東高野街道を行く(四條畷市立歴史民俗資料館編) | としのブログ

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楠木正行と和田賢秀





C30  この立派なお屋敷は、東高野街道の多くの旅人を見てきたでしょうね。


C31  ここを真っ直ぐ進みます。


C32  四條畷市立歴史民俗資料館に入って見ます。


資料館の前に建つ東高野街道の石碑


やはりこの街道には、弘法大師(空海)大きく関わっていますね、説明にもありますが、東高野街道は八幡からのスタートですが、真言宗の2大聖地の東寺と高野山を結ぶの街道であるのを実感します。


駐車場は裏にあります、元々はかなり大きなお屋敷だったと予想されます。


資料館のすぐ裏をJR西日本の学研都市線を207系が抜けて行きます。


では入って見ます。


この奥は元々は蔵だったんですと、説明員の方に教えていただきました、確かに白壁と鉄製の窓蓋がそれらしい雰囲気を残しています。


その蔵に入って見ます。


これは本物の籠ですね、思ってたより随分と小さいです。


これは懐かしいですね、もちろん動いています、2分進んでいますがびっくりびっくり

 


藁葺き屋根の民家の模型です、私の実家の奈良の田舎でも昭和40年頃までよく見た景色ですね、水車は見かけませんがびっくりグラサン


これは農機具です。


こちらは生活用品ですね。


いつの写真かは明記されていませんが、おそらく昭和初期の航空写真と予測されます、やはり旧街道沿いに人々は住んでいたのがはっきりします。


弥生人の人骨です、本物でしょうか?


説明によると、身長 164cm、当時の平均身長は163cmとあるので平均的ですねー

歯も残っているようで、40歳ぐらいの男性だそうです。



頂いたパンフレットは、イラスト入りで中々分かりやすいです。



これは古代の棺桶だそうです。


蔵と反対側には、模型で四條畷市を紹介しています。




現在は考えられませんが、上町台地と生駒山地の間には河内湖と呼ばれる海水湖(後に淡水湖)があり、四條畷市はその右端の生駒山地の河内湖の境目に辺りです。

赤いランプが一番古代の河内湖を表しています。

オレンジや緑のランプは次第に、小さくなって最後は陸になった過程の説明です。



また、四條畷市には、東高野街道・河内街道・清滝街道・磐船街道・古堤街道と実に多くの歴史街道が通っています、いかに四條畷市は歴史上重要な場所だったと改めて認識します。


そろそろ四條畷市立歴史民俗資料館を後にします。


C33   真っ直ぐの一方通行を行きます。


C34  右手にセブンイレブンのある交差点で、旧国道170号に出ます、これからこの旧170号に沿って河内長野まで行きます。


C35  旧170号を少し北に行ったところに、道祖神があります、道祖神とはその地域地域の入り口にあり、村に悪霊が入って来ない様に村を守る神様の事で、祠などに祀られています。



C36  C34のセブンイレブンの道を挟んだ向かいに森があります。


和田賢秀の墓です。


和田賢秀とは、鎌倉時代の武将「楠木正成」の弟の「楠木正孝」の息子で、四條畷の英雄「楠木正行」の従兄弟にあたります、楠木正行と共に楠木一族の勢力を回復させた功労者である、四條畷の戦いで負け自害した正行の仇を取るため敵地に潜入したところ、かつて味方だった湯浅本宮太郎左衛門に討たれた、しかし死ぬまでその本宮太郎左衛門の首に噛みつき離さなかった為、本宮太郎左衛門はその傷が元で死んだとされていて、地元では賢秀の事を「歯噛様(はがみさま)」と呼んで祀っている。


墓の横にはやはりクスノキが植えられています。


「奉獻」と書かれた灯籠があります。



この献灯には、 奉獻  楠木同族会副会長 和田勤一郎とあります、和田賢秀の子孫の方でしょうか。


昭和14年に建てられたようです。


やはり推薦名木は「楠」とあります。


C37  そして四條畷市と言えば忘れていけない偉人、楠木正行の墓に来ました、東高野街道からは少し離れていますが。

奥の巨木はもちろんクスノキです。



小楠公とは、楠木正行の事を地元ではそう呼びます、正行の父はもちろん楠木正成で楠公と呼ばれているので、その子で「小楠公」と呼ばれています。


四條畷市では、楠木正行を非常に大切に祀られているのがわかりますね、しっかり手を合わせてこの後の東高野街道の訪ねる旅の安全を祈願しました。


この墓の説明です。


大きなクスノキが作る日陰が優しく包んでくれます。



楠公が地名になっています、上の地図の○じるし。


さあ、次編で四條畷市の最後です、四條畷神社に向かいます。


つづく