2022年4月22日、近江のくには小谷城(おだにじょう)をたずねた。織田信長が浅井長政(あざいながまさ)のねがえりによって、敦賀でかねがさきののきぐちをしいられた。ほっから3年がかりで信長が長政を滅亡においこむだけど、信長のいもうとおいちをつまにしたにもかかわらず頑強に信長に抵抗した長政。ほの長政が本拠とした小谷城をこのめでみてみたかった。わがあしでのぼってみたかった。
ふるい → しんあんじょう → 名古屋 → 米原 → 河毛 → 郡上 → 小谷城 |
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さいしょは西尾線。ふるい6時49分の岩倉いき急行にのる。これにのるのもことしなんかいめかだ。電車は、6006編成4両6000系かんつうがたのあっかい電車。運転室うしろ、つまめんうえのほうに1977ブルーリボン賞の円板。乗客は、たちきゃく8わり。
みなみあんじょうで、さきにまっとった吉良吉田いきふつうのあっかい電車といきちがい。2両編成きんぎょばちのあっかい電車。
6時57分、しんあんじょうは3番のりばにとうちゃく。ひだり2番のりばにまつ西尾いき急行のぎんいろ電車と、みぎ4番のりばにはいっていく岐阜いき特急のパノラマスーパーのあいだにはいりこんでいくかたちで、3番のりばにまっとった2両編成鉄仮面のあっかい電車のうしろにつく。うしろについて連結、まちあい。あとでふつうにかくさげになってでていく。
1番のりばに、西尾いきふつうのあっかい電車がしゅっぱつまち。2両編成きんぎょばちのあっかい電車。あさのしんあんじょうはにぎやかだ。
名古屋本線にのりかえるだけど、しばし電車見物。4番のりばにはいってきた一宮いき急行のぎんいろ電車をみおくり。3番のりばからでていく岩倉いきふつうのあっかい電車をみおくり。東岡崎方面から3番のりばに岐阜いきふつうのあっかい電車がはいってきて、まちあい。2両編成鉄仮面のあっかい電車。
6番のりばに豊川稲荷いき急行のこおろぎ特急がはいってきて、まちあい。特急電車の急行運用で、こないだのったやつだ。開放しとるはずの特別車がしめきり表示になっとるのはなんでだ。
4番のりばにはいってきた津島いき急行のあっかい電車をみおくり。きんぎょばちのあっかい電車。
5番のりばに豊橋いき特急のこおろぎ特急がはいってくる。
さて、4番のりばにしんあんじょう7時9分の岐阜いき特急がはいってきて、のる。電車はパノラマスーパーで、しんがりの特別車1号車4Cの展望席にすわっていく。うしろむきにみて、みぎ通路がわはしらかげ。きのうのよるメネットしてとれたさいごの1席だ。
知立に停車。3階のたかさの上空で三河線の高架をつくっとるだけど、刈谷方面と豊田方面に分岐する部分がはっきりみえる。知立をでたとこで、うしろむきに滑走路をみていく。2階のたかさにあがっていく名古屋本線の高架だ。まんだレールはひいてない。
境川をわたって三河のくにから尾張のくににはいるとこで、車掌さんがはいってきて、いっしゅんででていく。車内精算のひとはおらんだ。みんなメネットで席はうりきれとるで、とびのりの余地はない。
電車まちのひとたちをうしろにみて、えきえきを通過していく。
神宮前に停車。展望席からひとりおりる。はんたい線からミュースカイがしゅっぱつして、名古屋線をみぎにこえていく。これをみて、わが岐阜いき特急もしゅっぱつ。
金山に停車。なんせきかあいて、1Bの席に移動。最前列ひだり通路がわ。女子高生も2、3人のっとった。
金山をでて、豊橋いき新快速の313系ステンレス電車とすれちがい。
山王をすぎて、ぎんいろ電車とすれちがい。セントレアいき快速急行だったか。
さっきならんではしっとった名古屋いき区間快速がおいかけてくる。方向幕は、まあはい大府いき快速の表示にかわっとる。
