C50-125号機 ー② / 柳井市駅南公園 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

C50-125号機 ー② / 柳井市駅南公園


柳井市駅南公園に静態保存されている C50-125号機の続きです。

今回は、恒例の機関車履歴書を記しますが、併記する日本史はその後の日本の進路に関わる重要事項の多い時代だったので、少し多目の記載になっています。

ところで鉄道省では、路線国有化における接収機には新規定の形式は付与されず、その鉄道会社の形式をそのまま使用していました。



しかし8650形は8620形に8650号機が存在し、国内メーカーでC50形と同一形式として製造されたため、C50形の形式が付与され、 続番として統合されています。

と、前回の補足をしたら、年表へと移りましょう。

C50-125号機は1930(昭和5)年5月23日に、日立製作所笠戸工場でNO.402として誕生しました。

新製配属は早岐機関庫でしたが、時期不明ながら小郡機関庫へ夏頃に移籍されたようです。 



1930(昭和5)年とは1月21日 ロンドン海軍軍縮会議が開催され、3月15日には横須賀線が電車運転に切換えられ、4月1日は上野駅に地下商店街が誕生し、4月10日には銀座三越が開店した時代でした。

夏という季節には、7月27日に中国共産党軍が突如として長沙を占領し、28日に日本領事館が焼き討ちされて、29日には長沙ソビエト政府樹立の宣言がなされたものの、30日に列国の砲艦が中国共産党軍を砲撃しました。

大陸のこの動乱に関係しての小郡機関庫への移籍だったのかは判りませんが、混乱が落ち着き始めたのは秋で、C50-125号機は10月24日付けで浜松機関庫へと移籍しています。



尚、10月1日には東海道本線に超特急″燕″がデビューし、東京~神戸間を8時間20分で走破して、特急″富士″・特急″桜″よりも2時間20分の所要時間短縮を果たしました。

その他には11月1日に日比谷交差点に、国内初の自動交通信号機が登場し、名古屋市では市営電気バスが登場。

11月6日 午前1時39分頃、北陸本線 市振~親不知間起点306.2km付近にて、C51-2号機が牽引する急行列車が脱線して、約20m転落し機関車爆発 死者1名 負傷33名の事故が発生。



12月20日、岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間に、省営自動車(後の国鉄バス)が開業。

と、かなり絞り込んだものの、これだけの事があった年、それがC50-125号機が生まれた時代でした。

C50-125号機は6年弱そのまま浜松機関庫で過ごしますが、その間、日本は国際社会で重要なポジションに立っていました。

1931(昭和6)年9月18日、柳条湖事件(満州事変の勃発)が発生。



1932(昭和7)年3月1日に満州国が建国宣言し、5月15日には五•一五事件発生で犬養毅首相が殺害されます。

1933(昭和8)年2月24日 国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決し松岡代表退場、3月3日には三陸地方でM8.1の大地震が発生し死者3021名・負傷968名・行方不明43名。

1934(昭和9)年11月1日、南満州鉄道が大連~新京間に特急″あじあ″を運転開始 、12月8日は日米間に国際無線電話が開通、12月29日に日本がアメリカにワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。



1935(昭和10)年12月9日、 第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催されます。

1936(昭和11)年1月15日、ついに日本が差別的な不平等条約を押し付けてくるロンドン海軍軍縮会議から脱退し、2月26日には二•二六事件勃発。

7月31日、国際オリンピック委員会で第12回 夏季オリンピック開催地を東京に決定。



9月1日、職制変更が行われて浜松機関庫は浜松機関区へと改称し、C50-125号機はそのまま浜松機関区の所属機となります。

11月7日、東京永田町に国会議事堂落成し、12月31日を以てワシントン海軍軍縮条約は失効し、建艦自由競争の時代に突入します。

1939(昭和14)年5月5日、 C50-125号機は浜松機関区から成田機関区へと移籍。

1941(昭和16)年12月8日未明、ハワイ準州オアフ島真珠湾に駐留するアメリカ太平洋艦隊と基地に対して先制攻撃を敢行(真珠湾攻撃)し、日本は航空機時代を証明することになります。



12月16日、世界最大最新鋭の戦艦大和就役。

1942(昭和17)年12月1日、C50-125号機は成田機関区から小山機関区へと移籍します。

1945(昭和20)年4月7日、戦艦大和沈没。

8月6日 広島へ人類史上初の核攻撃がアメリカ軍によって実行され、8月9日にはソ連が対日参戦を開始します。



8月14日、連合軍へ日本は降伏を打診。

8月28日、交戦停止後にソ連軍は択捉島に上陸を開始し、侵略行為は9月5日に北方領土占領を完了しました。

1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約署名で、第二次世界大戦終結。

1953(昭和28)年4月20日、終戦以降かねてから領有したがっていた韓国が、島根県隠岐郡の竹島へ武力で侵略し、占領されました。



1964(昭和39)年10月1日、東海道新幹線が開業し、10月10日より東京オリンピックが開幕。

1970(昭和45)年3月15日、日本万国博覧会(大阪万博•EXPO70)が開幕。

7月11日、C50-125号機は小山機関区から柳井機関区へ移籍し、デフレクターと化粧煙突取付。

1971(昭和46)年3月25日木曜日、柳井・徳山地区入換無煙化記念″SLさよなら列車(9484レ)″が運転され、C50-125+C50-132+C50-57の3重連で徳山-柳井間を牽引し、その後お別れ式が催される。



3月26日 第二種休車指定。

5月22日、廃車。走行距離 2,340,365km。

12月16日、広島鉄道管理局長と柳井市長との間で無償貸与契約締結。

1972(昭和47)年1月、蒸気機関車展示場(現 柳井駅南公園)にて保存されますが、デフは取外しされて現在に至ります。


前述の通り、前半戦はかなり選り抜いたものの、歴史の流れの特筆事項が多くを占めてしまいました。

今、ロシアによるウクライナ侵略がまさに行われている最中ですが、戦争時は開戦に行き着く迄にいろいろな 原因が重なっているものです。

日本とアメリカでも価値観やセカイカンが異なるように、ロシアとウクライナ、西側諸国と東側諸国でも異なります。

「戦争反対」は誰でも訴えることはできますが、侵略者は関係なく襲って来ます。

そんなことに想いを馳せられる時代に生まれ働いたC50-125号機、偶然ではありますが今の公開だからこその、昭和初期の年表に力がはいってしまいました。


山口線では今年の″SLやまぐち号″の運転が行われていますが、アメリカにも日本っぽい景色があるようです。

JR西日本やJR東日本で運転されている、D51やC57、C61の他にも各私鉄が運行しているSLが、カーブの向こうから現れても不思議ではない風景。

できることなら訪れてみたい場所です。

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