モノ持ちがいいというかなんというか、中学生の頃に使っていたカメラバッグが捨てずにまだある。もう半世紀近くも前の代物だ。カメラやレンズは中古市場があるので下取りに出してしまうのに対し、カメラバッグにはそのような場がないので溜まっていってしまうというのが正直なところ。一番最初に使ったのはエツミのガゼットバッグ。これもまだウチにある。アサヒペンタックスSPFとレンズを詰めて撮影に出かけていた。

マミヤC220と交換レンズが加わると入りきらなくなったのでアルミバッグ、いわゆる銀箱を導入した。購入したのは1975年が明けて間もなくの頃、それまでにも通い慣れていた新宿西口のヨドバシカメラだった。

当時の新宿は歌舞伎町のある東口はもとより京王プラザができてほどない西口も、そして甲州街道が通る南側も決して安全安心とはいえず、おんなこどもがぶらつくのは論外とみられていて、親には内緒で出かけていた。それというのもヨドバシカメラの店頭には黄色の新聞紙大の紙にカメラやレンズはもちろんフィルム、暗室用品等々ほとんどの商品の値段が事細かに書かれた価格表みたいなものが置いてあって、それを手に取ってつぶさに見るとどれもこれも群を抜いて安かったので危険を冒してでも!?行く価値があった。

なかでも暗室用品や整理用品、カメラバッグなどにはヨドバシカメラ独自のライオンブランド商品があって、特にお買い得だった。僕が手にした銀箱もライオンブランドだった。ベニヤの箱の周りにアルミの薄板を貼り付けたような外観、内部はスポンジが全面に張りめぐらされているような作りで決して頑丈とはいえなかったが、一応乗ったり座ったりしても壊れることはなかった。

↓ヨドバシカメラで買った銀箱。下中はスポンジを剥がした内部のベニヤ。下右の蝶番にはOrientの表記がある。

(注)この銀箱を長いことライオンブランドだと思い込んでいたが、蝶番のOrientの表記からすると別のブランドかもしれない。

なぜ銀箱かというと、蒸機の撮影現場で先輩鉄チャン達が銀箱と三脚を背負子にくくりつけて歩く姿がカッコよく映ったからだ。高校時代はあまり鉄チャンをしなかったが、数少ない鉄チャン行ではもっぱら銀箱を利用した。肩にかけた銀箱にカメラ、レンズ、フィルムなど一切合切を詰め込んで厳冬の北海道や氷点下25度にまで冷え込んだ小海線野辺山、真夏の太陽が照りつける紀勢本線、雨が降る京浜工業地帯の鶴見線、電化前の早春の伯備線などを歩き回ったのだから若くて元気だったとしか言いようがない。

↓小海線野辺山付近にて同行の後輩が撮影(1976年2月)。いまこんなところでこんなふうに写真を撮ろうものならアウトだが、緩かった時代ということでご寛恕を。右が僕。

↓上の記念写真の前に撮ったキハ55。

↓真夏に3人で出かけた紀勢本線撮影行にて(1977年8月)。銀箱を担いで一同疲れ、小川のほとりで小休止中。真ん中の銀箱が僕のもの。

↑紀伊長島から酷暑の国道を延々と歩いてここにたどり着いた。(Photoshopでモノクロデータをカラーに変換)

銀箱は椅子代わりにもなるのが利点だったが、角張っていて混んでいる車内では顰蹙を買うのではないかとビクビクしたものだ。それに当時銀箱は鉄チャン御用達の感があり、身分(!?)がバレているのではないかと恥ずかしかったのもたしかである。

そんなわけで大学生になると鉄チャン鉄チャンしていない普通のショルダーバッグをカメラバッグ代わりに使うようになり、銀箱はカメラの保管庫と化した。