省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

1975年3月~1977年8月 中央西線・篠ノ井線区間ローカル運転と車両運用図

 当ブログの身延線旧形国電関連記事等で触れていますように、1973年3, 5月の篠ノ井線松本-長野間、および中央西線中津川ー塩尻間の電化による松本周辺短距離区間ローカル列車の電車化は、身延線等から旧形国電等を捻出し、松本運転所北松本運転支所に転属させて担当させました。

 Wikipediaの記述によりますと元々は篠ノ井線中央西線は同時電化が予定されていたところ、長野善光寺の御開帳に合わせて篠ノ井線を一足先に電化開業させることになり、3/28電化開業、ローカル列車の電車化は4/1からとなったようです。これをめぐる電車の転属状況については、以下の記事をご参照ください。

yasuo-ssi.hatenablog.com 結局、1975年3月のダイヤ改正で、本来予定していた車両の転属が完了し、本格的な運行が開始されました。なお、サハ45は大糸線4輌運用に充当され、それで捻出された主としてトイレなしクハ55を本線の区間ローカル運用に充てていました。クハ68は基本的に本線区間ローカル運用にそのまま充てられていたと思います。なおこれらの車両は北松本運転支所の管理といっても運用は松本運転所本所が担当し、担当車両は交番検査で北松本に戻る以外は、松本本所に常駐していました。

 この運用は、115系の投入に伴う玉突きで、1977.8.10 に松本運転所本所の80系に引き継がれるまで続きました。なお、中央西線篠ノ井線向け車両の転入状況は下記の通りでした。

1973.3転入

クハ68001 (3/23 沼津より)
クハ68011 (3/23 沼津より)
クモハ51804 (3/24 中部天竜より)

1973.3借入

クモハ51850 (沼津より)

1975.3 転入 (いずれも沼津より)

クモハ41800 (3/9)
クモハ43800 (3/7)
クモハ43802 (3/26)
クモハ43804 (3/6)
クモハ43810 (3/6)
クハ68017 (3/9)
サハ45004 (3/9)
サハ45005 (3/6)
サハ45007 (3/26)

1973.3 返却

クモハ51850 (沼津へ)

 これら転入車は、転入直後は身延線時代のまま横須賀線色で走っていましたが、長野工場で全検を受けるたびにスカイブルーに塗りなおされ、側面の行先サボ受けも車体中央窓下から車両端の窓上に移設されました。しかし一部は意図的なのか、それとも手違いだったのかは定かではありませんが、全検後も、このローカル運用が残っている間は横須賀線色を維持した車両がありました(サボ受けの移設は行われました)。松本運転所の信越篠ノ井線用の70系およびクハ68が横須賀線色だったので、それに合わせるという意図があったのかどうか。

 なお、上の転入と関係あるのかどうか、北松本運転支所では1975年に以下の廃車が出ています。

1975.2.1
60008 60058

1975.6.14
55316

1975.9.1
51030 57400

 なお、クモハ60008は残念ながら見ることはかないませんでしたが、大糸線のクモハ60中、唯一ヘッドライトが埋め込みで残っていた車両のようです。基本、転入車がクロス、セミクロス車で、廃車になったのは51030を除いてロングシート車でした。北松本支所では、1972年前後にクモハ41を廃車してクモハ51を関西から導入する動きが出ていましたので、この頃は基本ロングシートセミクロス車に置き換えるとの流れかと思います。なおクモハ51030は転入後3年で廃車になっていますので調子が悪かったものと思われます。

 次に見るように、中央西線篠ノ井線区間ローカルは2輌 x 4運用で、予備を見ても2 x 5 = 10輌あれば済みますが、1973, 75年の転入は12輌なので、2輌多いという計算になります。また予備車も大糸線用と兼ねられるならもうちょっと減らせる、ということだったのかもしれません。

 なお、1975年3月改正からの中央西線篠ノ井線区間ローカルの運用図表は下記の通りです(当時北松本支所への取材データから)。なお麻績駅は1976.4.1より聖高原に改称されました。

中央西線篠ノ井線区間ローカル運用

 運用はMcTcの2両で、これを組み合わせて2両から最長6両の列車を運行していました。日中は運用がなく松本運転所で昼寝をし、朝と夕方~夜間のみ運用があり、夜は、北松本で特別仕業検査や交番検査を受ける運用以外は木曽福島で滞泊していました。クモハ43800代、特に平妻車は、身延線ではほぼ中間車として使われ、正面を見せる機会がありませんでしたが、この運用中は先頭に立つ姿が見られました。なおこれらの低屋根電動車に関しては、この運用が廃止になるまでは、基本的に中央西線篠ノ井線限定で使われ、検査等による車両不足で、ピンチヒッターとして起用される以外は大糸線を走ることはありませんでした。基本は朝夕のみの、かなり楽な運用だったと思います。

 なお、1975年3月以前にもこの運用は電車化されていましたが、たった4輌でどう運用していたのかは不明です。2両1運用だったのか、それとも2運用設けて、予備は松本本所の80系を使っていたのか... ただ1975年3月以前はかなり長野ー松本間に列車運用が残っていましたので (1975.3以降は1往復のみ) 、戦前形旧形国電篠ノ井線内着発の区間ローカルに限定し、残りは80系あたりが担当していたのではないかと推測しますが...

クモハ43810+クハ55430 発車を待つ朝の松本発麻績行1225M 1975.5
転入直後で身延線仕様のまま

クモハ51804以下 篠ノ井線ローカル 1231M 1977.7 松本駅 (既掲載)

 この運用は、既述の通り1977年8月に廃止になりましたが、これにより余剰車輛が1977.9.9付で廃車となりました。廃車となったのは以下の車輛です。

クモハ41 800
クモハ43 800, 802
クモハ51 011, 032

クハ55 026, 037, 049, 430, 439

 クモハ43804, 810は大糸線に転じましたが、特にクモハ43804は半室運転台で、かつ前面貫通路使用可能だったため、身延線時代と同様ほぼ中間車専用に逆戻り、クモハ43810についても前面貫通路使用可能による隙間風のため、寒い冬季を中心に中間に挟まれることが多かったと思います。

 中央西線篠ノ井線ローカル用の転入車輛と入れ替えに大糸線用クモハ51が2両廃車になっています。残されたクモハは電動発電機の容量が3kwと高く、容量が1kwだった車輛が廃車になりました(当時の北松本運転所への取材より)。クハに関してはクロス、セミクロスシート車がすべて残され、それと入れ替えにトイレなし車を中心にロングシートのクハ55が廃車となっています。乗客サービスの向上を考慮してのことだったと思います。この辺り、最近のJR東日本では地方線区でもとりあえず数さえ収容できれば良いという考え方でロングシート車を持ってきていますので、考え直してほしいところです。