まずはお詫びからです。
昨日アップしたこの表題の記事を誤って削除してしまいました
何をやってるんだ❗おれは
せっかく訪問して下さって「いいね」やコメントをいただいたみなさま…
何卒ご容赦を
m(._.)m
というわけで…このままでは悔しくて仕方ないから改めて同じ表題で再度記事を作り直してアップしようと思います。
なお、一語一句覚えているわけではないので、内容に多少の相違はあるかもしれませんが、どうかご了承願います。
お詫びのしるし(?)に画像を増やしておきましたので改めてお楽しみください
なお、画像は高崎~長野~新潟と列車を乗り継いだと仮定して通る地域順にに貼り付けているので撮影時期や季節がバラバラですがご了承願います。
なお「私の記事に信越本線が多いのは…」という表題については前回の「群馬県編」で理由に触れていますので割愛させていただきます。
碓氷峠を登りきって群馬県から長野県に入ったところが軽井沢です。
廃線となった横川方から見る現在の軽井沢駅。
左側に北陸新幹線ホームが見えます。
濃霧に覆われることが多い軽井沢…しかし、天気がよければ浅間山の美しい姿を近くに眺めることができます。
碓氷峠の急勾配をEF63形電気機関車と協調運転することによってこの区間に長編成で乗り入れることができるようになったわけですが、そのために開発されたのが169系急行型電車。
山岳路線向けの165系をベースに開発されたので車体などはほぼ165系と同一で、碓氷峠以外の区間では165系との混結も可能でした。
外観上で165系と違うところは信越国境の豪雪地帯を通るため前照灯内側のタイフォン(警笛)のカバーがシャッター付き(165系は巣リッドタイプ)なのと乗務員室付近の屋上に雪の中でも音がよく通るようにホイッスルが取り付けられていることです。
画像は廃車となって軽井沢駅で保存されている車両でオリジナルカラーの時代のものです。現在は場所も少し移動して変な色に塗り替えられてしまっています。
しなの鉄道115系。
長野県内の信越本線はほとんどの区間が北陸新幹線開業時に並行在来線としてJR東日本から経営分離され、第三セクターしなの鉄道に生まれ変わりました。
発足当時はJR東日本から譲渡された169系と115系による運転でした。赤い車体に塗り替えられた編成を中心に国鉄標準色やJR時代の新旧信州色に復刻された編成などが目を楽しませてくれましたが、近年はJR東日本新潟支社管内でローカル列車の主力となっているE129系をベースとした新型車両SR1系への置換えが進んでいます。
信濃追分駅。
軽井沢町の追分は五街道のひとつ中山道とその脇街道である北国街道との分岐点。
中山道は西へ向かい、塩尻から木曽路を通って美濃へ抜けて京へ向かいますが、明治初期に東京と京都を結ぶ鉄道が計画されたときには海運などが発達していた東海道に比べて発展が遅れていた中山道を活性化するために東海道ではなく中山道幹線として建設が決定されました。しかし、険しい山岳地帯が続くこのルートでは当時の技術では困難であることから結果的に東海道ルートに変更、建設のための資材運搬線として日本海側の直江津から建設された路線と繋げて北へ向かう新潟へと至る信越本線の前身となったのでした。
小諸の手前で左側から寄ってくる線路は小海線です。山梨県北杜市の中央本線小淵沢駅を起点として八ヶ岳山麓の高原地帯を通るこの路線は信越本線にはすぐには合流せずに並行して乙女駅と東小諸駅を経てから合流します。この二つの駅は現在のしなの鉄道である信越本線にはありません。こちらはすべて通過します。
通過するしなの鉄道の列車から眺める乙女駅。男性としては惹かれる駅名なんですけどね…。
田中駅。この一帯で勢力を誇っていた豪族*滋野氏、その一族海野氏は戦国時代末期に上田城を拠点に勢力を広げていた真田氏の祖先だと伝えられています。
滋野三氏と言われる海野氏・根津氏・望月氏のうち海野姓と望月姓は長野県の小県郡一帯では多いのは解るとして、甲斐(山梨県)を挟んで離れている静岡県の中部や東部でも多いのはどのような関連があるのか興味あるところです。
私のオススメは田中駅で下車して次の大屋駅までの旧北国街道を歩くことです。
