3月31日。 日本ではこの日を区切りに年度末、翌4月1日から年度変わりの新体制に移行するというのが慣例のようになっていますが、今から35年前の今日は114年半の国鉄としての歴史を終えるという、まさに国家的プロジェクトでもあった分割民営化が実行に移される歴史的転換点でもありました。

 

1872年の新橋~横浜の鉄道開通から始まった国鉄(あくまでも便宜上の呼称)の歴史ですが、戦後GHQの指示により『日本国有鉄道』として独立採算制の公共企業体として再出発するも、巨額の累積赤字を抱え国の財政を圧迫、労使問題もあって最終的には解体され分割民営化という道を辿る事となったのですが、当時「ホンモノの」鉄道少年だった私(自称『国鉄をリアルタイムで体感した最終世代』)にとっては国鉄がなくなるという事はとてもショッキングな出来事であり、分割民営化は果たしてうまくいくのか…という不安もありました。

国鉄解体を推進した自民党の意見広告(1986年5月の新聞紙上に掲載)は『国鉄があなたの鉄道になります。』と題してこのような文面が記載されていました。

 

『民営分割ご期待ください』

「全国画一からローカル優先のサービスに徹します。」

「明るく、親切な窓口に変身します。」

「楽しい旅行をつぎつぎと企画します。」

 

『民営分割ご安心ください』

「会社間をまたがっても乗りかえもなく、不便になりません。運賃も高くなりません。」

「ブルートレインなど長距離列車もなくなりません。」

「ローカル線(特定地方交通線以外)もなくなりません。」

 

それから30年余り…結局その約束はほとんど反故にされましたが、その間に輸送ニーズの変化など、鉄道を取り巻く環境が変化している事もあって一概には批判できません。しかし、今のJR北海道の経営危機などの諸問題は分割民営化を推進した政府自民党にも責任があるでしょう。分割民営化に懐疑的だった私はアンチ自民党(決して左翼というワケではない)になり、選挙権を得てから一度も同党の議員に票を入れた事はありません。

JR北海道発足にあたっては「北のレールは、元気です。」なんてTVCMを流してたんですがね…。今や「北のレールは、死にそうです。」と言える程、ヤバい状況に陥っているのはご承知の通り。発足当時のイケイケムードは今や見る影もなく、むしろあきらめムードが漂っているかのようで…。もう何て言っていいんだか。

JR北海道をめぐる諸問題を長々と語っていればキリがないため、その事についてはまたの機会にして、今回は国鉄最後の日となった1987(昭和62)年3月31日にまつわる事を中心に語らせて頂きます。

 

それに先立つ事3月21日には、長年の国鉄に対するご愛顧に感謝して「3月31日国鉄全線1日乗り放題と銘打った『謝恩フリーきっぷ』(¥6000、小児半額)が計10万枚限定で全国の主要駅にて発売され、所によっては徹夜組もできる程の人気だったとの事で、午後には早くも売り切れる駅が続出、並んでも買えなかった客も少なくなかったとか。

 

この前日、私は実母の家に遊びに行くため札幌へ出てきていました。一夜明けて、札幌駅で同きっぷを買うべく、何時からかは覚えていないのですが(多分8時位?)10時の発売開始まで並ぶ事にしたのです。

地下鉄南北線でさっぽろ駅に到着後、地上に上がると謝恩フリーきっぷの購入待ちの大行列が既にできていて…。「ここは最後尾ではありません」の札(?)も見えており、一体どこに並べばいいモノか…とウロウロしているウチにようやく列の最後尾を発見。気温はまだ低かったと思われますが、幸い晴天だったのが幸いし、長い待ち時間を何とか耐える事ができました。

(国鉄北海道総局が発行した『謝恩フリーきっぷ』他、さよなら国鉄のイベント等を告知するチラシ。かなりボロボロでテープで補修した跡もあるが、今では貴重な資料だ。ワープロ刷りで文字のアウトラインドットが時代を感じさせる。また、『北の鉄道フェアー』イベント会場が札幌そごうデパートというのも懐かしい。そごうが入居していた札幌エスタも2023年には閉館、解体される運命にあり、時代の流れを感じる。)

 

 

 

結局何時間並んだ事でしょうか…。10時の発売開始からその後どれ位待ったのかはもう記憶にありませんが、何とか目的の『謝恩フリーきっぷ』を無事入手する事ができました。当時はまだ小児運賃扱いで乗れる身分だったので半額の¥3000で購入しています。そのため右隅の小児断線部分がカットされています。

尚、きっぷ自体は国鉄時代に駅に貼られていた『国有鉄道線路図』を基にした『JRグループ線路図』のポスター(B1判?)とセットになっており、ポスターの上端には「謝恩フリーきっぷ(JRグループ線路図)」と書かれており、左隅にはきっぷ本体を収納する部分がありました。国鉄自体はポスターときっぷが一体の「特大サイズ」として宣伝していましたが、流石にこの状態のまま乗車券として使用するのはあまりにも邪魔過ぎるので、ポスターはオマケみたいなモノでした。長年自室に貼っていたのですが劣化が激しい事から、後年実家を処分する際にポスターも処分してしまいました。今となっては勿体ない事をしたモノだと…。

