「老人ホームライナー」(2) | T+K@創作列車

「老人ホームライナー」(2)

 こんばんは。

 またまた間が空いてしまいましたが、「老人ホームライナー」の第2話がやっと書けました。

 この「老人ホームライナー」は、電車なのに老人ホーム、老人ホームだけど電車、というお話です。

 今のところ5話まで続く予定ですが、本当にそうなるのか、続きはいつできるのか、自分でもわかりません。

 また、これもいつものことですが、今回も結構長くなってしまいました。お時間のあるとき、例えば、電車にご乗車になっていらっしゃる時に、暇つぶしにでも読んでいただければ幸いです。

 

 もし、まだ第1話をご覧になっていただいていない方がいらっしゃいましたら、第1話から順に読んでいただければ幸いです。

 

 「老人ホームライナー」

 (1) 第1話

 (2) 第2話 ← 今ココ!

 (3) 第3話

 (4) 第4話

 (5) 第5話

 

 今までに書いたフィクションは、ブログテーマ「創作列車」にまとめています。こちら↓↓が、その目次です。

 

 「創作列車」 目次

 

 

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《 登場列車 》

 「老人ホームライナー」(ボク)

 

《 物語の時代 》

 少し未来

 

《 登場人物 》

 男2 ・・ 「老人ホームライナー」の乗客(オレ)


(二)

 

 ずっとここにいる。

 今という時が過ぎていく。今日という日が終わっていく。

 普通の日。何気ない日常。何もない一日。

 歳をとっていく。老けていく。ただ老いていく。

 

 広大な車両基地の一番奥。はじっこの方。

 窓ガラスに映る。東北本線のレール。走り去る電車。その向こう側に拡がる。街。世の中。世間。下校する子どもたち。彼らの空は高く、青い。小さな体。大きなランドセル。小さな子ほど、ランドセルが新しい。

 もう一方の窓ガラスに映る。錆色のフェンス。その向こうに隙間なく並ぶ。誰かの家。家。そして家。ランドセルの群れがかけていく。傾きかけた春の陽ざしが包み込む。誰かが叫ぶ。他の子が笑う。楽しそうだ。

 停車しているだけの列車の、その窓ガラスに映る景色は遠い。明確な境界。内側の閉じた世界。狭苦しい空間。息が詰まる。

 

 上野駅は、始発駅に相応しい。

 駅正面の大きな改札口、その先に並ぶ頭端式のホーム。そこはかつて、「列車」たちのためのホームだった。乗客は、故郷へ向かう人や、これから旅に出る人たちだった。行先は、東北や上越や信州、北陸のいろんな街や田舎や、その地方や季節ならではの景色や旅情だった。

 出発のベルが鳴る。ドアが閉まる。汽笛が鳴った! 胸が高まる! 手を振る人たちに見送られ、ゆっくりと動き出す。これから長旅に出る列車たちは、上野駅を悠々とそして堂々と出発していった。

 列車たちは、いわゆる「列車線」をいく。左に山手線、京浜東北線の複々線、右に支線である常磐線の複線を従え、そのど真ん中をゆく。さすが「本線」だ。格が違う。

 山手線や京浜東北線の「電車」たちは、鶯谷、日暮里、とこまめに停車していく。しかし列車線をゆく「列車」は、そんな駅には目もくれず我が道を行く。

 日暮里で常磐線が右へ大きくカーブを描きながら分かれていく。西日暮里では山手線、京浜東北線の電車たちとも分かれ、独自の進路をとる。

 そして、列車線の一つ目の尾久という駅を通過する時、左側に大きな車両基地が拡がる。それはかつて、「列車」たちのための車両基地だった。列車たちはそこで準備をし、回送列車として上野駅へ向かっていった。その車両基地は、始発駅である上野駅を補完する役割を担っていた。いやむしろ、上野駅と一体だった。

