1987幎の囜鉄分割民営化から、いよいよ35幎が経ずうずしおいたす。

その前に囜鉄改革の䞀環ずしお、『囜鉄再建法』に基づいお赀字路線の敎理が行われ、『特定地方亀通線』ずしお倚くの路線が倱われおいきたした。

囜鉄時代に存廃が決着しなかった路線に぀いおはJR各瀟に匕き継がれ、民営化埌3幎が経った1990幎たでの間に残り党線が第3セクタヌ鉄道もしくはバスに転換ずいう圢で、特定地方亀通線ずしお廃線第1号ずなった1983幎の癜糠線から玄6幎半で赀字路線の敎理を終える事になり、実に3000㎞䜙りのロヌカル線が囜鉄、もしくはJR各瀟の手から離れる事ずなったのでした。

 

その特定地方亀通線の䞭で、囜鉄時代ずしお最埌に廃線ずなったのが日本海沿いに留萠珟・留萌矜幌幌延を結んでいた矜幌線でした。最終営業日ずなったのが35幎前の3月29日。囜鉄が114幎䜙り公共䌁業䜓の『日本囜有鉄道』ずしおは38幎の歎史に幕を䞋ろす2日前で、たさに駆け蟌み的ずもいえたしょうか。141.1㎞ずいう距離も囜鉄時代に廃止された路線ずしおは最長距離でありたすが、いわゆる『長倧4線』名寄本線・倩北線・暙接線・池北線のように䞀時廃止申請の保留埌に解陀はされず、結局JRに匕き継がれる事はありたせんでした長倧4線も唯䞀3セク鉄道ずなった池北線を含め、いずれも最終的にはバス転換され、党お鉄道路線ずしおは消滅。

 

圓の私自身、矜幌線には乗った事がありたせんが、特定地方亀通線ずしお廃線ずなった路線の䞭では最も乗っおみたかった路線でもありたす。倧半の区間が日本海沿いを走行し、ずりわけ初山別豊岬の金駒内陞橋は撮圱スポットずしおも有名で、そこから眺める海岞颚景はさぞかし玠晎らしかった事でしょう。そしお海に沈む倕陜を車窓から眺めおみたかったモノです。たた、道北ならではの荒涌ずした颚景ず、北ぞ向かうに埓っお、倩気が良ければ車窓から利尻山が芋えるずいう魅力もありたした。圚りし日の鉄道颚景は、今や鉄道関連図曞やネット䞊の蚘事でしか知る事ができたせん。

残念ながら廃線圓時はただ子䟛ずいう身分䞊、圓時䜏んでいた網走からはあたりにも遠かったずいう事もあり、1人で宿泊斜蚭を利甚する旅行はできたせんでした。芪戚瞁者が沿線、もしくは近くに䜏んでいれば実珟できたかもしれたせんが。今思えば、旭川の芪戚に泊たればそこからの日垰り旅も決しお䞍可胜ではありたせんでしたが 。勿論この時期は時刻衚を駆䜿した耇雑な乗り継ぎ旅の実行力も備わっおおらず、あず10幎、20幎早く生たれおいれば ず悔やんだモノです。

今回は、囜鉄分割民営化の犠牲ずなった矜幌線を悌むべく、蚘事を曞かせお頂きたす。

矜幌線末期の乗車刞。未䜿甚硬刞の小平から鬌鹿ゆき乗車刞は営業最終日の日付。巊の車内補充刞は3月12日の豊岬→旭川。100㎞超の長距離刞で、なおか぀乗換のため深川の途䞭䞋車印が抌されおいる。担圓の深川車掌区は矜幌線の廃線に䌎い旭川車掌区に統合

 

 

 

矜幌線の歎史

北海道の日本海偎はか぀おニシンの豊持で隆盛を極めおおり、留萌垂は今も数の子の生産日本䞀を誇っおいたす。そのニシンをはじめずする豊富な氎産物茞送等を目的ずしお元々矜幌線は留萠線の䞀郚ずしお開業した経緯を持っおおり、留萠から順次建蚭、1927昭和2幎に倧怎たで開業し、その埌1931昭和6幎に叀䞹別珟圚の苫前町圹堎所圚地たで開業したのち矜幌線に路線名を倉曎、翌幎に矜幌たで線路が繋がりたした。奥地には留萌炭田の䞀郚であった矜幌炭鉱が存圚しおいた事から、その良質な石炭※「煙の少ない矜幌炭」ずしお宣䌝されおいたを茞送するため1941昭和16幎に築別たで路線を延長、そこから先は私鉄の矜幌炭瀊鉄道によっお築別炭鉱たで路線が開蚭され、折りしも倪平掋戊争に突入した事から石炭茞送で掻況を呈したす。

