京都鉄道博物館 蒸気機関車扇形庫のSLを、久しぶりのUPです。
撮影したのはやや以前ですが、とにかく嫌がらせのような雨でした。
C62をメインに撮っているのは仕方ないですが、雨足の方はもう笑うしかありません。
まずはC62-1号機のプレートと、C62-2号機 スワローエンゼル越しにC621。
そしてC622と並ぶC61-2号機を、連絡デッキから。
特に巨大な大型機が並ぶ姿は圧巻ですが、それがしっとりと濡れていると美しさでも感嘆してしまいます。
C622とC612を地面から撮りましたが、EF58-150号機もバックに入れて撮ろうと、少し右へ移動してもう1枚。
C62形とC61形は、終戦後に貨物輸送量が激減し、それに比例して人々の動きが急増した時代に、旅客用機関車を補充するために 誕生しました。
旅客機は戦中に造られておらず、戦前に造られた機関車は整備が行き届かせられないままに酷使され、終戦後にまともに動かすことができる機関車の両数は限られていました。
ところが機関車を新製したくても鉄など資材があるはずがなく、GHQからも物資運送の観点から貨物輸送機関車へ主軸を置くように伝えられます。
そんな中、苦肉の策として考案されたのが、大量に余っている貨物機を旅客機に改造することでした。
動力源であるボイラーとシリンダー、そして各種部品を貨物機から再利用し、旅客機用の高速走行部分はC57・C59と同仕様の足回りのみを新規製造しての改造でした。
D51形へ旅客機の足回りを履かせたのがC61形、D52形へ旅客機の足回りを履かせたのがC62形となりました。
と、ここまではよく知られた歴史ですが、問題なのはなぜC61形とC62形は″改造″と呼ばれるのか?という点です。
機関車はスチーム・ディーゼル・モーターのいずれの動力源であっても、それが新製であれば躯体や部品が中古品・流用品であっても新製です。
逆にボイラーや躯体・部品などの新品をいくら使用しても、動力源や足回りが流用品ならばそれは修理です。
修理によって性能面の向上や用途変更が認められ、形式が変更となった場合のみ改造と登記されるので、C61形とC62形は規程上は新製機関車なのですけど。
戦後の混乱の中で、新製だとGHQから申請が却下されるため、あくまでも改造という建前の名目が必要だったため、戦後77年が経った今でも改造機と呼ばれています。
C59形の従台車を1軸から2軸に変更して誕生したC60形はれっきとした改造ですが、もうそろそろC61形もC62形も改造機関車のレッテルは剥がしても良いのではないかと、私は思います。
と語っている内に、写真では雨が凄いことになっています。
C612とC622と共演している機関車たちですが、順にC51-239号機、8620形8630号機、点検を受けているのはD51-1号機て、給水中なのは8630号機でした。
豪雨の中で転車台に乗って煎るのは8630号機で、こちらは扇形庫の中へ居るC57-1号機、そしてC56-160号機が共演してくれました。
しかし、この激しい雨の中で立哨している職員さんも大変だなぁと、若い頃に警備員のバイトをしていたことがあるので、その苦労が身に染みて伝わってきます。
まぁ、その頃に相手にしていたのは蒸気機関車ではなくラフタークレーンやトレーラーそして10トンダンプカーでしたけど。
そしてこの日、広島へ帰宅するのに新幹線は定時運行していたものの、広島駅へ着くと在来線は全て運転見合わせで、自宅へはタクシーで帰ったんですよねぇ(笑)
さて、この2枚は本編とは関係なく、あくまでもオマケですが、函館本線の 大部分区間が並行在来線として廃線となることからUPしました。
京都に居るC622は東海道本線で特急列車などの牽引を勤めた後、北海道へ転属して函館本線にて急行ニセコなどの牽引を勤めました。
ところで最後に話題は変わりますが、今通常の50倍の大きさの核を持つ超巨大彗星が、時速3万5400キロの速さで地球に接近しているそうです。
2031(令和18)年頃に地球へ最接近するこの彗星は、核の大きさが幅137キロと、東京駅から上越新幹線で上毛高原ぐらいの距離で、質量は約500兆トンと推定されています。
この大きさだともう彗星と言うよりは天王星の衛星 ポーシャとほぼ同じで、凄いモノが来るなぁって感じです。