ここのところ身延線を中心に旧形国電の写真を紹介していますが、行先表示や列車種別表示などの目的でいろいろなサボ受けが存在します。中には謎のサボ受けもあると思いますので、それらについて紹介してみたいと思います。因みにサボとは、サイドボードを略したのが語源です。
戦前に、京阪神間東海道・山陽本線の急行電車 (急電) 列車種別表示用に使われたサボ受けです。このサボ受けは1934年度製造のモハ42,3系から大鉄向けの電車に設置され、1941~42年製造の車輛まであったようですが、戦争が激化する1943年度以降は大鉄向けでも設置されていなかったようです。関西最初の国電で城東・片町線向けだった40系には設置されていません。
大阪の国電でも、戦後関東から関西に行った東鉄向けクモハ51では当然ながら設置されていませんし、戦後も使われた形跡がないのですが、比較的初期に更新修繕を受けたクモハ51を中心に結構残っていました。ただ更新修繕の際に撤去した車輛もありました。
また、上部幕板に行先方向サボ受けを設置した車両は、位置が被りますのでそれを機に撤去されたケースも多かったようです。
例えば、上はクモハ54005のケースですが、他の方が撮られた更新修繕後の京阪神緩行線時代の写真では残っていたのに、上の大糸線時代の姿では消えています。仙石線の他のクモハ54では残っているので、本車もおそらく仙石線時代まで残っており、大糸線転入時に、行先サボ受けを設置する際、位置が被るので撤去したものと思われます。
なかにはわざわざ急電種別サボ受けを避けて、行先サボ受けを設置したケースもありましたが... (下図)
横須賀線経由で関東、静鉄に行った42, 43グループは更新修繕ですべて撤去、クモハ52は飯田線転入当初は残っていましたが、1960年頃までには撤去されています。
■行先方向幕表示器
サボではありませんが、やはり戦前形国電の中央部幕板に設置されていたオリジナルの行先方向幕です。
これはどうやら1933年度に登場した大阪向けの40系で初めて設置されたようです。のち関東向けの国電にも広く採用が拡大しており、クモハユニ44803にも残っていました。モハ63以降は見られませんが、1943年度製の戦前型最終製造車まで設置されていました。
但し当時は当然今日のような電動方向幕などではなく、手動で動かすほかはありません。編成が長くなるほど方向幕を変えるもの一苦労です。戦時中に、連結輌数が増えたり、人手不足の混乱で、使われなくなったようです。関東での更新修繕ではことごとく撤去され、大阪で初期に更新修繕を受けたごく一部の車と、長野で更新修繕を受けた車のみに残存しましたが、広く採用された割には、残存率は極めて少ないです。更新修繕Iぐらいまでは残存しているケースが多かったようですが、更新修繕II あるいは1960年代の全検における改修によって、ほとんど撤去されてしまったようです。
なお、手動式方向幕登場前の30~32系では、のちの車で方向幕が設置された位置に、吊下げ式の行先表示サボを掛けるフックがあったようです。おそらく特に非ホーム側から高い位置にある吊下げ式の側面サボを交換するのは脚立などを使用する必要があり、かなり面倒だったと思われますので、それに比べれば車内からハンドルで回せる方向幕の方がかなり楽だったはずです。そのため普及したものと思われます。因みに客車は少なくとも昭和期の吊下げ式サボの場合、窓下に設置されていたので、窓から交換することができました。電車の場合は、都心を走り混雑も激しく、窓下では見えにくいということで、窓上の幕板にサボを吊下げていたのかもしれませんが...
