1989年4月30日限りで、名寄本線と共に廃線になってしまった日本最北にして最長距離の特定地方交通線・天北線。

 

同線は私が乗車した数少ない特定地方交通線のうちの1つですが、往路は宗谷本線(幌延)経由だったため、復路の上り列車のみという行程でした.。残念ながら当時まともなカメラすら持っていなかったため写真は1枚もありません。その時乗車した「証」となるモノとして残っているのは、私のおぼろげな記憶以外では実際に乗車した時に使用した車内補充券(区変のため原券回収)と、途中3駅で購入した硬券入場券、そして車掌さんから戴いたワープロ刷りの『乗車証明書』のみ。

その時の思い出話はまたの機会に紹介する事として、今回はその天北線と、中間の浜頓別駅から分岐していた興浜北線の廃駅跡を巡るべくレンタカーを走らせたのであります。

 

 

 

稚内の市街地を抜けて国道238号線に入り、左に宗谷湾が見えてくると右に天北線の廃線跡の路盤が並行してきます。

 

 

 

声問駅跡周辺の廃線跡は、国道のバイパスとして整備されて立派な4車線道に生まれ変わっています。2枚目の写真が旧駅構内付近。左側にある建物群は、廃線前から存在していました。

そういえば、南稚内駅の宗谷本線合流点近くから国道40号線との交差付近にあった旧宇遠内駅(元乗降場)を経て、現在のはまなす3丁目までの廃線跡も道路(市道天北通)として利用されています。かつての思い出を辿るなら国道をストレートにではなく、せめてそこを通っていけば良かった…。

 

 

 

国道を直進すれば宗谷湾沿いに宗谷岬へ向かいますが、天北線は海と別れ、内陸部を通って宗谷丘陵を越えていました。右折して廃線跡と並行する道道121号(稚内幌延線)に入ります。

 

 

 

最初の駅跡訪問として、稚内空港近くの『幻の駅』・東声問(臨)駅があったという場所に行ってみました。尚、写真右側に見えるように付近は航空機着陸のための進入灯が設置されており、空港運営者である北海道エアポートの保安施設のため立入禁止区域となっています。

厳密に言えばJR北海道発足後最初の新駅にして最初の廃駅…という事になりますが、当時私は全くその存在を知りませんでした。ソレもそのハズ、同駅は『日本一営業期間が短い駅』という、とんでもない記録を持つ駅でして、1987年6月1日だけの営業だったとの事。

左右に横切る天北線の路盤が見えますが、写真中央付近が駅跡だったらしく、笹ヤブの中に設置されていたらしいのですが、あまりにも情報が乏しいのでその全貌は不明な点が多く、私はどうしても気になってしょうがなかったのでその謎に迫るべく、昨年末の某日稚内市立図書館に行って、少しでも資料がないか探してみたのです。

 

 

 

とはいえ、勿論『東声問駅』としての詳細な資料はあるハズもなく、その当時の地元紙の記事に頼るしかありませんでした。

稚内空港がジェット化して新滑走路とターミナルビルがオープンしたのが1987年6月1日との事で、図書館司書の方に地元紙『日刊宗谷』『宗谷プレス』(※ローカル紙が軒並み廃刊になっていく昨今ではあるが、両紙は現在も刊行中。2紙が併存するのは非常に稀有な例)の同年6月分の原紙を出して頂き、新空港関連の記事を見ていると6月2日付の『日刊宗谷』に東声問駅(記事には駅名の記載はない)に関連した一文を見付け出す事ができました。その記事を一部引用させて頂きます。

『二千三百人が参加 子育の日記念遠足』

ジェット化就航にあわせて稚内市子育て推進協では、一日「子育ての日・記念の集い」と「子育ての日、記念遠足」を実施した。

同記念行事には、市内三十九小中学校生二千三百人が参加した。午前八時に各校から‟集い”の会場「緑と太陽の村」へ集合、沿線校はスクールバスや徒歩、市内校の各一学年は、稚内駅から五両編成の列車で、空港付近の仮設乗降場へ行きここから会場まで歩いて向かった。この時は快晴微風、元気な子供達は疲れも見せずに目的地をめざした。

昨年、「子育て平和都市宣言」を行い、五月五日を「子育ての日」に定めていたが、この一回目行事を約一カ月遅らせ、ジェット機就航に合わせ、盛大に挙行した。(以下後略)

 

写真は同記事に掲載されていた東声問駅とされる乗降場で続々下車して会場へ向かっていく子供達の姿。車両はキハ56系(車両の所属区所は不明)である事がハッキリと判りますが、ホームらしきモノは何も見当たりません。車両のデッキ付近を良く見ると、どうやらタラップを据え付けていたようで、降車の取り扱いは現地にJR社員が出向いていたのではと思われます。記事写真右側にはヘルメット姿の作業員の姿も見え、JR社員なのか空港関係者なのかは不明ですが子供達の安全を見守っていたかのように思えます。

(記事と写真は『日刊宗谷』昭和62年6月2日 3面より引用させて頂きました)

