かつてJR信越線に「妙高」という愛称の列車が運転されていた。


「妙高」は上野-直江津間を信越線経由で結ぶ急行列車で、国鉄時代はある時は昼間の急行、ある時は夜行の急行として、役割を変えながら運転されていた。JR時代には運転区間が長野までに短縮され、特急車両との共通化も図られた。いったん臨時列車に格下げされたのち、1997年、長野新幹線開業により、長野-直江津間の新幹線連絡の快速列車として復活した。そして2015年、北陸新幹線開業と同区間の第3セクター化により再び廃止された。


私は「妙高」には何度か乗ったことがあり、思い出深い列車の一つである。そこで「妙高」の軌跡を時刻表で振り返ってみることにする。


今回は国鉄時代の「妙高」をまとめた。

私の持っている時刻表で知る限り、「妙高」という愛称が最も古く登場するのは復刻版、交通公社の時刻表1958年11月号である。この当時、「妙高」は上野-新潟間を信越線経由で結ぶ準急列車であった。この記事を書くにあたり昔の時刻表を見るまで知らなかった。




このように準急「妙高」は上野を23時に出発し、早朝長野に到着。長野から直江津まで各駅に停車し、直江津から快速列車となり新潟へ向かう。上りは新潟を18時台に出て、0時頃長野に到着。長野から準急となり、上野に早朝到着する。

 

 

 

次に1961年9月号。

上野-長野間が準急なのは変わらないが、直江津止まりとなった。のちに夜行「妙高」といえば長野まで急行、長野から直江津までは普通というイメージが定着するが、この当時にその原型を見出すことができる。ちなみに当時の信越線の長距離列車はすべて客車列車である。電化以前であり、碓氷峠区間を除いて蒸気機関車が牽引していたと思われる。
 

 

 

 

続いて1964年9月号。
この頃になると、「妙高」は昼間の急行列車として上野-直江津間を結んでいる。列車番号は「301D」。つまり気動車だったことがわかる。長野までの急行「信州」の列車番号は「M」と表示されているから電車である。両者の違いは電化区間が長野までだったためと思われる。ちなみに直江津行き夜行列車は「丸池」という愛称の列車に引き継がれている。
 

 

 

 

次は1967年10月号。
列車番号は「M」になり、電車の急行列車として上野-直江津間を結んでいる。「第2妙高」という表示もこの時代の特徴である。現在は愛称のあとに1号、2号、3号と番号をつけるが、当時は愛称の前に第1、第2、第3とつけていた。なお、現在は下りを奇数、上りを偶数で表示するが、当時は上りも下りも関係なく順番に1,2,3とつけていた。

 

 

 

 


次は1980年6月号。この頃の「妙高」は昼間は電車の急行、夜は寝台車付きの客車急行として走り、臨時を含め1日5往復と本数が最も多かった。
直江津発上野行き「妙高」は珍しくもないが、この頃は妙高高原始発・終点の「妙高」もあった。さらに上野-屋代間では急行「志賀」を併結していた。「志賀」は屋代から長野電鉄に乗り入れ、湯田中まで直通していた。

 

 

 

 


同じく1980年6月号。

同年の夜の「妙高」。8号は臨時列車で、10号はA、B寝台車も連結された客車急行であった。
 

 

 

 

次は1982年12月号。
上越新幹線が開業した1982年11月のダイヤ改正により、3往復あった昼間の「妙高」はすべて廃止され、定期列車の「妙高」は夜行1往復のみとなった。これまで昼間の「妙高」がカバーしていた時間帯には、特急「あさま」や「白山」が増発された。また、時刻表の表記も定期列車の「妙高」のあとの号数表示が消え、A寝台もなくなった。運転時刻については上り下りとも大きな変化はない。

 

 

 

 


最後に1986年7月。
この年は国鉄民営化の前年である。「妙高」の運転区間、時刻ともに大きな変化はないが、車両が電車に置き換わった。指定席を示す表記はあるが、グリーン車のマークはないので、169系の普通車を集めた編成と思われる。また、この時期は「妙高」とともに信越線に長らく運転されていた急行「信州」もすべてなくなっている。全国的に昼間の中長距離列車は特急がメインになり、急行は淘汰が進んだ時代であった。


(次回はJR時代の「妙高」)