

 

 

私は音威子府村販売分のグッズ類を買う事に。

『宗谷本線応援手ぬぐい』と『頑張れ宗谷本線マスク』のセット、サボキーホルダー(ストラップ)、そして特産品の音威子府そば(畠山製麺謹製)の麺を購入しました。

 

 

 

音威子府の代名詞ともいえた音威子府そばですが、日本有数の駅そばだった『常盤軒』も店主の死去を以て閉店し、独特の黒い麺を製造していた畠山製麺も代表者の高齢に伴い8月いっぱいを以て廃業してしまうとの事で、もう二度と味わえないと思って買う事にしました。代表者曰く、作り手によって伝統の味を変えられたくないために門外不出の製法を伝承させる気はないそうで、いよいよ幻の味になってしまいそうです。

この時購入した麺は自宅で冷凍保存しておりますが、さて…いつ料理しようかと?

 

 

 

ちょっとここで話が脱線しますが、花たび各車両のトイレ内には、道北にまつわる難読地名(廃線絡みの駅名が主)のクイズが貼られており、この日は1号車が「添牛内」(そえうしない、深名線)、増1号車が「浅茅野」(あさじの、天北線。※「茅が」「芽」と誤字になっていた)、2号車が「沙留」(さるる、名寄本線)の組み合わせでした。運転日や上下列車によってこの難読地名クイズは異なっていましたが、この日は5月21日の下り列車と同じ内容でした。

 

 

 

長い停車時間を終えて、花たびは再び南へ向けて歩を進めます。

おとっきーや地元の人々に見送られながら、10:54に天塩中川駅を発車。

 

 

 

次の佐久駅では、51D特急宗谷と交換のため運転停車。

下り宗谷においてのラベンダー編成による運転は、6月11日からフラノラベンダーエクスプレスの運転を控えている事から、ひとまずこの日が最後となりました。

(コチラも5月22日乗車時撮影分で代用)

 

 

 

さて…再び『宗谷線鉄道施設PRデー』の一環として、佐久~筬島においてエゾシカとヒグマによる輸送障害についての解説がありました。宗谷本線においては音威子府~佐久の天塩川沿いの区間で特にエゾシカの出没が多発しており、かなりの確率で衝突事故(鹿身事故)も起こっておりJRにとっては悩みのタネであります。私も同区間においてエゾシカを轢いてしまった瞬間を目の当たりにした事があり…😖

 

 

 

また、ヒグマの出没や衝突事故によるトラブルの解決法として、保線社員がUFOキャッチャーから着想を得て考案した「熊キャッチャー」の事についての紹介もありました。この熊キャッチャーの配置場所が宗谷本線で3箇所もある通り、同線においてのヒグマの出没も時折発生しているのが窺えます。同線の沿線のみならず、近年は道内各地でヒグマの出没が多発しており、昨年には大都会・札幌の住宅街にヒグマが出没し、通行人が襲われて重傷者が出たいう事件も記憶に新しいです…。

(2022年6月8日JR北海道プレスリリース「鹿・熊による列車運行影響件数更新について」より引用させて頂きました)

 

 

 

列車は天塩川沿いの景観の良い区間を走行、筬島駅近くにある『北海道命名之地』では音威子府村の方々による横断幕と幟を持ってのおもてなしが行われました。

残念ながら最終日は雨の中のお見送りとなりましたが、連日のおもてなしに携わった皆様、お疲れ様でした…。

 

 

 

そして音威子府駅3番線には11:32に到着。上り列車も3分しか停車時間がありません。

ここから稚内から乗務してきた車掌が交替し、花たび そうやの旅も後半へと差し掛かります。

 

 

 

次の美深駅2番線には12:03に到着、10分間停車します。

美深町の可愛いご当地キャラ『美深くん』『美深(みみ)ちゃん』がお出迎え。背後の雑草が生い茂る3番線跡は、かつて『日本一の赤字線』として名を馳せた美幸線が発着しており、最近になってホームと駅の東側を直結する道路が作られました。

 

 

 

美深駅では、かつて天北線経由で札幌~稚内を結んでいた急行『天北』のヘッドマークの展示も。

 

 

 

この日はホームにて町の特産品の他に、鉄道グッズや古い硬券入場券の販売も行われており、宗谷本線を中心に無人化や廃止となった駅の入場券が大量に売られていたため、つい「大人買い」しちゃいました…😅