 みんな昔の話だ。いつの間にか、仙台はもちろん、盛岡でも、青森でも、山形、秋田、新潟、長野、富山、金沢・・、どこへでも新幹線で行ける時代になった。しかも、多くの人たちは東京駅から乗っていく。上野駅は普通の駅になった。車両基地も変わった。「列車」たちはみんないなくなった。

 

 今、その車両基地の一番奥にいる。ずっとここに停車している。

 

 この列車は、老人ホームだ。

 乗っているのは、爺さんや婆さんばかり。みんな、身寄りのない、行き場のない、そんな人たちだ。どんな事情があるのかは知らない。人のことを詮索してもしょうがないし、人のことをどうこう言う権利もない。

 オレはこの中では若い方だ。年齢だけで言えば、他の人たちとオレは、親子でもおかしくないくらい離れているかもしれない。この列車の乗客たちの姿は、オレの未来の姿なのだろうか?

 ちょっと前まで普通に体を動かせていたのに、手や足を動かすもの難しくなっていく。ちょっと前までシャキッとしていたのに、少しずつ呆けていく。皺をきざみ、腰は曲がり、髪は抜ける。動作はとろく、思考は鈍り、理性も意志も失っていく。それが未来か?

 

 不思議なこともある。この列車に拾ってもらったころ、こんな話を聞いた。

 徘徊する爺さんや婆さんって、その人なりに理由があるらしい。どこか行くべきところがあるらしい。でも、その理由もそれがどこなのかも、他の人にはわからない。本人だって、それを説明できない。だが、行かなきゃいけないところがあるのは、たしからしい。

 ところが、この列車の乗客たちは、呆けても徘徊する人はいないという。もしかして、人それぞれが行くべきところへ、この列車が連れて行っている、ということなのだろうか。 もし本当にそうなら、オレも、オレ自身の行くべきところへ、いつかたどり着くことができるのだろうか?

 

 

 

 (尾久車両センター)

 

 窓ガラスに映る。遠くの空を見つめる。

 時が流れていく。一秒、また一秒。漠然と過ぎていく。

 オレンジ色に染まっていく。一秒、また一秒。さらに赤みを帯びていく。青色は反対側へ追いやられ、はじっこの方に追いやられた青色ほど濃さを増していく。

 オレンジ色が最後の輝きを放ち、小さくなっていく。覆いかぶさるように暗闇が包み込んでいく。そして、その暗闇の中にオレの顔が浮かび上がる。

 夜になる。今日という日が終わっていく。今日という日に、何か意味はあったのだろうか? 価値はあったのだろうか?

 他の乗客たちにとって、今日という日は、( 車両基地で車両の整備をする日 )でしかなかっただろう。

 違う、違うんだ。本当は、オレの番だった。オレの思い出の場所や、もう一度行きたい場所を訪れる、今日はそのための日だった。

 

 でも、オレには、そんな場所はない。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 こんばんは。またお会いしました。

 みなさん、覚えていただいていたでしょうか?

 あらためまして、ボクは、「老人ホームライナー」と言います。みなさんにそう呼ばれています。

 今日は、ずっとここにいました。春のポカポカ陽気に誘われて、一日中ウトウトしていました。ここというのは、東北本線の上野駅の一つ隣の尾久駅に隣接した車両基地のことです。今日は、ここで一日休み、夜になって終電が行ったら、また出発することになっています。

 あっ! 「東北本線」と言いましたが、いつの頃からか「宇都宮線」という愛称でも呼ばれています。むしろ、「東北本線」と言われても「はて?」という方もいらっしゃるかもしれません。「宇都宮線」の方がピンとくるようでしたら、「宇都宮線」で結構です。正式には今でも「東北本線」なんですけどね。

 

 

 

 (尾久駅周辺の地図)

  ※国土地理院発行2万5千分の1地形図「赤羽」「草加」「東京西部」「東京首部」を使用)

 

 東北本線と言えば、やっぱり上野駅ですね。かつては、「北の玄関口」と呼ばれ、多くの列車たちが、この上野駅から出発していったそうです。

 ボクも、そんな時代のことは、話で聞いたことしかありません。やはり新幹線が開業して、便利になっていったことが大きいのでしょう。あっちにもこっちにも新幹線で行けるようになればなるほど、上野駅から出発していく長距離列車はなくなっていたんですね。

