旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

期待された救世主のはずが 短命に終わった悲運の客車【3】

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《前回のつづきから》

 

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 旧型客車の緩急車は、基本的に車掌が乗務する車掌室は車両の一方に設けられていました。つまり、車掌室は1つしかなく、オハフ33ではデッキを車端部に配置していたため、車掌室はデッキの内側、すなわち客室の一端に設けられていました。続くスハフ42では、オハフ33のようにデッキの内側に配置していると後方監視ができないということで、デッキを車両中央部に配置して、車掌室は車端部に設けられました。そして、妻面には車掌が後方監視をしやすいように窓も設けられていましたが、車掌室事態は通路の片側に寄せた構造となり狭いものでした。

 もちろん、この構造で車掌の執務には大きな影響はなかったようで、側面にも窓が設けられていたので、列車が発車する際に車掌はこの窓から身を乗り出すようにしてホームの安全確認をすることができました。

 しかしながら、時代の移り変わりとともに鉄道を取り巻く環境も大きく変化していきます。かつてはほとんどの駅に駅員が勤務し、ホームには輸送掛が必ずといっていいほど配置されて、列車の発車合図や安全確保に従事していました。また、どんなに小さな駅にも出札掛が勤務し、乗車券などの販売や改札をおこなっていました。

 ところが、国鉄の増え続ける赤字に対して、多くの駅に配置していた駅員と削減し、運転取扱のない乗車人員の少ない駅の駅員配置をやめ、無人駅へと移行させていきます。また、ローカル線のCTC(列車集中制御装置)化を進め、運転取扱のあった駅にも信号掛の配置を省略して無人化を進めていったのです。

 その結果、50系が運用される線区では、無人駅が多く存在するようになり、駅員がおこなっていた乗車券の販売と改札業務は車掌が担うようになっていきました。それまでの、列車の到着・発車の安全監視や機関士への発車合図、乗客への案内放送や車内検札に加えて、無人駅から乗車した乗客への乗車券類の発券、乗客からの乗車券の回収など集札など、多くの業務をこなさなければならなくなったのです。

 

 

50系客車の緩急車であるオハフ50は、旧型客車の緩急車とは異なり乗務員用扉が設けられていた。これは、無人駅などにおいて、車掌が集改札業務を容易に行えることに配慮したためである。車掌は、編成中に連結されたオハフ50のであればどこの位置でも客用扉の開閉といった客扱いが可能になった。また、客用扉は1,000mm幅の自動扉となったことで、走行中に乗客が勝手に扉を開閉したり、誤って転落したりすることがなくなり、安全性が大きく向上した。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 特に乗車券の発券は重要で、ローカル線で乗客の数は少ないといっても、揺れる車内での補充券を使って乗車券を適正に発券し、料金を受け取って釣り銭を渡すのは至難の業だったと言います。

 そして、駅に到着したときには必ずしも車掌室にいるとは限らない状態も想定でき、加えて50系は乗降扉が自動化されたので、車掌が車掌室にいなければ扉を開ける操作をしなければ、降りることも乗ることもできないのです。

 そこでオハフ50は、旧型客車の設計思想から脱して、車両の両端に乗務員室を配置しました。また、車掌がホームに降りて集札業務がしやすくなるように、どちらの乗務員室にも乗務員用扉を設けたのです。そのため、見た目には両運転台の気動車にも似た構造になったのでした。

 この構造のオハフ50が、編成中の中程に組み込まれていた場合には、車掌はこの中間にあるオハフ50の乗務員室から扉の開閉操作ができるようにしました。駅の無人化により車掌の業務が極端に増えたことにより、こうした設備は欠かせないものといえたでしょう。

 しかし、これだけの近代的な設備を備えた50系も、登場したのが1977年と国鉄は既に膨大な赤字に悩まされていた時期であり、日に日にこれらを解決せよという声は高まっていき、もはや政治問題にまで発展しつつありました。そうした末期の近い登場は、50系の行く末を運命づけていたといっても過言ではなかったといえます。

 

《次回へつづく》

 

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