前回の続きです。
峠を下り、再び廃線跡と合流して小石駅跡に到着。
私はこのカローラスポーツのスペックを良く知らずに乗っていたのですが、いわゆる「ダウンサイジングターボ」で、どうりで1.2リッターの排気量でも全く非力を感じなかったワケだ…と納得。しかも昔のターボ車と違ってターボラグ(過給前の出力低下現象)もないし。
駅跡には『小石交流センター』と消防団が建っています。かつての駅前広場の曲淵方には『望郷』の石碑が建立されましたが、雪よけのため?シートで覆われた状態になっていました。
かつての駅前通り。左側には小さな神社が見えます。小石の集落は曲淵よりさらに人家もまばらな『限界集落』。曲淵と同様に炭鉱で栄えたのも遠い昔…。代替バスの経路変更に伴い、小石の集落は通らなくなったため現在は猿払村が運営する予約制デマンド交通に切り替えられています。
かつてのホーム側へ廻ってみると、何やら石で囲まれた植え込みが。駅があった頃から存在していたのかは不明ですが。やはりコチラも線路跡には木が生い茂り、廃線からの長い年月を感じるのでした…。
以下3点の写真がかつての小石駅を偲ぶモノ。
これらは次の鬼志別駅跡に建てられたバスターミナルに併設されている資料館に所蔵されている品です。淡い青緑色に塗られた木造駅舎…1980年代の北海道にはカラフルに塗装された木造駅舎が多かったような気がします。
その鬼志別バスターミナルへやってきました。
ここが猿払村の中心部で、旧鬼志別駅は役場への最寄り駅でした。天北線の転換交付金で駅跡に建てられたターミナルのうちの1つ。前に停車しているハイエースはデマンド交通の車のようです。
バスターミナル内の切符売場はお昼休み中で、しばらく来るバスもないのですが、待合室には老婦人と年配の男がベンチに座っていました。
ターミナルの建物の一角には、天北線の資料室があります。鬼志別はクルマで何度も通っているのですが、内部に入るのは初めてで、ようやくお目に掛かれた…という感じ。
猿払村に所在していた駅の駅名標や看板類、また鬼志別駅で使用していた通票閉塞機などの鉄道部品、そして切符類など貴重な品々が展示されています。
収集鉄(切符鉄)の私にしてみれば、ヨダレが出そうな硬券切符類…。
硬券は変色しやすいため、乗車券に関しては経年で字紋が消えてしまっているのが残念です。せめて現物はファイルに保管して、写真に撮ったモノを展示すべきかと。この事は他の鉄道資料館にもいえる事なのですが。
天北線の中でも特にユニークな駅として知られていたのが、飛行場前駅(元仮乗降場)。
その名とは裏腹に「飛行場なんてどこにもない!」とよく鉄道関連の書籍に紹介されていたモノでした。当駅付近に戦時中、陸軍の飛行場が建設されていた事に因んで…という事でしたが、乗降場として開設された1955年は終戦から既に10年経っており、やはり戦争の記憶を留めたいという一心で…という命名なのだろうか…?
なかなか充実した資料室でしたが、あまり長居し過ぎると他の駅まで廻っていられなくなってしまうので次を目指します。
この道道1089号猿払鬼志別線はその名の通り、猿払~鬼志別の天北線の廃線跡を利用して建設されており、列車に乗った気分になりながらドライブします。道内の廃止路線の中でも、天北線は道路になった区間が非常に多いような…?
中間に芦野駅跡がありますが、特に立ち寄らず一旦停車してこの写真のみ撮影。
旧駅前通りの右側にあるレンガ色の建物は、芦野集会所。
猿払方に向かって右側にはキモマ沼が見えました。34年前に乗車した時、車窓から眺めた覚えがないのですが…(汗)。
正面の遥か向こうには、敏音知岳がちょこんと顔を出しているのがお判りになるでしょうか?この山も、天北線の車窓の友でありました。
そして進行左側にはポロ沼が見えてきます。コチラも車窓から見た記憶がない…。当日天気が悪くてガスが掛かってたからかもしれませんが…?(「本当に乗った事あるのかよ」という野暮なツッコミはヤメてね)
沼の向こう側は国道238号線が通り、その向こう側にはオホーツク海が見えるのですが、残念ながら天北線の車窓からはその海はほとんど見る事ができませんでした。
ここで大発見が!