 ボクなりに調べてみました。新幹線の開業日を年表にまとめると、こんな↓↓感じになります。

 

 1982年(昭和57) 6月23日  東北新幹線 大宮-盛岡 間 開業

 1982年(昭和57) 11月15日 上越新幹線 大宮-新潟 間 開業

 1985年(昭和60) 3月14日  東北新幹線 上野-大宮 間 開業

 1991年(平成3)  6月20日  東北新幹線 東京-上野 間 開業

 1992年(平成4)  7月1日   山形新幹線 福島-山形 間 開業(在来線の改軌)

 1997年(平成9)  3月22日  秋田新幹線 盛岡-秋田 間 開業(在来線の改軌)

 1997年(平成9)  10月1日  北陸新幹線 高崎-長野 間 開業(長野新幹線)

 1999年(平成11) 12月4日  山形新幹線 山形-新庄 間 開業(在来線の改軌)

 2002年(平成14) 12月1日  東北新幹線 盛岡-八戸 間 開業

 2010年(平成22) 12月4日  東北新幹線 八戸-新青森 間 開業

 2015年(平成27) 3月14日  北陸新幹線 長野-金沢 間 開業

 2016年(平成28) 3月26日  北海道新幹線 新青森-新函館北斗 間 開業

 

 長い年月をかけ少しずつ、東北地方の各県はもちろん、新潟も北陸も、はたまた北海道まで新幹線で行けるようになっていったんですね。そりゃあ、在来線の特急列車や急行列車、夜行列車なんてなくなっていくのも当たり前ですよねえ。

 

 この車両基地も変わったそうです。昔は長距離列車で賑わったそうですが、今、ここで休むのは通勤電車ばかりです。

 その通勤電車ばかりの車両基地のはじっこの方に、ボクも間借りさせてもらっています。

 というわけで、一応、この車両基地がボクの住所ということになっています。もし、ボクにはげましのお便りをくださるような優しい方がいらっしゃいましたら、こちらの住所に送ってください。(嘘です)

 「住所」と言いましても、毎日帰ってくるわけではありません。ボクも、今日はこっちへ、明日はあっちへと、日々、旅をしている方が性に合っているようです。

 旅と言いましても、ボクなんて肩身の狭いものです。ボクは、どこへ行く時も他の列車の邪魔にならないようにします。いくつもの駅で待避線に入り、急ぐ列車たちを先に行かせます。

 何日かに一度、ここに帰ってくる時も同じです。終電が行ったあと、深夜の保守作業が始まるまでのわずかな間に、滑り込むようにここに戻ってきます。

 出発する時もそうです。終電が行った後か、始発電車の直前か、でも始発電車の直前だと何かあって朝のラッシュに巻き込まれると大変なことになってしまいます。やっぱり、終電の後に帰ってきて一日休み、また終電の後に出発するのが無難ですね。

 

 

 

 (上野駅 1977年(昭和52)ごろ 特急「やまばと」、特急「ひばり」(右))

 

 自分で言うのもなんですが、いつも「世のため人のために役に立ちたい」、そう思ってがんばっています。

 でも、どんなにがんばっても、思った通りにならないこともあるのですね。ボクは、だんだんわかってきました。ボクには、大きな問題があることがわかってきたのです。

 ボクにご乗車になっている皆さんは、人生の最晩年にさしかっている方々です。率直に言わせていただけば、お迎えを待っている、と言っても決して間違ってはいないでしょう。

 そんなお爺さんやお婆さんたちは、何に希望を持てばいいのでしょうか? 何を楽しみに日々を過ごせばいいのでしょうか?
 せめて思い出の地をめぐり、幸せだったころのことを思い出していただき、決して悪い人生じゃなかった、そう感じながら、残りの時間を安らかに過ごしていただきたい、ボクはそう思っています。

 ボクは、以前、こう言いました。

 

 「ボクは、ボクにご乗車になっていらっしゃる方々の、所縁のある場所、思い出の場所、もう一度行ってみたい場所、そんな場所を巡っていきます。」

 

 でも、そんな場所がない人は、どうすればいいのでしょうか?