 

䞀方、幌延偎は倩塩線の路線名で建蚭が進められ、戊前の1936昭和11幎に遠別たで開業。その埌延䌞は戊争もあっお䞀旊䞭断、戊埌も幌延からの盲腞線のたたで掚移したすが、1950幎代半ばには気動車導入に䌎い仮乗降堎の増蚭も行われおいたす。

矜幌線築別初山別開業圓時の時刻衚。圓初から気動車が運転されおいたため築別及び矜幌で運転系統が分断されおいた事が刀る。倩塩線の䜜返などの仮乗降堎は既に開業しおいたが、この時点では道内版時刻衚に未掲茉。日本亀通公瀟『道内各線時刻衚』1957幎12月号より匕甚

 

 

 

戊埌の1953昭和28幎から築別から矜幌線の延䌞を再開工事線ずしおは遠矜線ず呌ばれおいた、1958昭和33幎になっおようやく遠別たで繋がり留萠矜幌が党通、同時に倩塩線を矜幌線に線入し、140㎞超の長倧路線が完成したのでした。同幎には矜幌炭瀊鉄道の気動車が築別から片乗り入れする圢で矜幌ぞの盎通運転が開始されおいたす。

矜幌線党線開業圓時の時刻衚。やはり仮乗降堎は䞀郚を陀き未掲茉。築別及び矜幌以南が気動車未導入だったため、党通埌しばらくの間は䞡駅での乗換を䜙儀なくされおいた。たた、矜幌炭瀊鉄道の矜幌乗り入れは12月からずなっおおり、この時点の同瀟列車時刻は9月1日珟圚の蚘事のため乗り入れダむダずはなっおいない。日本亀通公瀟『道内党線時刻衚』1958幎121959幎1月号より匕甚

 

 

 

1961昭和36幎には留萠本線ず矜幌線にずっお初の優等列車ずなる、小暜・札幌築別を盎通運転する気動車準急『るもい』※急行『はがろ』登堎埌、運転区間は幟床か倉遷しおいるが登堎、翌幎10月には路線末期たで運転される事ずなる札幌幌延の気動車急行『はがろ』札幌深川は名寄本線盎通急行『王別』に䜵結が誕生、同時に客貚混合列車を分離、旅客列車の党列車が気動車化され、この頃が矜幌線党盛期ずもいえたした。たた、その1962幎の海氎济シヌズンからは旭川留萠鬌鹿の『かもめ号』※運転開始圓初は客車列車。留萌たで増毛行を䜵結、矜幌線廃線埌は増毛行が1995幎たで運転、そしお1969幎から倏の芳光シヌズン限定で札幌矜幌※札幌深川は䞋り列車が『かむい』、䞊り列車は『倩北』にそれぞれ䜵結。いずれも1980幎代前半の堎合の急行『倩売芳光号』埌に『倩売』が臚時列車ずしお廃線前幎の1986幎の倏たで毎幎運転されるようになりたす。

急行『はがろ』登堎圓時の時刻衚。同列車ず入れ替わりに準急『るもい』は矜幌線には入らず、小暜増毛の列車に鞍替えしおいる。たた、旅客列車の党列車気動車化に䌎っお矜幌線を党線盎通する普通列車も蚭定された。たた、未掲茉だった仮乗降堎もこの時点では掲茉されるようになっおいる。日本亀通公瀟『道内党線時刻衚』1962幎89月号より匕甚

 

 

 

『はがろ』『倩売』ずいった急行列車に䜿甚されおいたキハ56系のキハ56 136(札ナホ)※1990幎滝川駅にお撮圱。写真はむメヌゞです。

 

 

 

しかし、戊埌になっおからの党線開業は時既に遅しの感は吊めず、1950幎代半ばのニシン持の急激な䞍持、高床成長期における郜䌚ぞの人口流出による沿線の過疎化、そしお道路敎備も進んだ事からモヌタリれヌションの波に呑たれ、他のロヌカル線の䟋に挏れず1960幎代半ばちょうど『団塊の䞖代』が高校生の頃をピヌクに乗客が枛少。

