新宿区立新宿歴史博物館の収蔵資料展「路面電車と新宿風景」を觀る。
明治三十六年(1903年)八月二十二日に品川~新橋間の開業を嚆矢とする東京の路面電車は、関東大震災、第二次大戰の東京大空襲といった都市の壊滅的危機に晒されながらもそれを逞しく乗り越へ、人々の大切な“足”を提供し續けてきたが、
昭和三十年代に入り都市が郊外へと廣がるにつれて移動手段も乗用車へ移るやうになると、物理的に従来の市街地のみにしか對應できない都電は次第に邪魔モノ扱ひされ、
昭和三十八年(1963年)十二月一日の“杉並線”廢止を皮切りに同四十七年にかけて路線が順次廢止されていく──
廢止後、無用となった都電の車両は旧車庫で解体処分されたが、白昼に衆目に晒される形で行なはれたそれはあまりに残酷な光景であり、心を痛めた或る少女はその旨を新聞に投書した例があったと聞く。
今回の資料展でも、解体された車両が激しい炎のなかでビューゲル(集電装置)を残し焼却されてゐる無惨な様子を撮ったカラー冩真が展示されてゐて、なるほど衝撃と不快を一時に覺える。
しかし、解体されて空き地となった車庫跡を、たちまち遊び場に変へてしまふのもまた子どもであるのは皮肉である。
さて、約九年にわたって東京から姿を消していった都電だが、そのうち27系統の一部と32系統は路面走行區間が少ないことから一本化した上での存續が決まり、昭和四十七年に“都電荒川線”と改稱されて再出發、現在に至る。
ただし同じ都電であっても、昭和のそれと平成を経て令和のそれとはかなり趣きを異にしており、
時代の流れに即した乗り物になることが生き延びるためには必要であることを、私たちに示してゐる。
しかし荒川線の新型車両には、現在も“チンチン電車”の語源である發車ベルが取り付けられており、それが私には一番嬉しい。
かつては交通渋滞の元凶として目の敵にされた路面電車も、現在では“環境に優しい乗り物”と再評価されて久しい。
来年には野州宇都宮に、新規に路面電車が開業すると云ふ。
東京での復活は諸事情から難しいだらうが、
しかしあらゆる乗り物が電化されたら、ある意味で往年の都電はガソリンとエンジンに“勝利”した、と云へるかもしれない。