トンネルにもぐって、名古屋にとうちゃく。7時37分。展望席は、のこっとった全員がここでおりる。
名鉄地下かいさつから地上にあがってJRひろこうじぐちで新幹線きっぷをかわあっておもったらこんどって、自動券売機でかう。
のりばにあがって、名古屋7時53分の新大坂いきこだま号にのる。3号車まえの喫煙室でいっぷくしとるうちにしゅっぱつ。
いっぷくをおえて、3号車自由席9Eにすわっていく。みぎ2席まどがわ。
みぎ車窓にいっしゅん清洲城。いうまでもなく、信長が本拠としたしろだ。
岐阜羽島に停車。なんぷんかまちあいして、はんたい線のりばに東京いきひかり号がはいってきたとこでやっとしゅっぱつ。東京いきひかり号にのるひともなんにんかまっとった。
長良川をわたる。みぎ車窓かわかみ。
揖斐川をわたる。みぎ車窓かわかみ。
やまにむかっていく。
みぎ車窓にやま。
みじかいトンネルをくぐって、ながいトンネルをくぐる。
みぎ車窓、きりにけぶる伊吹山。美濃のくにから近江のくににはいった。
すすんで、みぎ車窓に湖北平野がひろがってくる。
8時21分、米原にとうちゃく。
かいさつをはいりなおして、6番のりばにまっとった米原8時34分の敦賀いきふつうにのる。電車は、先頭クモハ521-2の2両編成521系ステンレス電車。こないだ敦賀にいくときにのったのとおんなじ電車だ。
車内は、しろい内装色にちゃいろい転換クロスシート。シートかたのてすりやつりわはきいろ。
しゅっぱつまちしとるとこで、むかいの5番のりばに米原いき新快速がとうちゃく。わが敦賀いきふつうにいっぱいのりかえてくる。
時間がきて、しゅっぱつ。運転士さんがたったまましゅっぱつしたのにびっくり。
線路群をかきわけていくとこで、225系ステンレス電車とすれちがい。米原始発の網干(あぼし)いき快速か。
ひだりにゆみなって、東海道線、東海道新幹線ってたてつづけにくぐる。
天野川をわたる。
ひだり車窓かわしも。自然ののこるかわだ。
坂田(さかた)に停車。はんたい線にとまる米原いきふつうに、おおぜいのひとがのりこんでいく。
えきのすぐひだりから、しろかきのすんだたんぼがひろがる。
車内案内は、おんなのひとのこえの自動放送。あじけない。
田村(たむら)に停車。坂田と田村って、なんかにたようななまえで区別しにくいな。
ところで、ここでいっぱい乗客がおりていくのにびっくり。えきのすぐひだりに長浜バイオ大学って大学があるだけど、ほこにかよう学生らか。
すすんで、ひだり車窓に琵琶湖。みずをはったたんぼから琵琶湖が連続しとる。
ひだり、旧駅舎のわきをぬけて、長浜(ながはま)はしましきのりばみぎがわに停車。はんたい線は、かためんのりば。
湖北平野を時速120キロですすむ。
姉川をわたる。このかわをはさんだたたかいで、織田徳川連合軍が浅井朝倉連合軍をくだした。
ひだり車窓かわしも。
虎姫(とらひめ)に停車。
みぎ車窓にこやまがつづいてくる。
8時51分、河毛(かわけ)にとうちゃく。
のってきた電車をみおくって、かいさつをさがす。駅舎ははんたい線のほうにあるだけど、わたっていくこせんきょうもないし構内ふみきりもない。けっきょく、かいさつはなくて、それぞれののりばに簡易改札機があるだけってことがわかった。いっしょに電車をおりたひとがどこにきえたのかわからんかっただけど、簡易改札機にイコカかなんかをかざしてでてっただ。
えきみなみのふみきりをわたって、駅舎のあるひがしがわにまわってみる。
駅舎んなかにかし自転車のまどぐちがあって、てつづきをする。こっから小谷城までちょっときょりがあるだ。あるいていけんことはないけど、自転車のほうがらくだ。
ところで駅舎のりっぱなことにおどろく。こんななもしられとらんちいさなえきに、こんなりっぱな駅舎があったのか。かし自転車のおじさんにきいてみると、これは駅舎とはべつにあとからつくったもんだっていう。もともとはただのりばがあるだけのえきだったとのこと。
