特急「なは」のこと | 書斎の汽車・電車

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インドア派鉄道趣味人のブログです。
鉄道書、鉄道模型の話題等、つれづれに記していきます。

 沖縄の本土復帰から50年を迎えました。

 当ブログでも沖縄にまつわる話題をと思ったのですが、何分現地に行ったこともありませんし、(「ゆいレール」開業から間もない頃に沖縄行きの話があったのですが、諸般の事情からダメになりまして、その後機会もありません)沖縄県営鉄道を始めとする戦前の鉄道についても通り一遍の知識しかありません。また、戦後でいえば、南大東島のサトウキビ列車にも縁はありませんでした。

 

 そんな中、趣味でいろいろ調べている列車愛称名に、「沖縄ネタ」があったことを思い出しました。

 かつて運転されていた特急「なは」です。この列車、もちろん沖縄県内を走っていたわけではありません。関西と鹿児島を結ぶ特急列車の愛称なのですが、列車愛称名を扱った本などでは、「沖縄の祖国復帰を願って命名された」などと記されるだけです。このあたりについてもう少し詳しく調べてみました。

 沖縄の地元紙・琉球新報が、昭和42(1967)年に「本土に沖縄の名前の列車を走らせよう」というキャンペーンを張り、愛称名を公募したのだそうです。その結果「なは」「おきなわ」「しゅり」「でいご」「ひめゆり」が愛称名の候補となり、国鉄本社での選考の結果、「なは」が昭和43(1968)年10月1日から大阪~西鹿児島で運転を開始した昼行特急の愛称名として採用されたのでした。

 それにしても、いかな「公共企業体」とはいえ、国鉄が沖縄の祖国復帰運動に協力してしまったのですから、きわめて異例のことだったはずです。いちおう、特急「なは」は鹿児島港からの沖縄航路に接続しているという苦しい(?)言い訳もされていましたが、この航路はもちろん鉄道連絡船ではありませんし、当時の時刻表を見ても、お世辞にも「接続している」とは言い難いです。

 

 ここから先は私の推測にすぎませんが、沖縄返還を最重要課題としていた当時の佐藤栄作首相は鉄道省出身です。佐藤総理が圧力をかけたとは思えませんが、国鉄幹部による「忖度」の可能性はあると思います。また、当時国鉄の営業畑の幹部だった伊江朝雄氏が沖縄出身であることも、もしかしたら沖縄サイドからの運動に有利に働いた可能性があると思います。なお、伊江氏はのちに政界に転じて、参院議員そして沖縄県出身者初の閣僚となっています。

 

 特急「なは」は、沖縄本土復帰後も走り続けます。長らく80系気動車が使用されてきましたが、昭和48(1973)年10月改正で485系電車が投入されています。そして、昭和50(1975)年3月の新幹線博多開業で山陽線系統の昼行特急が廃止されますと、当然「なは」も廃止されましたが、「なは」という愛称は、新大阪と西鹿児島を結ぶ夜行特急に転用されます。当初は583系でしたが、昭和59(1984)年2月改正で24系客車となり、「ブルートレイン」の仲間入りしています。この間、一時期京都発着になったりしましたが、「特別な愛称」として大切にされ続けました。

 関西発着ブルトレの退潮に伴い、平成17(2005)年10月からは、「あかつき」と京都~鳥栖で併結するようになり、平成20(2008)年3月14日、ついに廃止となりました。

(「なは」の歴史について詳しく記すときりがありませんので、今回は概略のみご紹介しています)

 

 「なは」がいよいよ廃止目前となった平成20(2008)2月27日、那覇市議会は「寝台特急列車「なは」の存続等を求める要請決議」を議決しています。これは、JR九州に対し、寝台特急「なは」の存続または「なは」の愛称の復活を求めるものでしたが、その後実を結ぶことはありませんでした。

 廃止となった「なは」のヘッドマークが、「ゆいレール」に寄贈されたというニュースを見た覚えがあったので、今回のブログをまとめる前に調べてみたところ、このヘッドマーク、長らく沖縄都市モノレール本社に併設された「ゆいレール展示室」で公開されていましたが、昨年那覇市に寄贈され、那覇市歴史博物館で展示される予定だそうです。

「なは」のヘッドマークです。