 

 

 

つまり上記イベントのために、わざわざ天北線の本線上に列車を停めて乗降を取り扱う目的で運輸局に届け出を提出したので『東声問駅』という停車場名として1日限りのみの営業をした…というのが真相なのでしょうか。子供達は「子育ての日」記念行事、そして昼食の後、稚内空港へ向かい羽田からのジェット化初便を出迎えたとの事。ただ残念ながら記事には帰路についての記述はなく、列車を利用したかというのはいまだ不明なのであります…。

また、車両についても閉塞区間の関係で東声問駅での折返しはあり得ず、次の閉塞取り扱い駅である曲淵駅まで回送し、そのまま南稚内駅構内の稚内運転所へ折返ししたのか、はたまたそのまま音威子府方面へカラのまま回送されたのか…。いずれにしても、当時を知る者でなければ全容は解明できず、実際にイベントに参加したという小学1年生は現在42歳位になっているため、憶えている方は果たしてどれ位いるのだろうか…?

そして、何故わざわざそこまでして列車を利用したのかというのも謎ではありますが、当時天北線は廃線の俎上にあったため、稚内市が存続と利用促進を願うべく天北線に団体臨時列車を走らせたのではないか…と私は思うのですが。

 

先程紹介した写真でも小さく写っていますが、天気が良ければこのように利尻山が遠望できました。ちょうど日差しの関係で残雪がクッキリと見える絶好のコンディション。天北線の車窓からは樺岡~声問のあたりで利尻山が見えていたようです。残念ながら私が乗車した当日はどんよりとした曇り空で、前日の宗谷本線に続いて利尻山の美しい姿を車窓から眺める事はできませんでした…(涙)。

 

 

 

コチラは稚内空港を見た側。奥には宗谷丘陵が見えます。

天北線の車窓からも空港が見え、私はジェット化したというのをニュースで知っていたので、乗車した時に遠目ではありますがハッキリ見た事を憶えています。ちなみに当時のターミナルビルは既になく、現在の建物にその役目を譲っています。

 

 

 

次に訪れたのが恵北駅跡。

かつては『幕別駅』という駅名だったのが、十勝の幕別と紛らわしいからという理由で駅名を根室本線の駅(改称前は止若)に譲ったといういわく付きの駅でした。廃線前から駅舎の横に立っていた楡の木が、ここに鉄道があった事を物語っているかのようで…。開業記念に植樹されたのでしょうか?

 

 

 

駅舎跡に建つ『恵北開基百年記念碑』。記念碑ではありますが、まるで恵北駅の墓標のよう…。

 

 

 

そして、駅があった事を明確に示すのが、この駅名標。

廃線当時からは塗り直されているようですが、一応現役当時に近いスタイルではあります。但し、元々の線路とは逆に向けられたため、隣駅の表記も実際とは逆になっています。2枚目の写真は声問駅方向を見た図。

 

 

 

駅の裏手は湿地帯で、コチラでも水芭蕉が早くも花を咲かせていました。

天北線は道北の湿地帯に敷設されたため路盤が弱く、乗り心地が悪い…という評判でしたが、私が乗車したのはエアサスのキハ40だったので、あまりそういう印象は感じなかったような…?

 

 

 

旧駅前の道道沿いには、天北線代替バスの待合所が。

中は無人駅のソレと同様、ベンチが置かれて座布団が敷いてありましたが、肝心の路線バス(宗谷バス曲淵線)は2020年3月末を以て廃止、事前予約制の乗り合いタクシーという交通形態に変わりました。結局、鉄道なき後の代替バスはどこも厳しく、今や路線バスすらなくなってしまったり、残っていたとしても最小限の本数のみという区間もある位です。

 

 

 

恵北駅の最後にもう1枚。

後で写真ファイルを見て気付いたのですが、かつての鉄道官舎だった建物が写真右の消防団の建物の隣に残っていました。廃線後は個人に払下げられているようです。

 

 

 

恵北駅を後にして、かつての踏切を過ぎると廃線跡は道路左側に。

右側には牧草地、そして丘陵地帯の向こうには利尻山が見えます。

 

 

 

再び、線路跡と交差します。コチラはハッキリと舗装を直した跡があり、いかにも踏切だったという事がお判りになるかと。線路跡は砂利道になっているようですが…。写真は樺岡駅方を見た図。

 

 

 

そして樺岡駅の跡まで来ましたが、どうもコチラに関しては旧駅前のお宅の私有地となっているらしく、流石に傍まで行くのは遠慮し、道道側から保存されている駅名標を遠望するに留めておきました。先程の恵北駅とは異なり、隣駅が正しい表記になっています。

 

 

 

樺岡も恵北と同様、いわゆる『限界集落』。

恵北に学校があるのに対し(増幌小中学校)、樺岡小中学校は既に廃校になっており、校舎は樺岡会館として利用されているようでした。

2枚目は元宗谷バス樺岡停留所の待合所(現在は乗り合いタクシー用)。コチラも外観はボロボロ…。

 

 

 

