省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

飯田線を経由してやってきた 身延線 サハ45012 (蔵出し画像)

 本車は、身延線にいたもう1両のサハ45です。1975年3月までは5両のサハ45が揃っていましたが、アコモ改造車の配備で、3両は大糸線に転出しました。本車は横須賀線退役後、他のサハ45とは離れ一人飯田線に行きました。しかし1969年他の仲間と合流しました。

サハ45012 (静ヌマ) 1977.5 富士駅

f:id:yasuo_ssi:20220204200126j:plain

サハ45012 (静ヌマ) 1981.6 富士駅

 

f:id:yasuo_ssi:20220204200413j:plain

サハ45012 (静ヌマ) 1981.6 富士駅

 このため、横須賀線から直ちに身延線にやってきた仲間と異なる特徴がありました。最後まで身延線に残った同僚のサハ45008の場合、下図のように第1エンド側に手すりと、床下にステップがあります。これは012以外の他のサハ45も同じです。

f:id:yasuo_ssi:20220409150215p:plain

サハ45008の手すりとステップ

 この手すりとステップは、車輌の入替えの際、以下のように使われるためにあったものと思います。

f:id:yasuo_ssi:20220409150534p:plain

入替え作業時に運転台付き車輌のステップを使って添乗する職員
(クモハ60812)

 運転台付き車輌は元々ステップと、運転室扉横に手すりがありますが、サハだと手すりがないので入替えの際に不便です。しかも、サハ45は1964〜5年にかけて身延線に転入しますが、その際に連結できる前面幌・貫通路付きのクモハは1両もなく、すべて非貫通のクモハ14でした。従って転入直後、つまり、のちに1965〜67年にかけて前面に幌付き貫通路を備えたMcが転入してくるまでは、McTc(クモハ14+クハ47 or クハ16)の2輌運用に混ざってMcT(クモハ14+サハ45)の2輌編成で運用されていたものと推定されます。

 当然、Tc車と同じような入替え・連結作業が必要ですが、運転台がないので、入替え作業時に上図のような添乗ができません。その不便を解消するために、サハ45にステップと手すりを増設したものと思われます。

 しかし、45012が転入してくる頃には、前面幌・貫通路付きクモハは、51850代(2輌)、43800代(4輌)、51802と結構たくさんいましたので、サハ45は、2輌運用ではなく、後年のように4輌編成の中間車(10番代運用)として運用されていたと思います。従って、サハ45を先頭にして車輌を入替える機会が減った筈なので、本車に関してはステップと手すりの増設が行われなかったものと推定されます。

 また、樋も45008とは異なり、原形の丸樋が維持されていました。

 なお、本車の2-4位側が撮れていませんが、他の方の写真を見ると、客用扉は1-3位側と同じ桟入りの扉だったようです。

それでは本車の車歴です。

日本車輛製造 (サロ45012) 1932.3.28使用開始 東チタ → 1954 更新修繕&便所設置 大宮工 → 1960.4.20 東フナ → 1964.8.1 静トヨ → 1964.8.31 改番 (サハ45012) → 1969.7.1 静ヌマ → 1981.8.22 廃車 (静ヌマ)

 本車は日本車輌で製造され、1932年から横須賀線で走り始めました。横須賀線の電車には当初便所が設置されていませんでしたが、当時の電車区間としては長距離でしたので、便所設置の要望が出ます。そのためサハ48とサロハ46に便所設置工事が行われましたが、本形式(サロ45)は付属編成で使われたため、戦前は便所が設置されませんでした。

 戦時中は一時2等車が廃止され、サロ45は全車4扉化されることになりましたが、海軍から苦情が入ったためか、2等車連結が復活し、本車は引き続きサロ45として生き残ることになりました。

 戦後は70系投入後もサロ(46→)75とともに引き続き横須賀線の第1線で活躍することになり、1954年の更新修繕では便所も設置されます。しかし113系の投入で32年間走り続けた横須賀線の第1線を退くことになり、本車のみ、他車と別れて飯田線の4輌貫通編成用として転じサハ格下げとなるとともに、湘南色に塗り替えられました。しかし、室内のアコモデーションはサロ時代のものが維持されていました。

 1969年には身延線に転じて他の仲間と合流し、再び横須賀線色に塗り替えられます。1975年3月には、アコモ改良車の投入で、同僚3両が大糸線に転じますが、本車はそのまま身延線に残り、1981年の115系化まで走り続けました。

 なお、客室内は45008と同様ペイント塗りつぶしになっていたようです。

------------------------

yasuo-ssi.hatenablog.com