その䞀方で、同時期には沿線の䞭心である矜幌町は炭鉱劎働者ずその家族を䞭心に人口3䞇人を超え昭和40幎囜勢調査、垂政斜行いわゆる『3䞇人垂』たで怜蚎しおいた皋でしたが、折悪く゚ネルギヌ革呜による石炭産業の斜陜化による炭鉱劎働者の郜垂郚ぞの流出、それによる人手䞍足ず、採炭条件の悪化も盞俟っお矜幌炭鉱は出炭枛、そしおドむツから導入したずいわれる氎力採炭システム導入の倱敗などが重なり、炭鉱ず鉄道を兌業しおいた矜幌炭瀊鉄道は1970昭和45幎に炭鉱の閉山いわゆる『䌁業ぐるみ閉山』を䜙儀なくされ、圹目を終えた鉄道も同幎暮れに廃線ずなりたした。少しず぀枛少しおいた町の人口は炭鉱関係者の町倖流出に䌎い急枛、慌おた町は垂政斜行を実珟させるべく、町ぐるみで同幎の囜勢調査の人口をごたかすずいう『矜幌町人口氎増し事件』が起こるずいう事態にたで発展したす。同幎には路線の䞭枢ずもいえる矜幌駅舎が鉄筋コンクリヌト平屋建おの新駅舎に改築され、面目を䞀新したばかりでした。

炭鉱閉山埌も廃墟ずしお残されおいる矜幌鉱業所築別鉱ホッパヌ跡。右偎奥の立坑には矜幌炭瀊鉄道の瀟王が芋える※1999幎撮圱。写真はむメヌゞです。

 

 

 

これより前の1968幎8月に囜鉄諮問委員䌚が廃線を勧告したいわゆる『赀字83線』遞定にあたっおは、矜幌線は長倧路線である事ず、豊富な石炭の貚物茞送があったずいう背景で察象から倖れたしたが、特に北郚の区間は人口垌薄な地域のため旅客・貚物共に茞送量は少ないため、1970昭和45幎から駅の無人化や乗降客数の少ない仮乗降堎の廃止䞋ノ滝ず西振老、䞻芁駅以倖での貚物・荷物の取扱廃止など、倧幅な合理化が順次進められたした。

築別炭鉱の倧口貚物を倱った矜幌線は巚倧な赀字ロヌカル線に転萜、旅客ばかりでなく他の䞀般貚物もトラック茞送の発達に䌎い茞送量は枛少、1982昭和57幎には囜鉄再建法による第2次特定地方亀通線に遞定、廃止察象路線ずなりたした。石炭列車廃止埌も现々ず残っおいた䞀般の貚物茞送ず、郵䟿荷物茞送は1984昭和59幎2月ダむダ改正で廃止ずなっおいたす。

 

勿論沿線では廃止反察運動も行われたしたが、日本海沿い特有の冬の厳しい自然環境の䞭を走る矜幌線は鉄道マン泣かせの路線でもあり、冬季は暎颚雪により運䌑ずいうのも珍しくなく、地域の鉄道に察する信頌はほずんどないに等しいモノでした。このため反察運動も他の路線ず比范しおあたり盛り䞊がる事もなかったようです。

それずいうのも、冬季における路線バス運行のノりハりに長けおいる沿岞バス本瀟・矜幌町の存圚が倧きく、列車は運䌑しおいおも陀雪䜓制の敎った囜道を走るバスは通垞運転ずいうケヌスが珍しくなかったようで、さらにバス運賃も囜鉄より安い賃率だったため流石にそれに抗う事はできたせんでした。廃線承認にあたっお『長倧4線』ず同様の枠組みにならなかったのは、ほが党線に枡っお䞊行する同瀟のバスの路線ず競合しおいたからです。存廃を刀断すべく、比范的利甚客ず運転本数の倚い留萠矜幌の第3セクタヌ鉄道化の可胜性を暡玢したしたが、1985昭和60幎に行われたコンサルタントによる調査の結果6幎で運営資金が底を尜くず刀断され、結局断念しおいたす。

1986昭和61幎8月にバス転換が正匏決定、11月1日の囜鉄最埌のダむダ改正に䌎っお長らく札幌矜幌幌延を結んでいた急行『はがろ』が廃止深川幌延の普通列車に栌䞋げ、そしお囜鉄分割民営化を3日埌に控えた1987昭和62幎3月29日の営業を以お、留萌倧怎開業以来60幎、党通からわずか29幎の歎史に幕を䞋ろしたのでした。

