鶴橋駅界隈を歩く | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

鶴橋駅から「鶴橋」の地名の発祥地(旧・猪飼野)を経由して大阪上本町駅まで歩きました。

(今回の記事の撮影日は2022年4月28日でした)

近鉄の鶴橋駅に着いたところです。

 

鶴橋駅の改札口(集札口)を出たところです。昔と変わらない「昭和の街」の風景でした。

 

鶴橋本通商店街です。

 

コリアタウン(御幸通商店街)の西口の前を通りました。

 

御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)に立ち寄りました。

御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来します。猪甘津は日本書紀仁徳天皇14年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいました。猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていました。また付近は百済野と呼ばれ百済からの渡来人が多く住んでいました。
伝承によりますと、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされています。仁徳天皇崩御の後の反正天皇2年(406年)、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸宮と称されたと伝えられています。(2022年4月28日に閲覧した『ウィキペディア(Wikipedia)』の内容を参考にしました)

 

F-STYLE FINEという花屋さんです。(生野区桃谷3丁目11)

 

今回の目的地だった「つるのはし跡公園」に着きました。(生野区桃谷3丁目17)

 

大阪市による説明です。

「つるのはし」は、日本最古の橋として名高い「猪甘津(いかいのつ)の橋」の古跡とされています。
日本書紀の仁徳天皇14年の条に「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記されていて、これが我国での架橋の記録として最も古いものです。仁徳天皇の頃(5世紀、河内湖の時代)には、ここより少し北の辺りは“小橋の江”と呼ばれた入江であって、そこに百済川(のちの平野川)が注いでいたと考えられます。その河口付近は、人や物資を運ぶ船の盛んに出入りする港として栄え、“猪甘の津”と呼ばれていました。
その港には当然、上町台地にある高津の宮からの官道が通じていたわけです。そして、そこからさらに河内・大和方面への交通路をひらくために橋がかけられたというのが、この記録の意味するところです。
小橋(小椅)は東成区東小橋。猪甘の津はここ猪飼野(現在の桃谷3丁目を含む一帯)がその伝承地です。
「つるのはし」の名の由来については、江戸時代の地誌『摂陽群談』に「むかし、この辺りに鶴が多く群れ集まったためという」と記されています。また一説には“津の橋”から訛ったものとも言われています。
江戸時代の『猪飼野村明細帳』などの古記録(御幸森天神宮所蔵)に、“この橋は河内大和への街道筋ゆえ、往古より御公儀様(お役所)の費用で掛け替えて頂いています”とか“過去いついつに掛け替えられた”とか、橋の規模・構造などが詳細に記されており、それによると橋の全長20間(36.4メートル)幅7尺5寸(2.3メートル)の板橋となっています。
近代に入ってからは、明治7年(1874)旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替えられ、同32年国庫補助により欄干付・長さ7間(12.7メートル)幅1間(1.8メートル)の石橋に改修されました。
その後、大正12年(1923)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940)に埋立てられて、つるのはしは廃橋となりました。
この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和27年(1952)ここに記念碑を建て、当時の親柱4本を保存しました。なお、このつるのはし跡公園は旧平野川の流路の上に位置しており、公園入口前の道路上につるのはしがありました。
(資料提供:猪飼野保存会)

 

生野区役所による「つるのはし跡」の説明です。

 

平成3年(1991年)3月に大阪市が建立した「つるのはし跡」の石碑です。

 

明治7年(1874)に架橋し直されたときの「つるのはし」の親柱の一つです。

 

平成16年(2004年)12月に建立された小野小町の歌碑です。

忍ぶれど人はそれぞと御津の浦に 渡りそめにし猪甘津(いかいつ)の橋」

 

ここもまた懐かしい雰囲気の「桃谷本通東商店街」の中を歩きました。

 

これもまた、ちょっと懐かしい「力餅食堂」です。昔は、京阪神および山陽地区に多数の店舗(徒弟制度的な「のれん分け」で展開)がありましたが、店主の高齢化や後継者がいないなどの理由により店舗が減ってきています。

 

JR桃谷駅前で見た近鉄バスの日野ポンチョです。

 

桃谷駅前にある「鉄道わすれもの店(リサイクルショップ)」です。実際には「鉄道」の忘れものだけではなく、警察届の忘れものが含まれているそうです。

 

天王寺区堂ケ芝1丁目5−19にある「豊川稲荷(大阪別院)観音寺」です。

明治31年(1898年)に、この付近の地主であった萩田利平が、この地を発展させようと、豊川稲荷から「荼枳尼天(だきにてん)」を勧請し、稲荷堂を建立したのが始まりとされています。豊川稲荷なので、神社ではなく曹洞宗の寺院です。

 

湯川胃腸病院を前を通りました。

明治44年(1911年)8月19日、大阪・今橋の料亭旅館「紫雲楼(跡地は日本生命ビル東館)」に宿泊していた夏目漱石は、胃病が再発したため、大阪市東区今橋3丁目(*)にあった大阪胃腸病院に入院しました。その大阪胃腸病院は戦後に「湯川胃腸病院」に名称を変更した後、昭和36年(1961年)に天王寺区堂ケ芝2丁目10−2(この画像の場所)に移転しています。

ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士は昭和初期に大阪胃腸病院の初代院長・湯川玄洋氏の次女の湯川スミさんと結婚しています。(湯川博士は湯川家の婿養子でした)

【大阪朝日新聞社の依頼による夏目漱石の関西での講演会】

1.1911年(明治44年)8月13日に明石郡公会堂(現在の中崎公会堂)で「道楽と職業」を講演

2.同年8月15日に当時の和歌山県議会議事堂で「現代日本の開化」を講演

3.同年8月17日に堺市立堺高等女学校(現在の大阪府立泉陽高等学校)の講堂で「中味と形式」を講演

4.同年8月18日に大阪の中央公会堂(初代)で「文芸と道徳」を講演

(*)夏目漱石が入院していた大阪胃腸病院跡の現住所は大阪市中央区今橋2丁目5−8です。今は「トレードピア淀屋橋」が建っています。

(参考画像)大阪市中央区今橋2丁目5−8の「トレードピア淀屋橋」です。旧・大阪胃腸病院の跡地です。

 

(参考画像)大阪市中央区今橋3丁目4−1−11の日本生命ビル東館です。料亭旅館「紫雲楼」の跡地です。

 

(参考画像)現在の大阪市中央公会堂(1918年竣工)です。漱石の講演は1911年でしたので、この建物ではなく、初代の中央公会堂です。

 

玉造筋の筆ヶ崎町付近から見た近鉄電車です。

 

大阪赤十字病院の前を通って大阪上本町駅に向かいます。

 

日本赤十字社 大阪赤十字病院です。

 

大阪赤十字病院とツツジの花です。

 

大阪赤十字病院前で見た近鉄バスの日野リエッセです。

 

近鉄本社前です。

 

上本町YUFURA(2010年8月開業)です。6階に移転後の新歌舞伎座があります。

大阪の新歌舞伎座(2代目)はミュージカルや芝居の公演もあるのですが、やっぱり歌謡ショーの舞台というイメージが強いです。新歌舞伎座(2代目)は東京の明治座に似ています。

 

大阪上本町駅に着きました。

(おわり)