昭和までは横浜の “秘境” を走るローカル線というイメージが根強かった横浜線ですが、沿線の宅地化に伴って、通勤線として急成長し、今や 「ハマっ子」 には欠かせない足として定着しています。また、横浜線は首都圏の通勤線区としては比較的遅くまで旧型車両が活躍していたことでも知られていますが、今や、中央線や京浜東北線などと同じE233系を使用しているので、その重要度が判ろうもの。ただ、8両編成 で事足りるということは、東京中心部ほどではないのかなという気がしないでもありません。まぁ、旧国時代は4両だったことを考えると、年々、利用者が増えているというのも解る気がします。

 

横浜線に103系が投入されたのは昭和47年10月から。京浜東北線用の103系を4両に組み替えて走らせたのが最初です。旧国時代から受け継ぐ形で、最初から根岸線の磯子まで直通運転を実施したことから、誤乗防止のために画像でも写っていますが、 「横浜線」 という大きなヘッドマークを掲げていました。

ホームの有効長 (特に橋本-八王子間) の関係から、4両という制限がありましたが、ホームの延伸工事が完成した昭和49年から7両編成に増強されました。またこの年、山手線の冷房化+ATC化に伴って非冷房車が転入してきまして、この時から横浜線のお約束である、うぐいす+スカイブルーの混色編成が日常になりました。

冷房車が入ったのは昭和53年からで、京浜東北線や根岸線に乗り入れる関係から、横浜線車両の先頭車もATC対応にする必要があり、先頭車を組み替える作業が昭和54年から実施されました。

この時代の横浜線用の103系は、東神奈川電車区 (南ヒナ) に配置されていましたが、昭和56年に所管を蒲田電車区 (南カマ) に移行させ、東神奈川電車区は車両無配置区になりました。

 

さて、画像は103系が冷房車ですので、昭和53年以降の撮影になろうかと思いますが、まだこの頃は一部区間で単線区間があったんですね。用地買収が済み、架線柱が立てられるなど、複線化工事が着々と進んでいる模様が判る絵面ですが、 (撮影地は) 何処でしょうね?

昭和50年代だけで見れば・・・

 

昭和53年10月・・小机-中山間

昭和54年 4月・・中山-長津田間

        7月・・長津田-原町田 (現、町田) 間

        9月・・淵野辺-相原間

昭和55年 9月・・町田-淵野辺間

 

全線の複線化は民営化後の昭和63年で、最後まで単線で残っていたのは相原-八王子間でした。

背景だけ見れば、横浜市内かなとも思えるのですが、仮にそうだとしても、今とは比較にならないほど、横浜市北部の沿線開発は凄まじいものがありますよね。 「金曜日の妻たちへ」 というドラマを思い出しますが、あれは東急田園都市線沿線でしたっけ?

 

 

【画像提供】

ワ様

【参考文献・引用】

キャンブックス 「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

ウィキペディア (横浜線)