このポロ沼付近の鉄道電話用電信柱がいまだ撤去されずに残っているではありませんか!廃線になればレールや枕木はおろか電信柱も根こそぎ撤去されてしまうのが通例ですが、道路に改築されたにも関わらずこのように鉄道の名残を見られるなんて…。
再び猿払方面へ向かっていると、天北線代替バスの『天北宗谷岬線』(三菱ふそう・エアロスター)とすれ違いました。この便は今や1日1往復しか存在しない音威子府~稚内の直行便(音威子府では下り特急宗谷と接続)ですが、来年10月を目途に音威子府~浜頓別も路線バスとしての使命を終える見込みで、かろうじて命脈を保っていた天北線代替バスも35年目にしていよいよその系譜に終止符を打つ事になりそうです。
そして、道道1089号猿払鬼志別線の終点・猿払駅跡まで来ました。
左折の道はかつての駅前通りで、道道584号猿払停車場線として国道238号線と結ばれています。
猿払駅跡から先、旧浜頓別駅付近までの廃線跡は『北オホーツクサイクリングロード』に転用されましたが、右には「熊出没注意」の看板が…。良く見ると、アスファルトは草生してろくに整備されていないというのがわかります…。
かつての駅前に建てられたバス待合所と、猿払バス停。
かつては林業で栄えた猿払も、鬼志別に村の中心が移ると衰退し、今や人家もまばらな集落に落ちぶれてしまいました。このように、自治体名とマチの中心となる駅名が一致しない処は少なくありませんが…。
現在の猿払村の主産業はオホーツク海で獲れるホタテを中心とする漁業で、猿払のホタテは外食産業に人気がありブランド化されています。
本当は他の途中駅(飛行場前・浅茅野)などの跡も見に行きたかったのですが、時間が押してきたので断念、国道238号線をストレートに浜頓別へ向かいます。
途中、クッチャロ湖に通じるクッチャロ川のサイクリングロードに転用された橋梁が見えたので一旦停車して撮影。この辺りは鉄道写真の有名撮影地でもありました。2枚目写真の左側には敏音知岳が見えます。
本当は浜頓別駅跡(現在は国道275号線が貫き、道路を挟んでかつてのバスターミナルだった町立図書館と、バスターミナルも兼ねた『道の駅 北オホーツクはまとんべつ』が建っている)も行ってみたかったのですが、駅舎が残っている場所を優先して行く事にしたためパス。ここからは興浜北線の廃駅跡で2箇所のみ残っている駅舎を訪ねるべく、国道238号線をオホーツク海に沿って南下します。
そして…浜頓別から仮乗降場も含めて2駅目の豊牛駅跡にやってきました。
まだ駅舎が残っているとの事で、今回訪ねる事にしたのです。
私が前回訪れたのはもう25年位も前で、その頃は比較的保存状態も良かったのですが、現在は放置状態であるらしく、かなりボロボロで哀れな姿を晒していました…。駅名が書かれていたアクリル製の防風板も割れてしまっており、かろうじて豊牛駅が読める程度。
建物財産標が示す通り、駅舎(待合室)は昭和53(1978)年の建築である事が判ります。つまり、1985年の廃線までたった7年しか駅舎として使われていなかったのでした。駅舎建築の頃はまだ国鉄再建法の法案が提出される前で、タイミングが悪過ぎたとしか言いようがありません。
駅舎内を覗いてみると、なんと当時の発車時刻表が…!
しかし…内部と軒天部分は天井材が剥がれ落ちており、見るも無残な姿…。鉄骨材も腐食でボロボロという、あまりにも惨めな姿に心を痛めるのでありました…。
ちなみに、駅舎玄関内の基礎部分には一切立ち入ってはおりません。建物自体は民間に払い下げられて物置として利用されていたとの事ですが、現在の所有者は不明。見物の際は絶対に内部まで入らず、あくまでも外から眺める程度にしておき、決して荒らすような事をしてはいけません!あと、万が一ご近所の方と顔を合わせる事があれば最低限の挨拶はしておいたほうが良いかと。
駅舎の横には防災無線の鉄塔と、地震観測施設の小屋が建っているため、旧ホーム側へ立ち入っても差し支えないと判断、ソチラにも廻ってみました。ご覧の通り笹ヤブとなっています。駅舎横には灯油タンクがありますが、かつては無人駅でも委託管理者によって冬になればストーブが焚かれていたのです。
豊牛駅を後にし、斜内駅跡を目指します。
写真は景勝地である斜内山道。かつては列車がこの岬に沿うようにして走っていたのです…。
そして、もう1つ駅舎が残されている斜内駅跡まで来ました。
やはり豊牛駅と同型の簡易駅舎で、終着北見枝幸駅の1つ手前だった問牧駅(コチラは既に解体済)も同じタイプでした。同じタイプの駅舎は、どういうワケか旭川鉄道管理局(旭鉄)管内の廃止された路線ばかりに集中しており、他にも興浜南線(沢木)、名寄本線(中名寄、二ノ橋、沼ノ上)、渚滑線(下渚滑、中渚滑、滝ノ下)、湧網線(能取)に存在していました。