(札幌駅旅行センター発行の謝恩フリーきっぷ。券番は0669だが、札幌駅での割り当て番号なのかは不明。コチラもポスターと一緒に貼っていたため劣化が激しい事から元のピンク色に着色の上で掲載。)

 

 

 

その後私は3月23~26日に函館の親戚宅にお邪魔させて頂き(この間の事は省略)、札幌には山線経由(往路は千歳・室蘭線経由)で普通列車中心に硬券集めの乗り継ぎをしながら戻ってきました。よく考えたら、函館に行く位なら松前線や青函航路にも乗っておくべきで、結局未乗のまま終わってしまった事が悔やまれます。

3月27日には先に紹介したチラシに掲載されていた『わかれと出発(たびだち) 北の鉄道フェア』にも行ってきました。入場は無料でしたが、来場者には硬券の記念入場券が配布されています。私はその中の「さよなら国鉄バザール」の鉄道部品即売会で「夕張/苫小牧」のサボを1枚¥1500で購入(2日目だったためか他に目ぼしいモノがなかった…)したのですが、諸事情によって手放してしまいました。コレもまた勿体ないですが…。

 

 

 

 

この記念しおりも『北の鉄道フェア』と書かれていますが、日程が異なるためおそらく札幌ではなく旭川で開催された時に頂いたモノでは…と思うのですが詳細は不明。

 

 

 

 

ここからようやく3月31日の話になるのですが、実は私には小樽に住んでいた同い年の従兄(生まれは私のほうが後)がおり、彼も鉄道少年の中の一人でありました。2日前の29日に札幌の実母の家から今度は従兄の家に泊まらせてもらう事となり、31日は彼の家の最寄り駅であった南小樽駅から謝恩フリーきっぷ利用で札幌駅に向かいました。

私は当時デビューして間もないキハ183系500番台車(N183系)に乗りたくて、札幌駅8:04発の31D特急おおぞら1号に乗車したのですが…謝恩フリーきっぷの利用客で2両しかない自由席は大混雑!早めに駅に行っておくべきだったのですが、私が乗り込んだ時にはもう空席はなく、仕方なく1号車(当時は号車番号の振り方が逆で、札幌駅基準に1号車だった。N183系だったのは間違いないが、500番台か1500番台かは不明)デッキに立つ事に。

釧路駅には12:45到着(定時の場合)。結局、自由席は最後まで空席が出る事なく、5時間近くもデッキに立ちっ放し…。まさに過酷な旅でした。ほとんど車窓風景も見られず、かえって損した気分でした(涙)。むしろ方面を変えて名寄本線など道北方面を目指したほうが良かったのか…。

尚、当時写真は1枚も撮っていないため、掲載写真はあくまでもイメージです。この日の北海道における特急列車は、ほぼ全てにおいて前頭部に「さよならJNR日本国有鉄道」の記念マークが貼り付けられていたそうですが、その事については憶えていません…。キハ183系500番台先頭車の場合は貫通扉窓に貼られていました。

 

 

 

 

この時に初めて釧路に来たのですが、当時はまだ釧網線も網走~斜里以外は未乗。駅舎はJR化後の1995年撮影(上写真と同時期)ですが、サッポロビールの看板が異なるのと釧路ステーション画廊の看板がある他は国鉄末期とあまり雰囲気は変わっていません。

せっかくなので硬券入場券を求めて切符売場に行ったのですが、残念ながら売り切れで国鉄最終日の記念に買う事はできませんでした。民営化直前、このように硬券入場券の在庫が払底してしまった駅も各地に見られました。

 

 

 

釧路からは14:07発の40D特急おおぞら10号でそのまま折り返す事に。コチラは早くから改札口に並んでいたため、同じ1号車の海側席に在り付く事ができました。ちなみに、N183系の乗車はこの日が初めてではなく、先述の函館からの帰りに大沼公園→長万部で北斗9号(と思われる)の自由席車に連結されていたキハ183-1500(中間車代用。運転台側扉が水色だった記憶がある)に既に乗っていました。やっぱり新型の座席(流石に現在のレベルだと見劣りするが…)はとにかく快適だったのが強く印象に残っており、いまでもお気に入りの特急車両である事に変わりはありません。

話をおおぞら10号に戻しますが、1号とは打って変わって混雑はしておらず、釧路からは私の隣にも相席で座ってくる乗客もいませんでした。結局まだ昼食を摂っていなかったため車販の弁当を求めるのですが、あいにく幕の内(¥800だったと思う)位しか私が食べられそうなメニューがなく、仕方なくソレで腹ごしらえする事に。