『仁宇布行』のサボは、言うまでもなく美幸線で使用されていたモノ。勿論販売対象ではありません。

 

 

 

12:13、美深駅を発車。美深くんと美深ちゃんもお見送り👋

 

 

 

いよいよ、宗谷本線の中枢である名寄駅1番線に到着します(12:34)。

当駅ではご当地キャラの『なよろう』のお出迎え、そして、最終日という事で名寄運転所の方々による横断幕掲出がありました。当駅で運転士が同運転所の乗務員から旭川運転所の乗務員に交替します。

 

 

 

名寄駅での9分間の停車時間の間に、件の名寄保線所長の方から同駅の跨線橋について解説が現地でありました。跨線橋の構造体として使用している鋼材の一部に古レールを活用しており(コレに関しては他の多くの駅でも見られる事で、ホーム上屋の柱などでも用いられている)、特に名寄駅においては1896年製の米国キャンメル社が製造したレールが使われており、当時日本では鋼材の製造が行われていなかったため、全て輸入に頼っていたのでした。国産レールが実用化されるのは、北九州の八幡製鉄所(現・日本製鉄)が操業を開始した1901年以降になってからの事です。

 

 

 

12:43に名寄駅を発車、車窓左手の名寄公園(名寄本線跡)に保存されているSL『キマロキ編成』が花たびの通過に合わせて汽笛の鳴動が行われました。このキマロキ編成も、冬季の除雪の苦労を知ってもらうための解説がありました。

ご覧の通り、南下するに従って晴れ間が見えてきました。稚内から晴れていれば…😖

 

 

 

列車は長らく車窓の友だった天塩川を渡り、13:00、士別駅1番線に到着します。

 

 

 

当駅の目玉イベントとして、士別祥雲高校の吹奏楽部による演奏会がホームで行われ、この時は細川たかしの『北酒場』が選曲(日によって演奏曲目が異なってたらしい)。思わず私も口ずさんでしまいました…😗~♪

士別市のご当地キャラ『さほっち』もノリノリで指揮者風のしぐさをしながら…。

 

 

 

出発間際になると、今度はゴダイゴの『銀河鉄道999』(コチラにおいては各日共通)が演奏され、お見送りとなります。

 

 

 

士別~剣淵において鉄道防雪林である『深川林地』の中を通過します。

コチラにおいても、名寄保線所長による解説があったのですが私は以降参加せず、自車にとどまる事に。

(JR北海道『花たび そうや』HP 車窓みどころ その1「深川林地」の物語より転載させて頂きました)

 

 

 

ルピナスとフランスギクの花が彩る剣淵駅1番線には13:16に到着、8分停車します。

停止位置の関係から最後尾1号車はドアカットされており、前部の車両からの乗降となりました。当駅ではアルパカをモチーフにしたご当地キャラ『ぷっちーな』がお出迎えですが、周りに子供達が取り囲んでいたので今回写真は撮らず。実は…この時まで剣淵のぶちという事で『っちーな』とずっと思い込んでいたのですが、実際は半濁点の「」が正解…(汗)。

 

 

 

コチラも名寄駅と同様に古レールが跨線橋の柱として用いられていますが、ここで目に入ったのが板に書かれた「のりば↑」の文字から浮き出た「小樽ゆき」の文字…。確かに1960年代には稚内から13時間近く掛けて小樽まで直行していた客車普通列車が存在しており、その名残かと…?普通列車の運転区間が細分化された今では信じられないでしょうが。

 

 

 

いよいよ、花たび そうやの旅も大詰め…。

和寒駅2番線には13:33に到着、9分停車します。

 

 

 

今回は和寒町からの記念品としてクリアファイルを戴きました。写真にはありませんが、和寒保育園の園児による塗り絵が描かれた絵はがきも。

『三浦綾子 文学で味わう宗谷の旅』の本(非売品)は、当駅から乗り込んだ三浦綾子記念文学館のスタッフによる配布です。和寒駅から比布駅までの間、『塩狩峠』をはじめとする三浦綾子作品の解説がありました。

 

 

 

列車は塩狩峠を上り、峠のサミットである塩狩駅1番線に13:52到着。

当駅で7分停車し、キハ261系基本番台による61D特急サロベツ1号と交換します。

 

 

 

列車は塩狩峠を下り、上川盆地の農業地帯に出て遠くに大雪の山並みが見えてきました。

 

 