このたてもんは、河毛駅コミュニティーハウス。かし自転車にまたがって、えきをしゅっぱつ。
えきみなみのふみきりからひがしにのびるみちをすすんでいく。たんぼんなかをやまにむかってすすんでいく。
高速道路をくぐって、三条川にかかる笠崎橋(かささきばし)をわたる。
郡上(ぐじょう)交差点で国道365号線をよこぎる。
ごうにはいって、みぎみちばたに金屋あとのいしぶみ。金屋がなんだかわからんけど、ふぜいのある一帯だ。
みちがみぎかねんてになるとこで、ふぜいのあるいなかやのしきちのかどにこうさつばあとのいしぶみ。ほー、このごう、由緒のあるごうなだ。
ごうなかをすすんで、みぎにたんぼがあらわれたとこで、みぎみちばたに大谷市場あとのいしぶみ。北国脇往還郡上宿のかんばんもある。
さらに説明がきもあって、よんでみる。国道365号線にそうこのみちが関ケ原(せきがはら)と木之本(きのもと)をむすぶ街道だったっていう。小谷城下を通過する主要街道だって、織田信長やおいち、松尾芭蕉や伊能忠敬もとおった街道で、越前、若狭の諸藩が参勤交代につかう街道だったっていう。ちなみに、むかしはこのみちを北国海道、長浜をとおるみちを北国街道ってかきわけとったっていう。ようは、りょうほうともほっこくかいどうだ。こうさつばあとのいしぶみからここまで、ほっこくかいどうをとおってきとっただ。
ほっこくかいどうをすすんで、武家屋敷にとうちゃく。ほっこくかいどうがみぎかねんてになるとこのはんたいがわが武家屋敷だ。
いりぐちに地図かんばんがあって、みてみる。みぎのおねとひだりのおねにはさまれて、山頂のほうにむかって清水谷(きよみずだに)がのびていくだけど、この清水谷に武家屋敷があった。みぎのおねぞいに小谷城のいくつかのくるわがあった。
清水谷をちょこっとはいったとこで小谷城戦国歴史資料館にとうちゃく。まずはここで歴史のべんきょう。戦国時代、近江のくにはきたに京極氏、みなみに六角氏っていう2大勢力があった。ほいで京極氏になりかわったのが、家臣からなりあがった浅井氏(あざいし)。下剋上ってやつだ。1561年、浅井氏3代めの長政が織田信長のいもうとおいちをつまにむかえる。つまり浅井と織田が同盟関係になる。信長が今川義元をうちとった桶狭間のたたかいがあったのが1560年だで、ほの1年あとのことだ。
1569年、長政とおいちの長女茶々(ちゃちゃ)がうまれる。1570年4月、長政が信長にそむく。かねがさきののきぐちのことだ。敦賀はかねがさきじょうをおとした信長が、ほっからさらに越前朝倉氏にせめいらあってしとったとこを、同盟関係にあった長政がうらぎって、信長はかねがさきじょうからの退却を余儀なくされただ。おなじく1570年6月19日、信長がきた近江に侵攻。おんなじつきの28日に姉川合戦。姉川をはさんだたたかいで、織田徳川連合軍が浅井朝倉連合軍をくだす。
1573年、長政とおいちの三女江(ごう)がうまれる。おんなじとしの8月はつか、朝倉義景が自刃(じじん)。朝倉氏滅亡。さらにおんなじとしの9月ついたち、長政が自刃。浅井3代の歴史がとじる。
長女茶々と三女江の生涯も波乱にとんどる。茶々は、秀吉の側室になって秀頼をうむ。大坂なつのじんで家康にやぶれて、秀頼といっしょに自害。三女江は、3度めの結婚で家康の三男秀忠の正室となる。秀忠は徳川2代将軍になって、長男家光が徳川3代将軍になる。ときの最高権力者だった信長にさからってほろびた長政だけど、ふたりのむすめはそれぞれのちの最高権力者の側室、正室になっただ。いや、おもしろい歴史だ。
展示品のなかに、高野山持明院の所蔵する浅井長政夫人おいち像。あに信長とおっと長政のたたかいに、どんなこころもちだったことか。
小谷城の模型もある。ほっこくかいどうが、さっきとおってきたとおりに郡上や大谷市場をとおって、さらに、小谷城のふもとにひろがるじょうかまちをとおっていっとる。いまはたんぼになっとる一帯がむかしはじょうかまちだっただ。