また、一般国電に側面方向幕が復活するのは1972年に登場した横須賀・総武直通運転準備でATC機器を搭載した113系1000番台増備車あたりからではないかと思います。特急用車両だと電動側面方向幕が設置されるのは1967年製の581系あたりかと。
■静鉄向け列車種別側面サボ受け
こちらは、大鉄向け列車種別サボ受けと似ていますが、位置が異なり腰板にあります。これはオリジナルで設置されたものではなく、静鉄に転属した一部車輛のみに設置されていました。サボの形状自体は、客車および 80, 153, 165, 181系など急行・特急用車両の客用扉わきにあった列車種別表示サボと同じと思われます。
1950年代、飯田線 (1952.5)、および身延線(1956.3)に快速列車が運行され始めますが、この快速表示のサボのためのサボ受けです。飯田線では当初豊橋区のクモハ32(→14) とクハ77(→18)の一部、のち20m車が転入してくると、快速を担当した豊橋区のクモハ42, 52および幌の設置されたクハ47100代のみに設置されました。身延線では、クモハ14800代の一部とオリジナルクハ47全車輛および47051のみに設置され、47100代及び東海道本線運用を中心に使われていたと思われるロングシートのクハ47には設置されませんでした。つまり同じ形式でも快速運用に用いられなかった車両には設置されませんでした。
快速列車の80系による準急昇格後、飯田線では1966年以降撤去されましたが、身延線では撤去されず最後まで残っていました。
■静鉄向け引出し式前面快速表示器
こちらは静鉄の側面サボ受けと同様、前面に快速列車表示を行うために設置されたものです。静鉄側面サボ受けのあった全車両に取り付けられていたものと思われます。普段は快速表示は右側にしまって置き、表示するときは左に引出して表示していました。身延線では側面サボ受けは残っても、前面の表示器は撤去された車両がありました。一方飯田線では逆に、側面サボ受けはことごとく撤去されましたが、前面表示器は最後まで撤去されず残った車両がありました(下図)。
因みに、この引出し式の列車種別表示器の元祖は戦前東京の中央線で、1933年から急行運転が始まりますが (のち、1961年快速に改称)、この急行電車種別表示に静鉄の快速表示器と同じ形状のものが使われていました(但し木造車など一部の車輛は吊下げ式サボで対応)。中央線に在籍した17m車の中には他線に転属した後も、この引出し式列車種別表示器が残っていて中央線から転属してきたとすぐわかる車両があったようです。また側面幕板にも、正面の表示器を小型化した表示器が設置されてたようです。ひょっとすると静鉄の引出し式表示器は中央線から転属してきたクモハ11やクハ16から取り外して再利用していたものかもしれません*1。
大阪へ行った関東中央線向け元モハ51の41にも設置されていて、転属直後は残っていたようですが、おそらく座席整備工事やモハ51復帰工事の際に撤去されました。
■運行灯
前面に運行番号を表示する運行灯は、側面方向幕と同時、大阪向け40系が最初で、その後全戦前形国電 (流電を除く) に採用されました。また側面方向幕とは異なり、モハ63でも継承されました。
なお、運行灯が採用される以前のモハ30, 31などでは、運行灯のある位置に運行番号を表示するサボを掲げていたようです*2。
〇オリジナル運行灯
オリジナルの運行灯は2桁の運行番号を表示するものでした。大阪地区で早い時期に更新修繕を受けた車輛、および、長野地区で更新修繕を受けた車輛にオリジナル運行灯が残されました。クモハ51の多くは早い時期に更新修繕を受けていますので、大半でオリジナルが維持されていました。大阪地区では運行番号は2桁で済んでいたようですので、当初、運行灯の桁数を増やす必要性は考慮されていなかったようです。
〇大型運行灯
こちらは、典型的な更新修繕後の大型運行灯(3桁)です。80系に最初に設置されたものと同じ形状で、関東および、静岡地区で1955年度以降更新修繕を受けた車輛はおそらく全車輛このような運行灯に改修されました。関東では列車の運行量が非常に増えて、運行番号が2桁では足りなかったためと思われます。関東では戦時中から、数字2桁+アルファベット1文字の3桁の運行番号が使われていたようで、既に更新修繕実施前、40年代末か1950年代の初めの段階では、2桁の既存の運行灯の右側に3桁目を表示するためのサボ受けが設置されていた車があったり(これは既に1941年に写された写真に設置されているものがあります)、のちに飯田線や身延線で使われたものと同じ形状の運転助士席窓に設置された3桁の運行板を使用していたりしました。