 どうやら人は、誰もが同じ、というわけではないようです。

 

 う~ん・・。

 

 ボクは、わからなくなってしまうのです。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 灯りが落ち、車内が暗くなった。

 この列車は、毎晩21時に減灯する。就寝時間だ。布団に潜り込んで寝たふりをする。 少しすると、見回りがくる。寝たふりをしていないと、めんどくさいことになる。

 だが、最初の見回りをやり過ごせば、しばらく誰もこない。布団を抜けだし、靴をはく。こっそりドアへ向かう。

 この列車は、もとは通勤電車だったらしい。どのドアにも、「非常用ドアコック」が必ずついている。その蓋を開け、コックをひねる。これで、ドアを手で開けることができる。そして外へ出る。オレだけの秘密だ。

 

 オレの家は、この車両基地の近くにあった。

 オレの部屋は2階だった。そう、2階建ての小さな家だった。

 子どものころの話だ。この時間になると、こっそり部屋を出て、そろりそろりと階段を降りた。そして、家を抜けだした。家から一歩外に出ると気が晴れた。一日の中で、その時間だけが楽しい時間だった。

 

 車両基地の縁に沿って歩く。あの頃を思い出す。

 

 あの頃、この時間には長距離の夜行列車がたくさんあった。特急も急行もあった。寝台車もあれば座席車もあった。機関車が牽引する客車もあれば、電車もあった。みんな上野駅が始発駅だった。

 上野寄りの踏切に行くと、回送列車として上野駅へ向かう列車が通り過ぎていった。機関車が牽引する客車の列車は、特に面白かった。機関車が一番後ろから客車を後押ししながらゆっくりと上野駅へ向け進んで行く。これを「推進運転」といって、上野駅で機関車を前後で付け替える手間を省くためだった。

 車両基地に沿ってさらに歩いた。そこには、出発の準備している列車たちがいた。

 そして最後は、いつも尾久駅の北側の踏切で、通過していく列車たちを見送った。

 踏切が鳴る。赤いランプが点滅する。警報音がけたたましく響く。くるぞ! くるぞ! ヘッドライトの灯りが近づいてくる!

 どの列車も上野駅を出発したばかりだ。通勤電車のようにあわただしくなく、風格があった。悠々と通過していった。上野駅を発車してから、ここまで5分だった。もう何十年も昔のことなのに、今でも覚えている。

 

 上野駅

 22:00発 寝台特急「あけぼの1号」 青森行き

 22:21発 寝台特急「はくつる」 青森行き

 22:24発 寝台特急「あけぼの3号」 秋田行き

 22:34発 寝台特急「北星」 盛岡行き

 22:38発 寝台急行「天の川」 秋田行き

 22:41発 急行「津軽3号」青森行き

 23:04発 急行「出羽」 酒田行き

 23:20発 急行「佐渡7号」 新潟行き

 23:32発 急行「いわて3号」 盛岡行き

 23:42発 寝台急行「新星」 仙台行き

 23:55発 急行「ばんだい11号」「あづま3号」 会津若松・仙台行き

 23:58発 急行「妙高9号」 直江津行き

 

 あの列車に乗って、行けるところまで行ってみたい。

 あの列車でも、あの列車でも、あの列車でも、どれでもいい。どの列車でも構わないから、乗って行きたい。どこかへ行ってしまいたい。いつもそう思った。列車たちがオレの目の前を通過していく。そのたびそう思った。走り去っていく列車の窓から漏れる灯りが眩しかった。乗っている人たちが羨ましかった。

 

 踏切が鳴った。ヘッドライトの灯りが近づいてくる。

 昔と同じ踏切を、ステンレスの通勤電車が通過していった。

 