 

最後の途中停車駅・比布駅1番線には14:12到着。

当駅では15分停車し、比布町のご当地キャラ『スノーベリー』がお出迎え。

 

 

 

停車時間の間、H100-17による名寄行普通327D(14:22発)と交換します。本来は1番線に発着する同列車ですが、花たび運転日は2番線に発着番線が変更となっており、構内放送でその旨が流されていました。このH100、3両が観光列車仕様となるそうですが…ハッキリ言ってキハ40の観光車両仕様(つまり花たび車両)と比較して何の魅力もなさそうで、あまり期待はしていません。座席が転換式、なおかつ窓ピッチも座席に合わせた構造だったらH100に対するイメージも変わったんですがね(あくまでも、利用客目線としての意見であってマニア目線ではない!)。

 

 

 

14:27、比布駅を発車します。

スノーベリーと駅長さん(管理駅の永山駅からとの事)、そして地元の方らがお見送り。

 

 

 

北海道最大の川・石狩川を渡り、列車はわずかの間だけ当麻町を通った後、いよいよ道北圏最大の都市・旭川市に入ります。

 

 

 

花たび そうやの旅も終盤となり、車掌から稚内→旭川の急行指定券所持者を対象に『全区間走破証』が配布されました。実は、ムリヤリ花たび最終列車に乗車したのは6月4・5両日にしか貰えない「令和4年6月吉日」の日付版も入手したかった…というのもありました😅

(勿論名前は無記名で、画像を加工しております)

 

 

 

列車は北旭川駅構内に入り、東側に広がる旭川運転所の傍を通過。

 

 

 

やがて『アルプスの牧場』チャイムが流れ、終着駅を告げる最後の車内放送がありました。

列車は高架区間に入り、4条通りである国道39号線の上を通って旭川四条駅を通過します。この1973年に開通した高架区間は現在耐震工事が行われており、最後の鉄道施設解説があったとの事。

 

 

 

そして2010年に切り替えられた高架区間に入り、旭川駅構内へと差し掛かります。

写真は忠別川に掛かる『氷点橋』。この橋を渡った先の神楽地区に、ベストセラー小説としてTVドラマ化され社会現象にもなった『氷点』の舞台となった外国樹種見本林があり、その敷地内に三浦綾子記念文学館があります。

 

 

 

稚内駅から6時間余りの旅を終えて、14:46、終着・旭川駅2番線に到着しました!

花たび そうやの旅も2022年シーズンはコレにておしまい。ホーム上ではJR旭川支社のスタッフによる横断幕掲出がありました。

 

 

 

上り列車は旭川駅到着後、しばらくの間待機しており撮影のために慌ただしい思いをする事はありませんでした。

 

 

 

15:10、旭川運転所へ向けて花たび車両が回送されていきました。

乗客の皆様、そして長期間運用されてきた車両に対して「お疲れ様!」また来年もこの形で運転して頂きたいモノです。

 

 

 

改札口を抜けて、東側コンコースではピアノとフルートによる演奏会が行われていました。

 

 

 

さて…この後の事に関しては省略させて頂きますが、実は稚内駅へは前夜に自家用車を走らせてきたため(都市間バス『わっかない号』の夜行便は運休中のため…)、再び私は稚内へ戻らなければならなかったのでした…😓(家族にも「アホじゃないの!?」と呆れられました😩)

結局、旭川からは6063Dサロベツ3号(ラベンダー編成)で深夜の稚内へ戻り、マイカーで車中泊の後翌朝札幌へ向けて戻っていきました。翌日の天気は見事な晴天で、利尻山もクッキリと…(2枚目の写真は旧羽幌線の天塩川橋梁跡に架かる国道40号天塩大橋から見た旧天塩大橋と利尻山)。前日がこんな天気だったら…と思うと悔しい!!

 

 

 

まぁ…最終日は北部方面の天気が残念でしたが、とにかく全日程を運休やトラブルなく完走できたのは何よりな事で、また来年も同様の形態で運転、そして団体枠に開放せずできるだけ多くの人に指定席が取れるようにJR北海道にはお願いしたいですね。そして、楽しい旅にするため様々な工夫や努力をしてくださった同社スタッフ、各自治体・団体のスタッフ一同様には心より感謝を申し上げます。

それでは、また来年も運転される事を祈りつつ、今回はこの言葉で締めたいと思います。

「来年も、行けSOYA!」