東高野街道を行く(野崎観音編) | としのブログ

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野崎観音と大師堂

(野崎観音には何度か参拝して写真を撮っています、だから写真の天候が違うのはご勘弁を)

大東市の東高野街道沿いにある寺院、慈眼寺は一般的には「野崎観音」と呼ばれいて慕われている、上方落語や東海林太郎の歌に出てくる「野崎まいり」は、大坂からは鉄道(現在の学研都市線)が出来るまでは、古堤街道を歩くか、天満橋の八軒屋浜から屋形船で寝屋川を遡り、住道の北側で谷田川に入り観音浜で上陸し後は徒歩と言うのが「野崎まいり」に出てくるパターンである、その観音浜は、現在の大阪外環状線の学研都市線の跨線橋の南側にあった船着場である。






観音浜跡です。


観音浜跡の碑があります。


石碑の説明によると

「野崎参りは屋形船で参ろ」大坂より寝屋川筋へ屋形船は観音井路付近まで溯航する、この井路は幅7.2メートルの直線水路であった、水門を閉め満水にして田船を洗った茣蓙敷船で粋な客を運んだと言う、人呼んで当地を観音浜と名付く、明治二十八年片町線が走る以前の事であろう、それ以前は深野池と言う広大な沼地であった」と有る。



観音浜横の谷田川を覗きます、当時の面影はありませんが、船を通す時は水門を閉めて運河のように水位を上げて船を通したと考えられる。


ここから野崎観音の参道に向かいます。


D12  外環状線の下を潜ります。


D13  工事中ですが、野崎駅の駅舎です。


D14  いかにもと言った朱色の久作橋です。



D15  学研都市線の野崎駅ホームです、今は屋形船は無くなりましたので、電車でお参りに来られ方が大半で、野崎駅は四條畷駅より4年程後に出来た駅ですが、野崎まいりをする乗客を運ぶために作られた駅です。
 四條畷駅も四條畷神社が出来て地元の願いで鉄道が敷かれ出来た駅ですが。
 また、昔のように寝屋川を遡り観音浜付近まで運行する船があっても観光の目玉になりませんかね、少し豪華な料理を出してね。


久作橋を渡ると参道が真っ直ぐ伸びています。



D16 本来「野崎まいり」とは5月1日から8日までの一週間、無縁経の御開帳に本尊十一面観音にお参りする行事です。

最近は新型コロナの影響で少なくなりましたが、この通りに200軒近い露店が出て大変な賑わいでした、早くコロナが終息し昔ながら雰囲気を出して欲しいものです。


D17  旧国道170号の信号まで来ました、ここからは道幅が狭くなり道も段々と登っていきます、遥か先に前編で紹介した二本の石碑が建って居るのが見えるでしょうか?


参道を真っ直ぐ来ると先には紹介した、2本の石碑が迎えてくれる、野崎観音は徒歩の場合はこの坂を登る。




D18  ここから約150段の階段を登る。


途中脇に入るところがあるので行ってみます。


忠魂碑でした。


5月の「野崎まいり」の時はこの階段も人でごった返すのでしょう。


D19  登り切ると山門が見えてくる。


山門を潜り中に入りますが、訪問したのは4月30日で、翌日から一切供養が始まりますとの看板が立っています、明日からはきっと参拝客でごった返すだろうと思いました。



山門を潜り振り向きました、大阪平野が一望できます、不謹慎ですが夜景も綺麗だろうと思いました。


山門を潜ると階段が左手にあります、登って見ます。


南條神社です、額には「牛頭天王宮」とあります。



階段を上がって右手に有る手水舎で清めます。


中々古そうな本殿ですね。


石標によると。


「牛頭天王は仏教における怨霊や病魔を打ち払う、素戔嗚命は姉の天照大神の岩戸隠れ神話を生ませる程の荒ぶる神であり病魔を退散させる神威ありとして尊崇される、このため平安期以降の神仏習合理論により牛頭天王と同一視されるようになった。
京都・八坂神社に代表されるように牛頭天王をお祀りする神社は古く、当社も北條村に対し南条村と称した江戸期以前に南条(野崎)村の鎮守とし
て牛頭天王神と呼ばれていたのものであろう石鳥居に「元禄」の銘が刻されていることからこの時期「十七世紀末」に社域が整備されたと推定される、また、本殿前にある一対の木製狛犬(向かって左側の狛犬の頭には角があり一角獣と呼ばれる狛犬に角があるもの程時代は古いと言われている)は極彩色が施され現在剥離しているが桃山時代の雰囲気を漂わせている、なおその台座の裏書に「延亨元年(1744)子年子9月19日天王宮野崎
村」とある。           平成9年9月吉日 南條神社氏子中」とあります。