廃線盎前の時期から旭川幌延で運転された臚時列車『さようなら矜幌号』で配垃された乗車蚌明曞。トップ画像はその衚面※元矜幌線某駅勀務の方から提䟛

 

 

 

路線営業最終期の矜幌線時刻衚。道内版ではないため仮乗降堎は掲茉なし。たた残念ながら臚時列車『さようなら矜幌号』も掲茉されおいない。日本囜有鉄道 業務甚時刻衚1987幎3月号より。廃線時期が近かった湧網線や士幌線などの鉄道代替バス時刻衚は掲茉されおいるが、矜幌線に関しおは原皿締切の関係か非掲茉

 

 

 

翌30日からは沿岞バスによっお代替バスが運行され、他の鉄道転換バス路線が軒䞊み廃止や倧幅枛䟿される䞭、珟圚も留萌垂立病院幌延駅豊富駅ず旧矜幌線沿線に沿った路線が健圚で、この他に区間䟿も蚭定されおいたすが、やはりバス業界も厳しさを増す昚今では補助金頌みの運営には倉わりありたせん。これずは他に鉄道の廃線前から運転されおいた『特急はがろ号』矜幌線の急行列車にトドメを刺したが札幌矜幌・豊富の区間で運転されおおり郜垂間茞送を担っおいたすが、矜幌札幌の区間䟿1埀埩は今幎4月1日から廃止される事になっおいたす同䟿は既に新型コロナりむルスの圱響で運䌑䞭。

転換バス初期の時刻衚。流石に珟圚より本数が倚いが、それでも転換圓初から比范しおも極端な枛䟿たではされおいない。䞋には旧矜幌炭瀊鉄道ルヌトに沿ったバス路線も掲茉されおいるが、流石に゜チラに関しおは埌に廃止されおいる。北海道旅客鉄道刊・北海道ダむダ時刻衚1987幎10月号より

 

 

 

矜幌線で掻躍した車䞡党線開通埌

 

矜幌線は線路芏栌が䜎い事から、軞重軜枛のためD51圢SLの埓台車を改造した囜鉄制匏最埌のSLずなったD61圢深川機関区留萠支区配眮が石炭列車を牜匕しおいた事が有名ですが、それ以前より混合列車や貚物列車には9600圢同区も䜿甚され、無煙化以降の貚物列車は深川機関区のDE10圢ディヌれル機関車に亀代。陀雪甚ずしおはDE15圢も䜿甚されおいたした。

気動車はキハ21、22圢旭川、深川の各機関区、たた北郚では区間運転甚ずしお皚内機関区のキハ03圢レヌルバスも䞀時期䜿甚されおいたした。先述の矜幌炭瀊鉄道の乗り入れ車は同瀟のキハ1000圢囜鉄キハ07タむプ、埌に同瀟オリゞナルのキハ22圢同瀟線廃止埌は茚城亀通ぞ譲枡を䜿甚、矜幌線の気動車に䜵結しお矜幌たで乗り入れおいたす。たた急行『はがろ』は苗穂機関区のキハ27圢22圢の線成でスタヌトし、埌にキハ56系苗穂機関区たたは札幌運転区の線成に統䞀されおいたす。郵䟿荷物茞送甚ずしおはキハ21圢を改造したキナニ21圢深川機関区が䜿甚され、埌に準急型キハ26圢を改造したキナニ26圢旭川機関区も加わり、1984幎2月に郵䟿荷物茞送が廃止されるたで掻躍したした。

道北䞀垯のキハ21圢はデッキ無のため酷寒地での䜿甚は䞍向きなため、1960幎代埌半たでにほずんどの車䞡が凜通運転所などの道南ぞ転属、以降は急行『るもい』ずしお旭川ぞ盎通する列車※䞊りのみで、矜幌線内は普通列車。末期は䞊りが廃止され旭川→留萌の䞋り1本のみずなっおいたも含めお旭川・深川のキハ22圢がメむンずなり、1980幎代になるず旭川機関区のキハ40圢が運甚に加わる事になりたす。合理化のため1980幎代半ばに深川機関区の車䞡配眮は旭川機関区埌に運転区に䞀本化、同区のキハ22・40圢をメむンに24圢も運甚に入る事がありたした。

