省型旧形国電の残影を求めて

戦前型旧形国電および鉄道と変褪色フィルム写真を中心とした写真補正編集の話題を扱います。他のサイトでは得られない、筆者独自開発の写真補正ツールや補正技法についても情報提供しています。写真補正技法への質問はコメント欄へどうぞ

当初飯田線用にクハ化された 身延線 クハ47059 (蔵出し画像)

 先日サハ48001をクハ化したクハ47057を紹介しましたが、本車はサハ48002をクハ化した車輌です。本車の経歴もクハ47059と非常に似ており、戦後連合軍専用車に指定されたあと、クハ化され飯田線に配置された経歴も同じです。ただサハ48001は山手線に配置されましたが、本車は常磐線でした。

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クハ47059 (静ヌマ) 1979.5 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1979.5 富士駅

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クハ47059 (静ヌマ) 1979.5 富士電車区

 

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クハ47059 (静ヌマ) 1980.3 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1980.12 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1980.12 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1981 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1981 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1981 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1981 富士電車区

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クハ47059 (静ヌマ) 1976.4 富士電車区

本車の車歴です。

日本車輛製造 (サハ48002) → 1930.12.13 使用開始 東チタ → 1937.2中旬 トイレ設置 →  → (1947.3現在 東マト) → 1954.1.18 改造 (クハ47059) 静チウ → 1957.2 静ママ → 1957.5.18 更新修繕II 豊川分工 →  1958.5 静フシ → 1969.4.11 静ヌマ → 1981.9.8 廃車 (静ヌマ)

 本車はもともと横須賀線用のサハ48002として製造されました。1937年にトイレ設置工事が行われた後、戦後、連合軍専用車指定を受け、ロングシートに改造され、1947年の段階では、常磐線で使われていました。連合軍専用車指定解除後は代用2等車として使用されていましたが、その指定も遅くとも1953年10月までに解除され、間もなくしてモハ32地方転出の相棒としてクハに改造され、飯田線中部天竜機関支区に転出します。これが横須賀線から旧モハ32がクハ47と連れ立って転出する最後だったようです。

 因みに横須賀線のモハ32の転出はどうやら多少の異同はあったようですがおおむね番号順に行われたようで、最初のグループは富士区に転出して、富士身延の社型を置き換えて、伊那松島区に転出させるとともにクハ77(→18)を飯田線豊橋区等に転出させました。次のグループは飯田線豊橋区に転出しました。この時、数両のクハ47もお供したようですが、相棒は富士区のクハ47の投入によって押し出されたクハ18や、常磐線から転じたクハユニ56等になり、一旦豊橋に行ったクハ47もすぐ富士区のクハ18と交換され、1954年までに豊橋区には1両のクハ47もいなくなりました。3次グループは伊那松島区に転じましたが、当時は電圧が1200Vのままで(1955年1500Vに昇圧)、クハは社形車両が充当され、やはりクハ47の追加投入はありませんでした。そして最終グループは本車らとともに、旧三信鉄道の車両基地だった中部天竜支区に投入され社形を伊那松島区や他線区に転出させました。

 しかし中部天竜支区への20m車の投入はやや贅沢だったのか、北部昇圧後、本車は伊那松島区に転じ、さらに東海道ローカル運用の拡充で富士区に取られます。おそらくロングシートで定員が多かった点が、本線運用上評価されたのでしょう。また飯田線では逆にロングシートが乗客サービス上あまり良くないと思われたのかもしれません。その後身延線旧形国電終焉まで身延線で活躍しました。

 なお、更新修繕IIがやや早めだったためか、運転台窓のHゴム化は施工されませんでした。

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