省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

押込み式通風機が特徴だった飯田線クモハ54007 (一部蔵出し画像)

 今回の車両は、飯田線で唯一押込み式ベンチレータを備えていたクモハ54007です。押込みベンチレータを備えていた... ということは一時仙石線で使われていたということです。仙石線使用後、飯田線に転属してきました。しかしクモハ54であったにもかかわらず、1978年の豊橋機関区配置車両の80系化で早々に廃車になってしまいました。以下の写真を撮ったときは全検から出てきたばかりで (1977-12 浜松工) 検査期限は余裕があったはずですが...

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クモハ54007 (静トヨ) 1978.1 豊橋機関区

 80系を迎えるために豊橋機関区拡張工事が行われた頃で、バラストが真新しいです。

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クモハ54007 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

 全検出場直後で、回送で送られた後まだ編成に組み込まれていない状態です。塗装はピカピカです。

 

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クモハ54007 (静トヨ) 1977.12 豊橋機関区

 幌もしっかり備えられていました。仙石線では片支持形幌が使われていたようですので、豊橋へ移ってから両支持形幌が取り付けられたものと思います。豊橋区では、4両貫通運用やTpgcMcMcの3両運用がありましたので、幌の設置が必要とされていたのでしょう。

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クモハ54007 (静トヨ) 1976.5 豊橋駅

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クモハ54007 (静トヨ) 1975.5 辰野駅

 押込みベンチレータ部分を撮ってみました。パンタグラフはPS-13になっていましたがおそらく仙石線転出後に交換されたのではないかと思います。

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クモハ54007 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

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クモハ54007 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

 床下機器、電気側です。

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クモハ54007 (静トヨ) 1975.5 豊橋駅

 こちらは製造銘板です。昭和16年汽車会社東京工場とあります。更新修繕は吹田工場で昭和30年です。

 

本車の車歴です。

1941.12.20 汽車會社東京支店製造 (54007 奇数向) → 1941.12.20 使用開始 (大ミハ) → 1944.11.9 座席撤去 → 1948.9.11 大オト → 1948.12.24 座席整備 → 1950.9.28 大ミハ → 1955.7.15 更新修繕I 吹田工 → 1956.3.1 大タツ → 1961.10.1 大アカ → 1969.8.30 仙セキ(→1971.4.1 仙リハへ改称) →  1971.12.17 静トヨ → 1978.12.20 廃車 (静トヨ)

 本車は1941年に汽車會社東京支店で製造されました。関西向けクモハ51の大半が在阪もしくは名古屋のメーカーで作られたのに対し、クモハ54は最初の001, 002の除き在阪メーカーはタッチしませんでした。クモハ54は初めて高出力のMT-30を装備した電動車で、おそらく電装も東京で行われた可能性が高いです。54007からは準戦時設計となっています。ただこの当時は京阪神緩行線向けの車輛も大半がロングシートのモハ60になっていました。よくクロスシートの54が製造されたものだと思います。

 戦後は高出力(MT-30)が買われてか阪和線に一時転出しますが、2年後京阪神間に復帰(おそらく流電などと入れ替わりで)、1969年に万博対策で京阪神緩行線103系の配備が始まると、仙石線に快速運転用として転出し、ベンチレーターも寒地向けに交換されます。しかし2年後運用が減ったためか本車を含めた数両のセミクロス車が、大糸線信越線に散っていき、本車のみ飯田線にやってきました。しかし高出力車にもかかわらず、78年の80系投入で、伊那松島区で活かされることなく廃車となってしまいました。ひょっとすると幌を備え、貫通路を使えたことが、伊那松島で隙間風が入って冬季寒いと敬遠されて、あだとなったのかもしれません。