大阪地区では、比較的遅く更新修繕を受けた車輛が、おそらく関東への転属の可能性を考慮して、関東と同形状に改修されました。クモハ54や半流のクハ68の大半はこのような形状に改修されていました。
〇Hゴム支持運行灯
こちらは、Hゴム支持で大型化された運行灯です。関西で多く見られました。運転台窓や戸袋窓のHゴム化と同時期に1960年代に施行されたようです。半流の車は前面が曲面だったため、上記のような施行になっていますがいささか不格好です。なぜかクモハ51の1桁代車でこのように施行された車が多かったです。関東でも施行例は少ないですが、Hゴム化された車両がありました。一番下のクハ55440はサハを改造によりクハ化したケースですが、関東での施行例です。
■前面行先サボ受け
こちらは主に東日本の国電区間で一般的だった箱形の前面行先サボ受けです。Wikipediaにある1947年頃のモハ63の写真に箱サボ受けがあることから、おそらく1946年前後のモハ63あたりから設置されるようになったものと推定されます。関東の国電区間を走った大半の旧形国電の先頭車に設置されたものと思います。戦前の東京の国電でも前面行先サボは使われていましたが、吊下げ式のサボで、関西の前面行先サボを一回り大きくし、フックの間隔を広げたような形状だったようです。
これらの車輛が転出した先の、中部以東の旧形国電が使われたローカル線区でも結構使われたケースがありました。仙石線、日光線、高崎近郊地区、飯田線、身延線、中央東線甲府ローカル、東海道静岡ローカル(1950年代後半~60年代前半)などです。飯田線、身延線では前面行先サボは1970年前後に廃止されましたが、身延線車両が間合いで使われた中央東線甲府ローカルでは最後まで使われました。
なお横須賀線では、戦後の32系で箱サボ受けが使われましたが、70・43系では、前面サボ、箱サボ受けとも使われませんでした。横須賀線の横須賀-久里浜間の小運転では一時前面サボが使われたようですが、箱サボ受けに入れる形ではなく、戦前のような吊下げ方式だったようで、行き先表示はチョーク書きで済ませていた時もあったようです。クモハ43はともかく、湘南型マスクを持ったクハ76には箱サボ受けがふさわしくなかったと判断されたためでしょう。またWikipediaにある伊東線クロハ49の写真にあるサボも吊下げ式のようです。これはほぼ戦前のサボと同形状のようです。
懐かしい、首都圏の典型的なサボです。
■前面行先サボ掛け
関西の国電区間では、側面方向幕が使われなくなって、行先表示は前面サボに移行しましたが、穴のあるサボをフックにひっかける吊下げ方式でした。戦前の東京の国電と同様の方式でしたが、サボのサイズは一回り小さく、フックの間隔も狭いです。『関西国電50年』に掲載されている写真だと、これもモハ63登場以降、1949年以降の写真に写っています。
なお、同書には 1946-7年頃、関東の箱サボ受けを2周り位小さくした前面サボ受けを設置した車両が何両が写っていますが、普及しなかったようです。
ちなみに関東・横須賀線70・43系による横須賀-久里浜間小運転でも上述の用意引っかけ式前面行先サボが使われましたが、当時の写真を見ると、フックの間隔が関西より広く、サボのサイズは他の関東のサボと同じ程になっていました。戦前よりやや間隔が狭いようでしたが。おそらく箱サボ受けを設置すると、貫通路が使いにくくなるというのが、関西及び横須賀線でフックに掛ける吊下げ式サボを採用していた大きな理由かと思います。小運転用のクハ76では、前面手摺にサボをひっかけていたようですが、これは阪和線や本線の茶坊主クハ76も同じでした。
なお、現在ではサボで先頭に行先を表示する代わりに方向幕を使用していますが、方向幕で先頭の行先表示を行うようになった最初は、おそらく1956年に施行されたクモハ73の試作全金属化改造車(73900)で、その後クハ79920代やクモハ73の通常全金属化改造車などで本格的に採用され、新性能国電では、ほぼすべての車輛に先頭行先方向幕が採用されています。もちろん現在ではLEDが主流ですが。また、巻き上げる方式も、1970年代前半に電動側面方向幕が出てくるまでは、手動式だったのではないかと思います。
