(その3からの続き)
-(郡山-日和田間歩行中)-
開成山公園から東へ進んで、郡山駅に立ち寄りました。
大通りに突き当たったところで、ひとつ西の通りへ。
さらに北へ進んで、逢瀬川を渡りました。
右に見える高架は東北新幹線。
川を渡って少し進むと、磐越西線をアンダークロス。
磐越西線は5年前に歩きましたね。
やっと繋がった。
この道は陸羽街道(奥州街道)でもあるため、
沿道には古い民家も残っていました。
このあたりは、1965年まで富久山(ふくやま)町という町だったそうです。
先ほど渡った逢瀬川が町境だったそうなので、
郡山の中心市街地も徒歩圏内だったようですね。
完全に郡山市街地に飲み込まれているのは、当時も変わらなかったのかな?
そのまま北へ進んで、小学校の横を通過。
富久山町役場跡に建てられた行政センター付近。
ここの桜は満開近い咲き具合。
行政センターの少し先で左折して、陸羽街道から外れました。
その先にあったのは「下ノ池」。
ご覧の通りの溜め池ですが、
そのほとりにはハザードマップが掲載されていました。
東日本大震災では福島県内で多数の溜め池が決壊し、
それに伴う濁流で死者も出たそうです。
お世辞にもあまり大きな池ではないですが、
地図を見ると、想定被害やその範囲が思った以上に広くて驚かされました。
下ノ池からそのまま北へ進みました。
ちょっとわかりにくいですが、写真の左端中程に溜め池があります。
振り返れば、今日は朝からたくさん溜め池を見かけました。
先ほど訪れた五百淵公園や開成山公園の池も元々は溜め池でした。
1883年に安積疎水による灌漑が始まり、劇的な変化を遂げたそうですが、
それまでは点在する溜め池が水を確保する手段だったそうです。
役割を終えた溜め池は徐々に埋め立てられていますが、
今も郡山周辺には多数の溜め池が残されています。
その先にあった宝沢沼もそんな溜め池のひとつ。
先ほどの下ノ池よりも大きな溜め池ですが、江戸時代初期に普請されたそうです。
奥にそびえる山は安達太良山…のはず。
溜め池の築堤を北へ。
右側には集落が広がっていますが、溜め池の水位よりも低そう。
確かに、この位置関係だと決壊が怖いかも。
陸羽街道に戻る道は桜並木でしたが、
こちらはまだ咲き始めでした。
陸羽街道に戻って、さらに北へ進むと小さな高まりを越えました。
この先でいったん陸羽街道を左折して、
住宅地に入ってみようと思っていました。
そろそろ左折と思ったところにそれっぽい道があったので左折。
道は西へ進んでいましたが、線路も西へ向かうのだろうと思って気にしませんでした。
…ところが、
3~4分ほど進んだところで、
道が南方向へカーブしているのが見えました。
南へ進むのはさすがにおかしいと思い、GPSの地図で確かめると…
一つ手前の角を曲がってしまった!!
久しぶりに派手な道間違いをやってしまいました。
(その5へ続く)
郡山駅手前から宝沢沼手前までのGPSログ(1/32,000)です。