 オレは、子どものころ、学校に行かなくなった。

 もちろん、最初は行っていた。でも行かなくなった。行きたくないわけじゃない。でも、「行こう」と思っても、どうしても行けなかった。行けなくなってしまった。

 理由? みんなそれを気にする。でもそうじゃない。これだ! と言えるような具体的なものじゃないんだ。

 ただ、まわりの人たちにどう思われるか、どう思われているか、そんなことばかりが気になって仕方がなかった。無難にやれなかったり、上手くやれなかったり、調子よくやれなかったり、その繰り返しだった。窮屈で息が詰まる日々だった。

 本当なら学校を卒業して社会に出て、仕事をして・・、そんな年齢になっても、それは変わらなかった。

 きっと、大人とか社会人とか、夫だとか父親だとか、そういういろんな責任があって、立派な人はそこから逃げずに、嫌なことや腹が立つことがあってもじっとこらえ、心の中で「このやろう!」と思っても、それを決して表には出さずに自分の中にぐっと呑み込んで、きっとそうやって生きているのだろう。

 ただ時間だけが過ぎ、オレだけが取り残されていく。居場所がなくなっていく。焦る。惨めになっていく。

 親との関係も悪くなっていくしかなかった。オレだけじゃない、親同士の関係も悪くなっていった。誰が悪いと責任を擦り付け合う、そんな関係になっていった。ある時、親が言った。心の底にたまっていたものを吐き出した。

 

 「お前が引きこもるようになってから、この家はおかしくなった」

 

 オレが思っていた人生や生き方は、こんなじゃなかった。

 オレのオレ自身の、人生の意味や価値を感じ、そして答えにたどり着く。そんな生き方をしたかった。でも現実は全く違った。そんなことを声に出して言う権利さえもないほど、どうしようもない。

 

 

 

 (尾久駅北側 梶原踏切)

 

 オレは踏切を渡った。路地を1本、奥に入る。

 住宅街の細い道。昔から知っている道。車一台がやっとの幅。あの電信柱。あの電灯。暗いこの道。とても静かだ。この家は、昔のままだ。あっちの家は、少し前に建て替えて新しくなった。

 

 誰もいない、暗がりの中。オレは立ち止った。

 空き地がある。結局、ここに来てしまう。小さな一戸建てがやっとの狭い土地だ。

 昔、ここに家があった。父、母、そして子、普通の家族のはずだった。しかし、いつしか父も母もいなくなり、残った子も、立ち退かなければならなくなった。そして家は取り壊され、更地になった。長い間、雑草が生い茂っていた。

 

 だが・・、今夜は違っていた。

 

 新たに杭が打たれ、『 ○○様邸 』と書いてある。雑草もなくなっている。

 それは、明らかに、ここに知らない誰かの新しい家が建つことを主張している。

 

 そうか・・、新しい家が建つのか・・。

 

 どんな人だろう? 家族は何人だろう? 父、母、子・・。普通の家族・・。幸せな家庭・・。

 なぜだろう? どうしてなのか分からないけど、悔しい。どこにぶつけたらいいのか分からないけど、悔しい。悔しい! 悔しい! ただただ悔しい! 惨めだ! とてつもなく惨めだ! 知らない誰かのことが、羨ましくて仕方がない。

 いっそ誰かのせいにできたら、どんなにいいだろう? 誰かに怒りをぶつけることができたら、どんなにいいだろう? 誰かを憎んで生きていくことができたら、どんなにいいだろう! くだらん! くだらない人生じゃないか! バカみたいなどうでもいい人生だ!

 

 その時、汽笛が聴こえた。

 気のせいか・・。とても静かだ。

 

 すると、もう一度、今度ははっきり列車の汽笛が聴こえてきた。

 あれは・・、オレに知らせているのか?