ちなみにコチラも民間に払い下げられており、流石に傍まで近寄るのは遠慮しておきました。写真は国道側から望遠で撮影したモノです。
斜内駅跡からそそくさと去り、かつての国道だった斜内山道を辿って、次の目的地へ向かう事にしました。現在国道はトンネルで一直線に突っ切ってしまいます。その上の小高い処に、かつての興浜北線のレールが敷かれていたのです。
斜内山道の突端、斜内岬灯台。そのすぐ下を通っていた興浜北線の路盤がハッキリと判別でき、列車は車輪を軋ませながら急カーブをゆっくりと走行していたのです。ここの車窓から眺める景色はさぞかし絶景だったかと…。
廃線になった頃、私はまだ小学生。興浜南線も含めて、今はなき路線の中でも屈指の乗ってみたいランキング上位の路線でした。
斜内山道を通った後トンネルをくぐって元の道に戻り、先程訪問した豊牛駅跡近くから分岐する道道586号豊牛下頓別停車場線を通って天北線沿いへショートカット。
その道すがら見つけた廃バスが気になって一旦停車…。尺からして日野RC301Pでしょうか…?元の事業者は不明ですが。
旧天北線沿いの国道275号線に出て、寿公園の保存SLを見付けて少し立ち寄ります。
9600形の49648号機(最終配置・追分機関区)はかつて名寄機関区所属当時に天北線や興浜北線でも活躍しており、その縁で当地で保存される事になったようです。
時間がないのですぐに失礼して、本当はキハ22が保存されている中頓別駅にも行きたかったのですが今回は見送り、廃駅跡巡りの最終目的地である松音知駅跡までやってきました。
天北線で唯一木造駅舎が残る駅跡で、保存目的でレールとホームも残され、腕木式信号機も設置されていたのでしょうが、その事を踏みにじるかのように荒らされたからなのか?はたまた現所有者の方針なのか(※かつて別荘として使われていたというが、流石に現在使用されている形跡はない)立入禁止という措置が取られてしまっています。そのため線路を横切っていた道路から遠望するしかありませんでした。
国道側から遠望。その名の通り、松音知岳の麓に駅はありました。
しかし…駅に通じる道がもうありません!
国道側から望遠で旧駅舎を撮影。駅前と線路との間に段差があったからか、鉄骨の基礎の上に駅舎が建っているという変わった造りで、入口上にある旭鉄仕様の駅名板も健在でした。
しかし…扉や窓はベニヤ板で完全に塞がれており、良く見ると「立入禁止」の他に「撮影禁止」の掲示も…。まぁ不法侵入にあたるので立入禁止は承知の上ですが、流石に撮影禁止までするのは行き過ぎでは…?せっかく駅舎が丸ごと保存されているのにちょっと残念な感じ。
松音知岳の近くには敏音知岳がそびえ立ち、その麓にかつてあった敏音知駅の跡(道の駅ピンネシリ)にも立ち寄りたかったのですが、レンタカーの返却時間と帰りの列車時刻の絡みでコチラも見送り。稚内へ戻る事にしました。
帰路は道道785号豊富中頓別線などを経由して国道40号線へ抜けるのですが、その途中にある知駒峠から眺める景色はまさに絶景!!先程の敏音知岳と、その向こうの北見山地の山並みを見下ろす事ができます。
そして、反対側には利尻山も!
この日は特に天気に恵まれ、こうして絶景を眺められて最高でした。そして、知駒峠はヘアピンカーブが連続するワインディングロードなのですが、カローラスポーツの名に恥じない走りを楽しませてもらいました(勿論安全運転で!)。
一応時間に余裕を見たのでレンタカー返却時刻まで時間が余ったため、天北線の終着駅だった南稚内駅に寄り道し、次回の旅で使うLOVEパスを購入しました。宗谷本線の売り上げに少しは貢献できたかな…?
そして、給油を済ませレンタカーを返却、再び稚内駅へ戻ってきました。
この時点での気温は10.7℃。前日よりは少し高い程度。帰路に乗車する17:44発52D宗谷となるラベンダー編成の61Dサロベツ1号は既に到着していました。
朝に私がメッセージを貼り付けた時は数枚しかなかった『巨大駅ノート』ですが、もうコレだけ多くのメッセージが…!
キタカラビル内のセコマで夕食の食べ物を買って改札を済ませ、乗り込みます。
またまたお約束のこのショット。コレを撮らなきゃ、稚内に来た気がしない!
今回乗車するのは中間の指定席車2号車(キハ260-5302)です。勿論LOVEパスの指定席分で取らせて頂きました。
私が指定席を取ったのはほんの3日前で、周囲に誰もいない席を選んだのですが…結局前後左右とも1人ずつ席が埋まっていたというオチ…。まぁG・W初日だから仕方ないっか。
帰路もバッチリ、抜海の丘の車窓から利尻山、そして礼文島まで眺める事ができました!
豊富~下沼の利尻山。
ああ…なんて素晴らしい夕景なんだ…。
きれいな夕陽で有終の美を飾ったという事で、ブログはコレにておしまい。
長々とお付き合い頂き、ありがとうございました!
おわり