ここまでは快適な旅だったのですが、まだ地上駅だった頃の帯広駅に着くや状況は一変。自由席車は大勢の乗客がなだれ込んできて、私の隣には幼い男の子が座り、通路までビジネスマン風の男や用務客でいっぱいに!それまでの快適な旅が一転「あずましくない」旅に激変してしまいます。トイレに行くにも通路までいっぱいの乗客をかき分けなければならないという…。まぁ釧路から全区間立ちンボにならなかっただけでもまだマシでしょうか…。しかし単なる往復旅より、先述のように道北方面を周遊する旅にすれば良かったのかも…と今更悔やんでもしょうがないのですが。

終着・札幌駅には19:06(定時の場合)到着。この日は全国どの方面も特に新幹線や特急・急行列車の自由席は軒並み大混雑していたようで、その事による遅延も多発していたと思われます。

 

この国鉄最後日の北海道におけるさよならメインイベントとして、小樽築港駅裏手にある旧小樽築港機関区(小樽運転区)構内で、前年に手宮の北海道鉄道記念館(後の北海道交通記念館を経て、現在は小樽市総合博物館に改組)から搬出されたSL『C62 3』が構内走行し、国鉄北海道総局が新生JR北海道へ切り替わる事を記念するセレモニーが開催される事となっており、札幌からイベントへ向かう客のアクセスとして『アルファコンチネンタルエクスプレス』と、『フラノエクスプレス』の兄弟リゾート列車が運転されました。

(民営化直前の1986年暮れにデビューしたフラノエクスプレス。写真はイメージ。)

 

 

 

 

件の従兄とはイベントに向かうため(リゾート編成乗車も兼ねて)札幌駅で落ち合う約束をしており、おおぞら10号到着後私も何をしていたのかはほとんど憶えていないのですが、彼とは20時頃に無事合流したと思います。その後は札幌駅の構内をブラブラし、22時前?(詳細な発車時刻は不明)に出発するイベントへのアクセス列車(後発のフラノエクスプレスのほう)に乗車すべく早々と並んだかと…。

そして乗り込んだフラノ車両は、最後尾(この時は3両編成)のキハ84 2のほうで、何とかギリギリ2人並んで座れましたが、残念ながらハイデッカー部ではなく平屋部の最前列席でした。結果的に私にとって国鉄最後に乗車した車両となり、フラノ…は道内リゾート列車の中でも特に思い入れのある編成です。

(キハ84 2が最後部のフラノエクスプレス。撮影時点では4両編成。写真はイメージです。)

 

 

 

 

イベント用アクセス列車の乗客には、記念乗車証が配布されました。

 

 

 

 

C62 3が待ち受ける小樽築港駅構内の小樽運転所側線に到着したのは22:34頃。その10分前には先発していたアルコンが到着しており、両リゾート編成に挟まれる形でC62 3との並びが実現。既に構内では22時からC62 3のデモンストレーション走行が始まっており、イベント列車2本到着後は合計約1500人ものギャラリーで埋め尽くされました。この日の小樽はなごり雪が時折激しく降る天候で、そんな中23時からセレモニーが開始、テープカット、くす玉割りの後再びC62 3のデモ走行が行われ、SLが走る姿を生で見るのは勿論初めてだったのでとても興奮したのを憶えています。

(3枚とも北海道鉄道技術館保存後のC62 3。画像はイメージです。)

 

 

 

そして…集まった国鉄マンらによる『蛍の光』の大合唱の後、3月31日から4月1日に変わる瞬間、C62 3から力強い汽笛が鳴り響き、国鉄の歴史に幕を下ろし新たにスタートしたJR北海道の誕生を祝ったのでした。C62 3のデモ走行は午前1時まで続いたとの事…。私たちはJR北海道に変わった瞬間を見届けた後、当時の従兄の家へは2次交通もない中徒歩で向かったのでした。流石に深夜にも関わらず大人同伴でもない外出は憚られるのですが、もう時効という事で。

3月31日夜は、TV各局で『さよなら国鉄』の記念特番(特に日本テレビ『さよなら大放送!おもしろ国鉄スペシャル』の内容が充実していたと思う。YouTubeにて視聴)が放映されており、まさに国鉄分割民営化が国民的な出来事であったのを象徴するかのようでした。残念ながら謝恩フリーきっぷの乗車と小樽築港のイベントに行く引き換えに番組を観る事はほとんどできなかったのですが、従兄の家に着いた後各局のチャンネルを回しながらほんの少しだけ観たと思います。

 

従兄の家には4月2日か3日までいたと思いますが、正確な日にちは憶えていません。私は小樽を離れ、再び札幌の実母の家に向かうために、JR北海道になって初めて乗車した列車が何だったのか記憶が曖昧なのですが、確か50系51形(レッドトレイン)の客車列車だったかと思います。その際、従兄も札幌まで同行し見送ってくれたのを憶えています。彼の両親(父が母方の叔父だった)はその後離婚してしまい、従兄は母親が親権を取った事からその後二度と会う事はなかったのでした…。彼はその後どうしているのか、今となっては知る由もありません。

(JR発足後初めて乗車したと思われる50系51形客車。写真はイメージです。)

 

 

 

以上、国鉄最後の日にまつわるお話でした。当時モノの写真や確たる資料がなく、中身に乏しい記事になってしまい申し訳ありません。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。