EF58(ゴハチ)にのめり込み始めた頃、原形大窓機は61号機のほかは66号機しか残っていないという末期的状況であった。その66号機は竜華機関区に配置され紀勢本線電化区間で運用されていたが、悪名高いシールドビーム2灯(ブタ鼻)の改造がなされていた。それでも最後に残ったブルーのゴハチただ1両の大窓機。僕は66号機を目当てに関西方面に出かけた。1981年の4月のことである。

ちょっと変わった旅程だった。14系座席車で組成された臨時銀河で大阪に着くとそのまま駅にとどまり、終日東京ではお目にかかれない宮原区や両数の多い浜松区のEF58を中心に各種車両を撮りまくった。大阪駅は東京のターミナル駅と違い編成写真が撮りやすかったが、長いホームを行ったり来たり何往復もしたのでクタクタになった。翌日も朝から同じパターンで撮影後、天王寺発の夜行鈍行“はやたま”に乗って南紀へ向かった。翌日は古座•田子•紀伊日置で撮影するもEF58 66号機には出会うことは叶わなかった。ゴハチが旧型客車を牽引する姿は魅力的だったが、66号機に会えなかったという傷心のまま同夜の“はやたま”で大阪に戻り、そのまま在来線を乗り継いで四国に渡った。数日間を予讃本線や土讃本線でDF50の撮影に充て、再び大阪経由で南紀に戻ってきた。古座や新宮でカメラを構えるも66号機には会えなかった。結局この旅で出会った竜華区のゴハチは42•99•139•149号機で、39•66•147・170号機に巡りあうことはなかった。

↓紀勢本線田子ー和深にて(1981.4)

↓紀勢本線紀伊日置ー周参見にて(1981.4)

↓紀勢本線紀伊田原ー古座にて(1981.4)

これに懲りた僕はゴハチが配置されている機関区の住所を調べ、返信用封筒を同封の上運用表を送ってくれるよう頼んだ。全ての機関区•運転所から返信があったときは感激した。

そうして手に入れた運用表を頼りに、同じ年の10月に再び紀州を訪問した。今回は名古屋からの夜行急行で新宮へ行き、二日間にわたり紀伊浦神•紀伊日置•和深•田子•椿と撮り歩いた。前回撮れなかった39・147・170号機とは出会ったものの66号機にはまたもや会えずじまいだった。

↓紀勢本線下里ー紀伊浦神にて(1981.10)

↓紀勢本線紀伊浦神ー下里にて(1981.10)

↓紀勢本線周参見ー紀伊日置にて(1981.10)

こうなるともう意地である。現場の迷惑を顧みないで、旅立ち直前に竜華区に手紙を送り機関車運用を教えてもらい、66号機の動きを知ることができた。僕は余裕綽々の気分で年の瀬が押し迫った頃、紀州を再々訪問した。

早朝の天王寺発の電車に乗り、和歌山で乗り継いで8時半頃に岩代駅に降り立った。朝日が眩しかった。まずは切目寄りの海沿いで若番のEF58 39号機、原型小窓の139号機を撮影した。

↑↓岩代ー切目にて。朝日を浴びてEF58が駆け抜ける。近くに有間皇子結松記念碑があった。(1981.12)

近くに「有間皇子結松記念碑」があり、その案内板には失意の中を護送される有間皇子が詠んだといわれる

磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む

という歌が書かれていた。歌とは直接関係はないが、何回来ても66号機に出会えなかったのに、ようやく今日会うことができると思うと感無量であった。

↓岩代海岸の有間皇子結松記念碑の近くにて

そして、いよいよ66号機を撮るため、周参見•見老津間にある双子山信号場近くの跨線橋に陣取った。大して良い風景の場所というわけではないが、初めて見るブルーの大窓機は前面窓を強調した構図で撮りたいと思っていた。南海電鉄のキハ55を併結した急行“きのくに”に続いてEF58 66の牽く普通列車がやってきたときはホッとした。

↓双子山(信)付近を走るEF58 66(1981.12)

↑岩代海岸に沿ってEF58 66が南下する。(1981.12)

翌日はいい時間帯に66号機が岩代海岸を通るので、風景主体の写真を撮ろうと岩代•南部間の海に突き出した有名なお立ち台で撮影した。ゴミが散らばるお立ち台は決して居心地が良いとは言えなかったが、SGの煙を吐きながら海沿いを走る66号機が撮影できてすっかり満足した僕は同機を追って紀伊田辺まで行き、機関区で休む66号機と対面した。そして、この先当分は南紀の地に来ることはないだろうなと思いつつカメラのシャッターを押したのであった。

↓紀伊田辺機関区で休むEF58 66号機。機関区事務所で撮影許可を得ようとしたら「どうぞ」のひと言で終わり。(1981.12)