清水谷に武家屋敷があって、やまのおねにそって小谷城。金吾丸(きんごまる)や番所(ばんしょ)、本丸(ほんまる)なんかがつづいて、いちばんてっぺんに大嶽城(おおづくじょう)。
歴史のべんきょうをおえて小谷城にのぼるだけど、小谷城戦国歴史資料館のおねえさんにどれぐらいかかるのかきいてみる。小谷城のある小谷山のたかさが495メートル。てっぺんのおおづくじょうまでいくには、ほれなりの装備と覚悟をしたうえで5時間ぐらいかかるじゃないかとのこと。いやいや、ほれはむりだ。本丸ぐらいまであがっていけやいいか。
小谷城戦国歴史資料館すぐちかくの追手道(おってみち)とざんぐちから小谷城にのぼりはじめる。さきをいくわかもんふたりは、しっかり登山の装備。
やますそからいきなりきゅうな斜面。たにからいっきにおねにあがっていくだ。かなりきっつい。
ほのままいくと車道にでるってとこを左折。いや、うらがわからも車道でこれるようになっとるだ。みちしるべに、おおづくじょうまで2446メートルの表示。左折してからおねをまっすぐのぼっていく。
おねもけっこうきっつい。つちのかいだんもなくただ斜面をあがっていくとこもある。登山装備をしたおんなのひとが、さきをこしていく。リュックにくまよけのすずをつけていく。おれもリュックからふえをとりだして、ふきながらいくことにする。いや、かえってくまをよびこみそうなきがして、おもいっきりふけん。やっぱり、いやおうなくおとのでるすずじゃなきゃあかんな。おおづくじょうまで2200メートル。
のぼっていって、間柄とうげあとのいしぶみ。六角氏がせめてきたとき、応援にきとった朝倉氏の武将がここでふせいだっていう。いや、このおねをあがってせめていくってどんなにたいへんだったことか。
うしろをふりかえって、こだちのあいさに琵琶湖がみえるってとこまであがってきた。おおづくじょうまで2067メートル。すぐに望笙とうげ(ぼうしょうとうげ)。ここでまたみぎに車道と接する。車道がみぎにヘアピンカーブしてあがっていくとこで、ほのヘアピンカーブのおくの休憩所からのけしきがすばらしい。
にしに竹生島(ちくぶしま)。小谷城のしたから平野がつづいて、ほのむこうに琵琶湖がひろがっとって、ほのまんなかに竹生島がうかんどる。浅井氏が竹生島にたいする信仰があつかったっていうのも、なるほどってうなずける。
みなみに長浜のまち。湖北平野をへだてて長浜のまちがみえる。小谷城がおちて、まちは長浜にうつった。
また、おねをのぼっていく。
おおづくじょうまで1900メートルってとこで、みぎうえにあがっていくみち。いりぐちに金吾丸(きんごまる)のいしぶみがたっとるだけど、いってみるか。
金吾丸にとうちゃく。はじめてひとつのくるわにとうちゃくした。
東南方向、たにをへだてていくえものやまなみがみえる。いちばんおくの、てっぺんがくもにかくれとるやまは伊吹山か。
金吾丸からおくにおりていって、もとのおねみちに合流したとこが番所(ばんしょ)あと。番所っていうぐらいで、こっからいよいよ小谷城の中枢部になるだ。ところで、みちばたにくま出没注意のかんばん。やっぱりくまがでるだ。ここまでもおそるおそるあがってきただけど、このさきを断念してひきかえすことにする。君子あやうきにちかよらずだ。
ここまであがってくるまでにも2回車道に接しただけど、ほの車道がちょうど番所のみぎどなりまできとって、こんどは車道をくだってかえっていくことにする。
ずーっと車道をくだっていって「おおづくじょうまで2446メートル」のとこから、また、いきにのぼってきたやまみちをくだって、ふもとにもどる。ぶじにもどれた。
自転車にのりかえて、河毛のえきにとうちゃく。えきまえロータリーに浅井長政とおいちの像を発見。さよならをいって、かえりの電車にのる。