高原ちたいらしいどこまでも突き抜けるような明るい青空は解放感に包まれます。
途中の踏切で警報器が鳴ったので止まっていると115系上り普通列車が通過していきました。
踏切を渡るとまたすぐに警報器が鳴ったのでスマホを構えて撮ったのがSR1系の下り普通列車。
北国街道海野宿。
田中駅と大屋駅の中間くらいになるでしょうか…海野宿を通ったときの画像です。
(ふふふ…おれさまが来るというので恐れをなしてどの商家も固く戸を閉ざしておるわい)
というわけではなく、新型コロナウイルスのせいで誰も歩いていなかっただけのことです。
大屋駅。
田中駅から海野宿を通って大屋駅まで1時間くらいだったように記憶しています。もちろんコロナ禍でお店もやってませんでしたから道草無しでの所要時分です。
東信地域で一番の商業都市は上田市。
言わずと知れた戦国時代の豪族真田昌幸が築いた上田城の城下町です。
徳川の大軍を圧倒的に少ない兵力で打ち負かした真田昌幸と息子の信幸(⇒信之)・幸村(本名は信繁)兄弟。徳川は上田で真田に屈辱的な大敗を被り家康は激怒したそうですが、豊臣秀吉の仲介により和睦、家康の重臣である本多忠勝の娘・小松姫に家康の養女としての格を与えて信幸の嫁とします。これが後の真田氏の運命にも大きく関わることとなるのですが…。
家康が没して2代将軍・秀忠の命により真田氏は上田から松代(現在の長野市松代町)へ転封となり、真田信之(←信幸)は松代藩初代藩主となります。
上田駅にて通称「山スカ色」に復刻されていた編成を見ることができました。この編成はその後まもなく廃車されましたからこのときがおそらく最後の出会いでした。
この塗装の115系…実は国鉄時代でも信越本線では走っておらず中央本線や篠ノ井線経由で長野駅に乗り入れてくるのを見かけることがあるくらいです。
スカ色(関東の横須賀線で使われていたカラーなのでそのように呼ばれています。山スカ色というのはこの横須賀色を基本に同様のカラーで走っていた中央本線の115系に施されていたこのカラーを指していました)。
信越本線のスカ色となると私が高校生になる頃まで走っていた70系の時代を思い出します。
JR東海から乗り入れてくる383系特急「(ワイドビュー)しなの」の前面展望から…。
名古屋から中央本線で木曽路を抜けて塩尻駅からJR東日本エリアに入って篠ノ井線を通って篠ノ井駅で信越本線に合流して信越本線に入って長野駅までやってくる列車です。
私にとってこの犀川橋梁が東京での日常と長野の親戚宅での時間との切替セクション的な車窓風景だったような気がします。
以下は長野駅にて。
LED全盛の時代に国鉄時代の381系以来の幕式イラストマークを継承する「しなの」。
豊野駅を過ぎると飯山線と分岐します。
飯山線は千曲川に沿って飯山・桑名川・十日町といった豪雪地帯を通って新潟県の越後川口駅へと至ります。
牟礼駅にて。
雪の季節以外の牟礼駅はこのような感じです。
天狗の親子は老朽化により数年前に撤去されてしまいました。
牟礼駅は飯綱東高原への最寄駅。
飯縄(いいづな)山には日本八天狗に数えられる飯綱八郎天狗がいらっしゃいまして、むかし我が国がに飢饉に見舞われたときに全国を飛び回って飯縄山の「食べられる砂」を民衆に配ったという言い伝えがあります。
古間駅にて。
豊野から北は昔から「一里一尺」と伝わるほど積雪量がみるみる間に増えていきます。
雪深い信越国境ですが、古間駅は小さな駅ながら付近の風景が好きでよく足を運んでいます。
古間駅から牟礼駅方向に少し歩いたところに旧戸草隧道が美しく残されています。電化前の信越本線の旧線跡です。
妙義山を背景にやってきた普通列車「妙高」。
黒姫山を背景に上り普通列車「妙高」。特急型車両を使用した乗り得普通列車も過去のこと。
黒姫駅から歩いて国道18号線を少し古間方向に戻ると江戸時代の俳人・小林一茶が終焉を迎えた土蔵が残っています。
国道に面した家屋は弟家族が居住していました。
うっかり削除してしまいましたのでアップし直しましたが、次回は「新潟県編」となります。
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