■側面行先サボ受け
客車列車の場合、先頭が機関車なので、前面に行先サボを表示することができません。そこで側面のサボに行先を表示するのが以前より一般的でした。それを電車でも踏襲したものがこの方式です。
実は、既述のようにモハ30~32にも幕板に側面行先サボが使われましたが、フックに引っかける吊下げ式だったようです。ただこれだと位置が高いと交換が面倒です。そのため、一旦手動式方向幕に代わりました。それが、再び側面行先サボ受けが使われるようになったのは、1950年に80系に導入されたのがきっかけです。
なお側面行先サボ受けは位置や交換方式でいくつかタイプがありました。大きく分けると、80系と同様に車端の客用扉脇上部に設置されたものと、客車のように車両中央部、窓下に設置されたものの2つに大別されます。
〇車端客用扉脇上部に設置されたもの (80系方式)
80系のサボは、2, 4位側客室扉脇上部幕板側に設置されていました。80系は客車列車の置き換えで登場したので、客車列車のような行先表示方式を踏襲するのは自然です。ただ80系のサボ受けが客車のものと異なる点は、高い位置にあった点と、横からスライドして交換できるようになっていた点です。これを長い柄のついた引っかけ棒を使って係員が交換することで、脚立などに乗る必要のない比較的楽な交換を可能にしていたのです。これが戦前の国電の幕板にあった吊下げサボと異なる点です。
70系登場でもこのサボ受けは踏襲されました。横須賀線の過去の写真を見ると、行先は自明と思われたためか、側面の行先サボは使われたり、使われなかったりしたようで、サボなしで走っている写真もけっこうあります。時期的にいつまで使われた、というのもはっきりしません。あるいは編成の短い日中 (6輌) はサボが使われ、乗客の多く編成の長い (6輌 x 2 = 12輌) 朝夕はサボ交換が大変なので省略された、とか、本数の多い横須賀行きはサボが省略され、本数の少ない久里浜まで直通する列車のみサボが設置されたということだったのかもしれません。また横須賀線で同時に使われていた43・32系の車輌では、追加でサボ受けが設置されることもなかったようです。
戦前型旧形国電では、おそらく1950年に80系がモハ52に代わって急行電車用として投入されたとき、一部在来車が代用急電用に使われ、クハ68などに同じ方式の側面行先サボ受けが設置されたのが最初ではないかと思います。
その後、大都市圏にいた国電車輛が地方ローカル線に転用され、客車列車を置き換えた時に、一部の線区で80系、70系の側面サボ方式に倣ったサボ受けの設置が進みました。70系と混用されていた、信越・篠ノ井・中央西線塩尻口ローカル、新潟ローカル、中央西線名古屋口ローカル、また大糸線、富山港線、御殿場線などはこの方式でした。
以下がその写真です。
このような車両の場合サボを交換するときは、客用扉のドアから交換していました。客用扉がホームに面していない場合は、一時的にドアを開いて(と言っても大抵半自動ドア化されていたので、ドアコックを開にした後、手動で開け閉めして) 長い柄のついた引っかけ棒を使って、サボの穴に掛けて、サボを交換していたと思います(手で交換していいたところもありました)。
上のように乗客が乗っていても、非ホーム側のドアをサボ交換のため開放することが結構ありましたが、今なら、客が転落するかもしれない... 鉄道会社の責任になるかもしれない.. という話になりますので、到底考えられません。昔は客車の最後部の貫通路扉を施錠せず開放したまま走ることが普通でしたので、まさにそのころの感覚です。
このサボ受けは、近郊型、急行型などの新性能車にも受け継がれました。103系ですら地方に転出した車輛の中にはこのサボ受けが設置されたケースがありました (中央西線名古屋口、広島に移った103系初期車等)。
〇車両中央部窓下に設置されたもの
こちらは車体中央部窓下に設置されていたケースです。客車の様に、非ホーム側では客室窓を開けてサボ交換を前提としていたものと思われます。飯田線、身延線、宇部・小野田線、福塩線、岡山ローカル、可部線 (17m車)などで使われていました。
窓下に設置されたケースの中でも形状はいくつかありましたが、飯田線、身延線の場合は80系の幕板に設置されていたサボ受けと同様、横にスライドして交換する方式でした。豊橋駅では非ホーム側は係員が地上から引っかけ棒を使って交換していたように記憶しています。これは1950年代、まだ社型電車が残っていた時代よりこのような形状だったようです。