 そうだ、今夜は終電が行ったら出発するんだ。

 戻らないと、列車に戻らないと。

 

 オレは、歩きだした。

 だが立ち止り、振り返った。

 それは暗闇だった。電灯の灯りが照らすものは何もなかった。

 

 オレは、もう一度、歩きだした。

 今来た道を引き返す。踏切を渡った。

 帰ってきた。もう、すぐそこだ。

 車両基地の灯りが、列車を照らしている。

 

 

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 (3)へ続きます。

 

 ※ 本文中の昔の夜行列車の上野駅発の時刻は、1980年(昭和55)8月号の時刻表をもとに、22時以降で、かつ、定期列車のみを記載しました。

 

《補足》

 

 ① 上野駅

 

 上野駅は、「北の玄関口」と呼ばれ、多くの人に親しまれてきました。

 東京と、東北や上越、信州などを結ぶ列車たちが、この上野駅から出発していきました。

 私が子どものころ(大雑把に言うと昭和50年代)、上野駅にはいつも、今となっては懐かしい往年の特急列車や急行列車がいました。

 

 

 

 (上野駅 駅舎)

 

 本文中の「駅正面の大きな改札口」とは、もちろん中央改札口のことです。

 上野駅の中央改札口と言えば、この↓↓壁画が印象的です。この壁画は、猪熊隆一郎氏の「自由」という壁画で、戦後間もない1951年(昭和26)から、この場所で多くの人たちの旅立ちを見守ってきました。

 また、今でこそ壁画の下の行先案内は鮮やかなLEDですが、私が子どものころは、列車名、行先、時刻を記した札が吊るされ、ずらっと並んでいたように思います。壁画は変わらなくても、時代は変わっているのですね。

 

 

 

 (上野駅 中央改札口の壁画)

 

 その中央改札口から中に入ると、目の前に13番線から17番線のホームが並んでいます。

 それらのホームは、改札口へ向かって行き止まり、つまり「頭端式」になっています。その様はいかにもターミナルといった感じで、上野駅と言えば、その光景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

 それとは別に1番線から12番線は高架になっています。12番線までを「高架ホーム」、13番線から17番線を「地平ホーム」とも呼びます。

 こちら↓↓の写真は15番線の改札口側ですが、中央に円形のオブジェが写っています。これは、石川啄木の歌碑で、

 

 ふるさとの 訛りなつかし

  停車場の 人ごみの中に

 そを 聴きにゆく

 

 という詩が刻まれています。

 私が子どものころは無かったと思います。上野駅の歴史の中では、新しい方なのでしょう。

 

 

 

 (上野駅 石川啄木の歌碑 15番線の中央改札口寄り)

 

 現在、在来線のホームは17番線までで、新幹線のホームが19番線から22番線までになっています。ですが、私が子どものころは、新幹線はまだなく、在来線のホームが20番線までありました。

 こちら↓↓は、その20番線の当時の写真です。停車しているのは、上野-青森 間を常磐線経由で結んでいた特急「みちのく」です。

 

 

 

 (上野駅 かつての在来線の20番線ホーム 1977年(昭和52)ごろ)

 

 長い間、ターミナルとして活躍してきた上野駅ですが、新幹線網が充実していくにつれ、次第に上野駅を始発駅とする長距離列車はなくなっていきました。

 新幹線の建設に伴い、在来線の19番線と20番線が廃止になりました。そのため、その後に出来た新幹線のホームは19番線からになっているわけです。その後、さらに在来線の18番線もなくなり、在来線が17番線までであるにも関わらず、新幹線が19番線からで、18番線が欠番という、現在の形になりました。

 なお、当時の在来線の19番線と20番線があったあたりは、現在では新幹線の乗り換え改札口になっています。

 

 

 

 (上野駅 新幹線乗り換え改札 かつて在来線の19番線、20番線があったあたり)

 

 本文中に、昔の夜行列車の上野駅発の時刻が出てきます。その中に、上野駅 22:00発 寝台特急「あけぼの1号」 青森行き がありますが、その寝台特急「あけぼの」は、私が子どものころは、こんな↓↓列列車でした。