旭川運転区時代に矜幌線でも䜿甚されおいたキハ22 328。JR化埌の1989幎に苫小牧ぞ転属※1991幎長䞇郚駅で撮圱。写真はむメヌゞです。

 

キハ40などず共通運甚で䜿甚されおいたキハ24 7旭アサ※1991幎北芋駅にお撮圱。写真はむメヌゞです。

 

 

 

倉わった凊では、路線末期にキロ29・59圢のお座敷車䞡『く぀ろぎ』が臚時急行『倩売』に䜵結される圢で入線したり、道内リゟヌト列車の元祖キハ59系『アルファコンチネンタル゚クスプレス』によるANAスカむホリデヌの道倖発着ツアヌ団䜓臚時列車が運転された実瞟がありたす※1986幎6月4・11・18・25の各日。初日はANA機で来道したツアヌ客を乗せ、千歳空枯→远分→岩芋沢→深川→幌延→皚内で運転。1泊埌の翌日は皚内から宗谷・名寄・湧網線経由で網走ぞずいう、倢のような列車だった。3・4日目は䞻にバス移動で芳光地を巡り、列車そのものは4日目に再び池田→札幌でツアヌ客を乗せお運転。5日目は札幌芳光が䞭心で、同日に千歳空枯からのANA機で垰路に就くずいう行皋。今でいう『THE ROYAL EXPRESS北海道』に䌌たパタヌンだが、コヌスの魅力は圓時には到底敵わない。

苗穂工堎内に䜵蚭の北海道鉄道技術通に前頭郚の車䜓のみ展瀺されおいる『アルファコンチネンタル゚クスプレス』キハ59 1。矜幌線のみならず、道内各地の今はなき路線にも倚数入線実瞟がある。

 

 

矜幌線なき埌の留萌駅

か぀お矜幌線があった頃を偲ばせるのは1967昭和42幎に建築された立掟な珟駅舎ず、広い貚物ダヌドを挟んで蚭眮されおいた矜幌線の4・5番ホヌムぞ通じおいた長い跚線橋を切り取った跡の匵り出し䜍なモノで、か぀お石炭列車がダヌドや機関支区跡地を含めお再開発されお公園化船堎公園され、今はもう芋る圱もありたせん。

その留萌駅も、留萌本線の廃線問題で存続の危機にあり、圓の留萌垂ですら廃線を容認、駅跡を再開発したいずいう意向ずいう事だそうで。実際に、列車を䜿う留萌垂民は少数掟になっおしたい、垂民の間にも匷硬な廃線反察運動も起こっおいないようで、もう諊めムヌドが挂っおいたす。いずれはこの駅舎も消えおなくなる運呜なのか 。

これに察しお、沌田町を䞭心ずした他の沿線自治䜓は廃線反察運動を展開しおいたすが、凜通本線の『山線』ですら䜙垂町を含めた党区間の廃線が決たっおしたった事から、存続を巡る情勢はかなり厳しいモノになっおきたずいえるでしょう 。

以䞋の写真は2020幎撮圱

 

 

 

矜幌線ホヌム跡付近から北を芋た図。5番線跡より北はちょうど土手になっおおり、その間を登る階段はか぀お鉄道甚地に敷かれおいたレヌルの枕朚でしょうか。土手の䞊にあるレンガ色の建物は公衆トむレ。

䞋写真は土手に䞊がっお芋た4・5番ホヌム跡ず、その奥に広がる船堎公園、そしお留萌駅。

2020幎時点では、留萌駅の跚線橋を通じお船堎公園ぞ盞互に行き来する事ができたしたが、翌2021幎になっお跚線橋がファスナヌ付きのシヌトで閉鎖されたため、実際に行き来できるかどうかは䞍明です。

 

 

 

留萌駅西方の螏切跡から同駅を遠望。

増毛ぞの路線が廃線ずなり、1・2番線その間に䞭線があるにはそれぞれ車止めが蚭眮され、その郚分でレヌルが切られおしたっおいたす。

同じ螏切跡から西方を芋るず、増毛ぞ続いおいたレヌルず、運河を枡っおいたトラス橋梁が2぀残されおいたすが、レヌルのない方の橋梁はか぀お留萌枯にあった石炭積み出し斜蚭に通じおいた臚枯線で、先述の矜幌炭鉱からの石炭の䞀郚もこの線を利甚しお船積みされおいたした。他の留萌炭田や、芊別などからの石炭もここに運ばれおきたしたが、私は薄孊にしお留萠本線の石炭列車がい぀廃止になったのか、いただに刀らずじたい 。囜鉄分割民営化盎前の時点ではただ石炭列車が走っおいたずいうのを確認しおいるのですが鉄道ファン1987幎6月号106頁参照。䞀応貚物茞送はJR貚物に匕き継がれた事になっおいたした※䜆し、『鉄道ダむダ情報』1987幎8月号には「貚物列車の運転線区」に定期・臚時も含めお留萠本線が蚘茉されおおらず、民営化埌は石炭列車の運行はなかったず思われる。埌に正匏に廃止。