また飯田線や身延線では基本サボ受けは窓下にありましたが、一部なぜか80系と同様窓上についている車両がありました。飯田線の豊橋駅などでは非ホーム側は係員が地上からマジックハンドのような棒を使ってサボ交換を行っていましたので、上にサボ受けがある車輛は届かず、これらの車輛ではサボの使用を省略していたように思います。
因みに、同じ静鉄でも飯田線、身延線は窓下に設置されていましたが、御殿場線は80系と同じ窓上でした。御殿場線の場合大体沼津駅でサボ交換を行っていましたので、静岡運転所の80系のサボ位置に合わせたものと思います。このことから考えると、行先サボの位置や形状は、主にどの駅でどのようにしてサボ交換作業を行っていたかという習慣が大きな決定要因になっていたのではないでしょうか。
なお飯田線や身延線の場合、かつては前サボと併用されていましたが、1970年頃に前サボは廃止されました。ただし、飯田線では、豊橋駅のみ駅で待機しているときだけ、発車時間を書いた前サボを掛けていました。また119系の導入が近くなると、電車にはサボを掛けず、車止めの前にサボ (もはやサボとは言えませんが...) を掛けるポールを立てて表示していました。なお、1978年に飯田線に転属してきた80系の側面サボ受けも位置を窓下中央に移設していました。
それ以外の線区、とくに中国地方では、一部旧形客車と同様に上からサボを差し込む方式だったのではないかと思います。下の各車が設置しているサボ受けの形状がそれです。やはり非ホーム側では客室の窓を開けてサボを交換していたものと思われます。上から差し込む方式だと頭に突起のある吊下げ式サボもこのサボ受けに収容できます。
そのほか呉→可部線の73系はサボ受けが上にある車と下にある車が混用されていたようです。この中には車体中央部の窓上部にサボ受けが設置されていた車両があったようです。もし、上から差し込む方式だとすると、交換はかなり大変だったはずですが...
■側面行先サボ吊下げ用フック
一部旧形客車と同じ、車体中央窓下に設置する、吊下げ式側面行先サボを採用したケースもありました。もっとも古典的な側面サボ設置方式だと思われます。戦前の東京の17m級国電は同じ吊下げ式でも窓の上、幕板に吊下げていて、サボ交換に難儀したものと思われますが、戦後はさすがにそれはなかったと思います。下は17m時代の可部線のケースです。
やや写真が不鮮明で申し訳ありませんが、フックにサボが吊下っているのが分かります。また17m時代の大糸線もこのような形状だったようです。宇部線や福塩線でも17m車時代はひょっとするとこの方式だったのではないかと思います。
ところで、現在の車輛ではすっかり電動方向幕やLED行先表示器に置き換わってしまったので、今から考えると、全く異次元の世界の話になってしまいました。因みに、一般国電で側面の電動式行先方向幕が最初に設置されたのは、先に触れましたが、おそらく1972年に増備された、横須賀-総武線直通運転に備えた地下・ATC対応の113系1000番台増備車だと思われます(厳密に言えば横須賀線は当時国電区間ではなく近郊路線扱いでしたが)。さらに1973年には103系の一部の増備車 (冷房設置車)にも設置されました。
しかし、ほぼ全面的に側面行先表示が方向幕に移行するのはJR化後で、1980年代に製造された車両でも、地方線区に投入された115系の一部 (身延線や大糸線など) では、方向幕(および冷房)設置準備工事は行ったものの、方向幕は設置されず従来のサボ受けが設置されていました。旧形国電時代のサボをそのまま継続して使用していました。非ホーム側ドアを開放してサボ交換するという光景も、側面行先表示の全面方向幕化まで続いたと思われます。
但し同じ地方線区でも新形式が投入された場合では(105系、119系)、最初から方向幕が使用されています。
なお、側面方向幕と前面方向幕の連動も、103, 113, 115系などでは側面方向幕の未設置車と設置車、さらに前面手動方向幕車、電動方向幕車が混在していたことから、実現できていなかったと思います。105, 119系では登場時 (1981年) から連動していましたが、このあたりが側面方向幕と前面方向幕の連動の最初ではないでしょうか。あるいは山手線の103系ATC設置編成の一部が連動していた可能性がありますが...