 当時の「あけぼの」は、元祖ブルートレインと呼ばれた20系が使用されていました。20系は、1958年(昭和33)に、東京-博多 間の寝台特急「あさかぜ」に投入された車両で、ブルートレインのさきがけになった車両です。今になって思えば、B寝台は3段式で、しかも寝台の幅は52cmと狭く、後から登場した車両と比べると見劣りしてしまいますが、登場当時は「走るホテル」と呼ばれ、とても人気があったそうです。

 そんな20系も、定期の寝台特急に使用されたのは、この「あけぼの」が最後でした。その「あけぼの」も、1980年(昭和55)10月のダイヤ改正で、24系に置き換わりました。

 

 

 

 (寝台特急「あけぼの1号」 青森駅 1979年(昭和54)1月)

 

 懐かしい特急や急行、夜行列車たちはみんないなくなってしまいましたが、上野駅で先日この↓↓列車を見かけました。「TRAIN SUITE 四季島」です。

 そういえば、「四季島」のツアーは上野駅から出発していくんですね。また、「四季島」に使用されるE001形は、「尾久車両センター」に配置されています。たしかに、尾久駅を通り過ぎた際に、何度か見かけたことがあります。
 この日はたまたま見かけたのですが、まだ出発まで1時間もあるというのに、乗客の方々が列をつくって記念撮影をされていました。

 

 

 

 (上野駅 13番線 「TRAIN SUITE 四季島」 2022年(令和4)4月)

 

 

 ② 尾久駅と「尾久車両センター」

 

 上野駅から東北本線(宇都宮線)の列車に乗車し北へ向かうと、一つ目の駅が尾久駅です。その尾久駅に隣接している車両基地が、本章の舞台になっています。

 その車両基地は、今は「尾久車両センター」と言いますが、私が子どものころは「尾久客車区」と言いました。年季の入った鉄道ファンの方であれば、「尾久客車区」という響きに懐かしさを感じる方も多いのではないでしょうか。
 その尾久駅ですが、駅舎は、こんな↓↓感じで、意外とこじんまりしています。

 

 

 

 (尾久駅 駅舎)

 

 こちら↓↓はホームです。北側(赤羽寄り)の先端から上野駅の方を向いています。

 左側が上り(上野方面)で、右側が下りです。さらにその右側には、「尾久車両センター」の敷地が拡がっています、

 

 

 

 (尾久駅 ホーム赤羽側先端より上野方向へ)

 

 こちら↓↓は、同じくホーム北側の先端から「尾久車両センター」の敷地を臨んでいます。

 

 

 

 (尾久駅 ホーム赤羽側先端より赤羽方向へ)

 

 さらにこちら↓↓は、ホームの中ほどから、「尾久車両センター」の敷地を臨んでいます。

 駅よりも車両基地の方がはるかに大きいのですが、お分かりいただけるでしょうか。

 駅に車両基地が隣接しているというよりも、車両基地の端に駅がある、と言っても言い過ぎではないかもしれません。

 

 

 

 (尾久駅 ホーム中ほどより)

 

 こちら↑↑の写真では、停車しているのはE231系ばかりですが、私が子どものころは、こんな↓↓感じでした。

 手前は、懐かしい20系で、ナハネフ23 ですね。画像が不鮮明で恐縮ですが、急行列車であるのは間違いなく、「天の川」か「十和田」か、たぶん、そのどちらかではないかと思いますが・・、正確にはわかりません。その奥の電車は583系です。

 

 

 

 (尾久客車区 1980年(昭和55)8月)

 

 こちら↓↓も同じ時の写真ですが、583系は「はくつる」ですね。さらにその奥に、やはり20系が写っています(小さくてすみません)が、こちらは ナハネフ22 です。やっぱりブルートレインはいいですね。

 

 

 

 (尾久客車区 1980年(昭和55)8月)

 

 こちら↓↓は、もうちょっと今に近くて、「北斗星」が写っています。

 この頃はまだ、かろうじてブルートレインがいました。

 

 

 

 (尾久車両センター 2013年(平成25)2月)

 

 こういった列車は、みんないなくなってしまいました。

 尾久駅を通るたびに、時代の移り変わりを感じます。

 

 

 

 ときひろ.ねっと