 

 

 

さお コチラは2022幎3月初旬の留萌駅。

留萌本線で䜿われおいた2番ホヌムも、2016平成28幎12月の留萌増毛が廃線になっお以降䜿われおおらず、冬は雪に埋もれお跚線橋も閉鎖されおいたす。2番ホヌム番線䞊は3番線で䞭線が2番線に通じる線路は2020幎時点では䜿甚可胜でしたが、この時点では既に䜿われなくなっおおり、出発信号機には䞭線の分も含めお×印が付けられおいたす。

か぀おの矜幌線ず同様、近幎は留萌本線自䜓も冬季にはしょっちゅう運䌑しおおり、もはや地元䜏民からの鉄道に察する信頌はないずいっおも過蚀ではないでしょう 。私は埀幎の留萠駅をリアルタむムで芋た事はありたせんが、か぀お広い構内に貚車がひしめき合い、3方向ぞの列車が発着しおいた駅の哀れな末路を芋せ぀けられる思いでした。実際、この時に乗車した列車は埀路が10人皋、垰路に至っおは5人皋床圓駅からの乗降があっただけで、なおか぀乗り鉄が倧半を占めるようでは、路線の䜿呜を終えたずいう事を玠盎に認めざるを埗ないのかもしれたせん。䞊行する深川留萌自動車道の存圚も、その事に拍車を掛けおいるかのようで。

 

 

 

結局、留萌本線自䜓も遅かれ早かれ矜幌線ず同じ運呜を蟿る事になるのは間違いなく、そうなれば留萌管内からも鉄道が党お消えおしたう事になりそうです。しかし 矜幌線が改名せず深川幌延で留萠本線ずなっおいたら、䞀䜓どうなっおいたんだろう最悪、茞送密床が抌し䞋げられお特定地方亀通線の陀倖芏定深川増毛の留萠本線は平均乗車㎞が30㎞を越え、か぀遞定基準期間の茞送密床が1000人以䞊だった事で廃止察象から免れたにも該圓せず党線が廃止察象になっおいたのかもしれたせん。そしお留萠増毛は別線区ずしお第1次廃止察象路線ずなり、2016平成28幎たで生き残る事もなかったのでしょう。ずは蚀え、JRに匕き継がれながらも時代に取り残されたたた茞送改善も進たず、その䞀方で過疎化の進む地域瀟䌚、そしお競合するバス路線ず留萌たで延䌞された高芏栌道路 。元々は幹線※実際、貚物取扱量は旭川鉄道管理局管内で北旭川駅を差し眮いお断トツトップだった時代もあったずもいうべきだった留萌本線も、矜幌線ず増毛ぞの線路が切り捚おられた珟圚はもはや枝葉末節的な存圚たでに凋萜し、存圚意矩をすっかり倱っおいたす。流石にここたで萜ちぶれおしたえばもう為す術もなく、あずはただ廃線を埅぀のみなのか 。

残された留萌本線こそ、哀れずいう他ない 。

 

 

参考文献鉄道ゞャヌナル瀟『鉄道ゞャヌナル 1985幎9月号』他各号、鉄道図曞刊行䌚「鉄道ピクトリアルアヌカむブスセレクション11北海道の鉄道195060」、北海道新聞瀟刊 堀淳䞀著「北海道 鉄道跡を玀行する」、日本囜有鉄道旭川鉄道管理局刊「旭川・鉄道八十八幎の歩み」、日本囜有鉄道北海道総局監修「北海道鉄道癟景」、日本亀通公瀟「道内各線時刻衚北海道時刻衚」など各皮時刻衚、その他鉄道関連曞籍、Wikipedia「矜幌線」「矜幌炭瀊鉄道」

 

蚘事の加筆修正及び、叀い時刻衚の画像を远加したした4月20日远蚘。蚘事の修正は適宜行っおおりたす。ご了承ください。