東高野街道を行く(四條畷市後編) | としのブログ

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四條畷神社と一の鳥居



東高野街道を多くの方がブログやサイトで紹介しておられるので「何を今更」「知ってるよ」とお思いの方も沢山おられるかとは思いますが、私目線で、その地元の情報を調べて書いて見たいと思います、「へー、知らなかったわ」と思っていただける方がお一人でもいらっしゃたら幸いです、興味がある方はお付き合いください。


楠木正行の墓を参った後、四條畷神社に向かいますが、途中JR西日本の学研都市の踏切を渡るのですが、訪問した日に福知山線で人身事故があり、この四條畷駅まで影響で非常にダイヤが乱れていて、四條畷駅北側の踏切も20分ぐらい「開かずの踏切」状態でした、この207系も超ノロノロ運転で、四條畷駅ホームに入って行きこの場所で止まってしまいました、この列車の前後も数珠繋ぎ状態で、車掌さんも心配そうに窓から顔を出していますね。





C38  東高野街道は矢印の方向によぎりますが、また寄り道をして四條畷神社に向かいます、東高野街道からは少し離れていますが、四條畷市にとって四條畷神社は無くてはならない存在感ですので訪ねてみたいと思います。


四條畷神社を訪ねるとなると先ずはこの一の鳥居を潜らなければなりませんが、この鳥居、新しいと思いませんか? 実は2018年(平成30年)6月の大阪北部地震の際に鳥居が倒壊し撤去されていました。


倒壊する前の一の鳥居、1892年(明治25年)に建てられた石鳥居で、脚の部分が破損し鳥居全体が倒壊する怖れがあり撤去されました、また右側ある四條畷神社の石碑や手前にある石塔も被害に遭いました。


石塔は台座だけが残っています。


もちろんこちらも同じです。


しかしながら簡単に再建と言っても莫大な費用がかかりますよね、「市が出せば良いやん」と無責任な発言をするのは簡単ですが、中々そう言う訳にも行かず困っていたところ、地元の大工さんがポーンと自腹を切り(聞くところによると1000万円近い借金をして)、去年2021年(令和3年)9月に再建されたようです。



やはり神社には鳥居が必要ですね、紹介されたネットの書き込みには、第三者が好き勝手な事を匿名で書かれた内容も見かけますが、何もしない人が意見を言える立場でも無い、市会議員や府会議員が選挙で「郷土愛」を使いますが、本当の「郷土愛」には敵いませんよ。

 その大工さん関係者の方々、ご苦労様でした、頭が下がる思いです。

では、四條畷神社に向かいます。



C39  真っ直ぐ伸びた参道、段々と坂が急になるのが分かります。



C40  四條畷神社の入口につきました、では上がってお参りします。



この階段を多くの方が登ってお参りされたのでしょう、昔から四條畷の村々を見渡し村内安全も祈願されたのでしょう。


駐車場の横にある石碑、すぐ上の飯盛山頂に飯盛城跡があります。


四條畷神社の本殿です、この神社は先に紹介した楠木正行と一緒に「四條畷の戦い」で戦死した計24名を祀っています、主祭神はもちろん「小楠公」こと楠木正行です。

明治維新後、天皇制の強化、富国強兵の世相を反映し、楠木正行は忠臣として見直され、後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は逆賊として扱われたのです、地元の住吉平田神社の神官 三牧文吾らが中心となり神社の創建を願い出たところ、1890年(明治23年)神社創立が勅許され、四條畷神社の尊号宣下が下った。


先ずは、手水舎で手を清めます。


あれ、これは?

丸い球が浮いています、触って見るとピンポン球より少し大きく軽い、プラスチックでは無さそう柄もカラフルで見てて楽しそうです。



ところでこの手水舎(ちょうずや)、とても新しいですね、それもそのはずで2018年(平成30年)9月の台風21号で先代の手水舎が倒木の下敷きになり潰れてしまいました。


その時の様子。


先に紹介した6月の地震の被害とダブルでショックですね、そこで一の鳥居を再建された大工さんが、この手水舎を再建されたようです。

本当に、昔から地元に愛されている神社ですねー


なにわ七幸めぐり

1983年(昭和58年)大阪21世紀協会の当時の理事であった堺屋太一さんの発案で、大阪の有名な神社仏閣七ヶ所を巡るコースを推薦されました、この七幸めぐりの特別な御朱印もいただけるようです、しかし四條畷神社以外はみんな大阪市内ですね、これは一日で巡るとなれば自動車より鉄道が良いかも、「なにわ七幸めぐりチケット」なんてのが有れば良いなあ。

 最初のところで専用の御朱印帳を購入すると、専用のはがきを頂けるので、そのはがきに各所で御朱印を戴く際に認定印を押してもらい、満願になれば四天王寺の事務局に送ると、四天王寺の南大門の横の特別掲示板に氏名を二年間掲示して貰えるらしい、なんか楽しそうですね。

 確かに初詣などでも話題になる所ばかりで、それだけ四條畷神社も大阪人にとって心の拠り所のようです。



本殿の右側にある像には、忠孝両全(右から読む)とあります、楠木正成が息子の正行に、現在の島本町の桜井での別れを告げる像である。

湊川の戦いに挑む楠木正成は、もしこの決戦に敗北すれば足利が天下はを取るだろが、あくまでも後醍醐天皇に対する忠義を貫くよう諭したそうです。


本殿の左手に有るのは、楠木正成の妻「久子」、正行の母親を祀る妣神社(みおやじんじゃ)である。


貞仁両全(左側読む)とあり、迷わない気持ちと優しい心を両方完全に持つと言った意味でしょうか。

楠木正行の母親 久子が父正成が湊川の戦いで戦死してその首が届いたのを見て、正行が短刀で自害しようとする所を思いとどまるように諭されている場面の像である、その時正行は11歳。

良妻賢母の母久子を祀り、安産を祈願する神とされています。


いかに四條畷神社が愛されているか、楠公さんや小楠公さんがすごかった実感した四條畷神社でした。



では、昔から眺められたこの景色を最後に、また東高野街道に戻ります、まだ先は長そうです。


つづく