階段を降りてけると、お像があります、やはり東高野街道沿いには、お大師さん(弘法大師)の大師堂があります。


この慈眼寺は曹洞宗、弘法大師は真言宗ですが、宗派を超えて親しまわれていますね、ただこの慈眼寺の開山は「行基上人」行基上人は堺市にある生家に家原寺を開いた時は、一時高野山真言宗(現在は行基宗)であったため弘法大師と行基上人が密接な関係であると思われる。


隣にあるのは地元の地蔵尊です。



野崎観音にももちろん手水舎がありますので、清めます。


もう一段上に本堂があります。


脇にある灯籠には「享保十三年五月十七日」と、有ります、享保13年は1728ねだから、慈眼寺が出来てかなり後に建てられたようです。


野崎観音の本堂です、福聚山慈眼寺、俗称は野崎観音で、天平勝宝年間の750年頃に、私が尊敬する僧侶 行基上人が開山した曹洞宗の寺院で、ご本尊は十一面観世音菩薩、この本堂は、1695年(元禄8年)に建てられもので、東大阪の大龍寺から1950年(昭和25年)譲り受けたものです。



本堂の中です、撮影不可だったかも知れませが、不可だったら野崎観音の方々すみません。


本堂の前には賓頭盧さんがいらっしゃいます、この賓頭盧さん2017年(平成29年)10月の台風21号でこの椅子から転げ落ちられて大怪我され入院しましたが、最近業務に復帰されて参拝者に

その凛々しいお姿を見せていらっしゃいます、その際の精密検査で1753年(宝暦3年)のお生まれの269歳の後期高齢者だそうですが、腰など曲がらずシャキッとされています[常に座っておられるけど 笑]



本堂の左手に回って見ます。


本堂の左手にあるのが、西国三十三所観音堂です、現在でも三十三所を満願するのは大変ですが、昔は今以上に大変だったでしょう、そこでこの観音堂には三十三所の観音像とご本尊の十一面観世音菩薩像の、計三十四体が祀られており全てをこの観音堂でお参りすることが出来ます。


三十三所観音堂の裏手には鐘楼があります、以前は勝手に鐘を突くことが出来ましたが、現在は除夜の鐘しか突かないそうです。


鐘楼から先に「みはらし台」があるので行ってみます。


野崎観音のみはらし台から見た北西の景色。




本堂のすぐ右手にあるのが「江口の君堂」です、平成時代、現在の東淀川の江口にお住まいだった白拍子(歌舞を演じる遊女)で、十一面観世音菩薩にお参りしたところ病が完治したため、御礼にこの寺院の再興に力を注いで下さった方で、その後、多くの女性の方々が江口の君にあやかろうと観音様にお参りされるようになりました。妙の君・きみさんとして大阪の女性に親しまれてきました。安産・子授け・病気平癒・縁結びなど、あらゆる女性の願いをお聞きくださいます。


江口の君堂より更に右手に行くと非常に新しいお堂があります、羅漢堂です。

  中にはお釈迦様の十六の高弟(優れた弟子)

が祀られています、1951年(昭和26年)に土砂崩れに遭い羅漢堂も流失し、尊像も被害に遭ったが、2006年(平成18年)には羅漢像が修復され仮お堂に安置されていて、続いて去年には羅漢堂も新しく再築されたので、めでたく新しい羅漢堂に祀られるようになりました。


羅漢堂の斜向かいに有るのが薬師堂で、薬師如来を祀っています。

薬師如来は、心身の病気を治してくださる仏様で、病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があると言われています。



薬師堂から少し階段を降りたところには綺麗な日本庭園があり心を和ごましてくれます。


日本庭園の奥にあるのが、お染久松の碑です。


野崎村の百姓久作に養育された久松が,奉公先の大坂の質店油屋の娘お染との許されぬ恋のために心中する物語ですね。



お染久松の碑です。


野崎観音の御朱印をいただきました、その際「明日から賑やかになりますね」とお声を掛けさせていただくと、「実は中止になりました、来年はやりますので、またお参り下さい」との事で残念でした。


ではそろそろ野崎観音を後にします、この楼門を潜って来た道と違う道で帰ります。


楼門を潜ると階段があります。


D20  こちらの階段は少ないので助かります。


D21  野崎観音の駐車場は20台ほどしかスペースが有りませんので、賑わいそうな時は電車かバスで行きましょう。


D22  階段が無い分急な坂があります。


D23   途中に立派な蔵が有るお屋敷が有りました。


D24  東高野街道に戻るとこんな石塔と石碑があります。



石塔には「牛頭天王宮」とありますね、南條神社の鳥居額に有りましたね。


観世音菩薩とあります。


車で来る場合はこの看板が目印です。


また東高野街道の旅に戻ります。