そして次の沼川駅跡にやってきました。

沼川はある程度まとまった集落があった地域で、比較的利用客も多かったかと。旧駅前には賃貸住宅も存在します。しかし公共交通は先述の乗り合いタクシーのみ…。

駅前広場の一角はご覧の通り雪捨て場になっていたようで、この時点ではまだ融けずに残っていました。

 

 

 

駅跡は公園風に整備され、記念のモニュメント、模擬駅名標、そして旧駅舎の姿を今に伝える看板が建っています。

看板やモニュメントに記載されている通り、元々天北線は最北へ向かう初の鉄路・宗谷線として開通、その後宗谷本線になりましたが、幌延廻りのルートが宗谷本線となった事から北見線に改称、支線に転落という悲劇に陥り、天北線に再度改称され廃線の運命を迎えたのですが、「もしも」(禁物を承知の上で)宗谷本線のままだったら、今頃どうなっていたのだろう!?

尚、本記事カテゴリは「宗谷本線」に含めましたが、天北線が宗谷本線だった事に敬意を表してという事で。

 

 

 

沼川駅跡の鉄道遺構として残っているのが、この貨物ホーム。

線路跡には既に木が生い茂っており、時の流れを感じます。

 

 

 

そしてこんなモノも。

旅客ホーム跡から線路側に降りると、倒された通信ケーブル用のコンポールが枯れた葦(?)に埋もれる形で残っていました。「エカ2」の電柱番号も残ったまま…。

 

 

 

線路跡から駅跡と樺岡方を見た図。

草木は芽吹き、ここでも春の訪れを感じられたのでした。

 

 

 

沼川駅跡を後にした(なんかヘンな日本語?)私は、稚内市内としては最後となる曲淵駅跡を目指します。

 

 

 

線路跡は道道121号豊富猿払線と並行。右側がかつての路盤。

 

 

 

やがて廃線跡は道道と合流。

曲淵駅跡周辺の線路敷は声問駅跡と同様に道路に生まれ変わっていました。1枚目は沼川方、2枚目が小石方。駅裏手にあった木材工場は今も盛業中で、この日も操業していました。

 

 

 

曲淵駅跡から見たかつての駅前通。店舗のある交差点から右折する道も含めて道道646号曲淵停車場線に指定されており、駅があった名残を留めており、通りの左側は曲ふれあい公園として整備され、駅名標を模した看板が建っています。

天北線があった当時は当駅止まりの列車も設定されていた程でしたが、やはり曲も限界集落で、駅周辺にあった店舗もほとんど廃業しており、今や小中学校すら廃校になっています。

 

 

 

コチラは道道移設の際に建てられたと思われるバス待合所。駅名は曲淵でしたが、本来の地名は曲と字体が異なっているため、バス停の名称もソレに倣っていました。

当初は音威子府~稚内をほぼ鉄道ルートに沿って走っていた宗谷バスの天北線代替バスでしたが、直通便の経路は宗谷岬廻りに改められ、稚内市内の天北線沿いの便は曲線としてここを発着するようになり、宗谷丘陵を越えて猿払村方面を結ぶ便は消滅。

残った曲線も、先述の通り2020年3月末限りで廃止され、予約制の乗り合いタクシーに改められて最低限の公共交通が維持されています。

 

 

 

道路用地となったため駅跡の痕跡がない…と思われていた曲淵でしたが、石積みの旧貨物ホーム(現在は製材所の用地)の擁壁が崩れかけた形で残っていました。

 

 

 

そしてコチラにも恵北と同様、かつての鉄道官舎が残っていました。よく見ると玄関付近には『建物財産標 鉄』がそのまま残っているように見えますが、やはり個人に払い下げられているようで、流石にコチラも近寄るのは遠慮しておきました(現在も人が住んでいるかどうかは不明)。

 

 

 

さて…曲淵駅跡の次は小石駅跡に向かうのですが、この駅間(停車場間)距離は17.7㎞と、長い間日本一という記録を誇っていた事で有名でした。途中信号場すらないという、本当に何もない山間を貫く区間で、実際乗車した時は流石の私も退屈だった…という印象が残っています(当時の駅間所要時分は約22分)。

 

 

 

廃線跡を利用した道路は道道曲淵停車場線との交差点近くの左カーブ手前までで、その付近の奥に1964年に閉山した曲淵炭鉱の石炭積み出し施設の廃墟が見えます。宗谷炭田のいくつかあった炭鉱の1つでしたが、露天掘りのため生産量は少なく、早々と閉山してしまったようです。

手前に見える公営住宅は人が住んでいる気配はなく、窓ガラスは板で塞がれていました。

 

 

 

小石駅跡へ向かう間、難所ともいえる宗谷丘陵の山間部を走行します。旧天北線は道道よりずっと南側の川沿いの谷間を縫うように通っていたため廃線跡とはしばしのお別れ。

峠を越えると、稚内市から猿払村へ入ります。

 

 

長くなり過ぎてしまうので、今回はここまで。

残りは次回に紹介させて頂きます。

つづく