タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2022-03-05 (Sat) 16:23

函館本線石谷駅 ホタテ漁場・蛯谷漁港と「鯡供養塔」

石谷駅a01

渡島管内は茅部郡森町本茅部町にある、JR北海道の石谷(いしや)駅。
森町の中心街から約5.8km北西の海沿いに置かれた駅です。
住所は「本茅部町」ですが実際には町域の東端にあり、駅の至近には蝦谷漁港を構える蝦谷町(えびやちょう)があります。
噴火湾の沿岸はホタテの養殖漁業が盛んで、蝦谷漁港の漁師達も例に漏れずホタテ漁に勤しんでいます。

蝦谷という地名はアイヌ語の「エ・ピ・ヤ・コタン」に由来し、和訳すると「小石がある岸の村」です。
漢字に現すと「蛯谷古丹」。
江戸時代はアイヌと松前藩の和人が共生する小集落で、1876年に蝦谷村と改称。
更に1902年、石倉・蝦谷・鷲ノ木・森・尾白内・宿野辺の6村が合併し森村となり、1921年に町制を施行して現在の森町となった訳です。
また、かつては蝦谷を指して「クッタラ・ナイ」とも呼んだといい、その意味は「虎杖(イタドリ)の群生する沢」となります。
蝦谷漁港の南には蝦谷川という小川が噴火湾に注いでおり、川の下流一帯に虎杖が繁茂していたそうな。


JR北海道 国鉄 JR貨物 木造駅舎
石谷駅a05

石谷駅の歴史を辿ると、1921年に沿線住民達が起こした請願運動まで遡る事が出来ます。
濁川・本茅部・蝦谷の住民達は国鉄に対し、函館本線森~石倉間の中間に駅を新設するよう求めてきました。
しかし1928年11月には新駅を蛯谷・本茅部の中間に誘致するか、或いはそこから北西の下濁川に誘致するかで住民達が対立する事態になりました。
森町役場が発行した書籍『森町史』(1980)の記述を引用しましょう。

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 大正10年(1921)濁川・本茅部・蝦谷の住民が一丸となって、森・石倉間約8マイル(12.9キロメートル)に停車場新設の請願運動が展開されていた。大正12年3月にいたっても実現をみていなかったので、新設運動がふたたび盛り上がったが、新設停車場は森から約4マイル(6.4キロメートル)の蝦谷がもっともよいという声が高まった。
 昭和3年11月には、函館本線森・石倉両駅間に中間駅設置問題が再燃した。蝦谷住民80戸は鷲ノ木住民60戸とともに、函館基点から34マイル70チェーン(56.12キロメートル)の箇所で、蝦谷と本茅部の中間に停車場の設置を請願した。
 他方、下濁川(現石倉町)の十数戸と本茅部の一部の住民と上濁川(現濁川)の住民が一丸となって、石倉駅を離れること一里(4キロメートル)の下濁川に駅新設を請願した。
 鉄道当局では両出願地に対して精密な経済調査を行い、石倉駅の現在貨物出荷物統計を参考にしながら、公益上の見地と経費の多寡からもっとも理想に近い個所に設置することになった。上濁川地区の住民は下濁川に駅を設置するよう、住民三百余名の連署をもって出願し、設置を期していたが、当時の現況は、上濁川地区の200町歩余の水田から収穫される米のほとんどは近郊の町村で消費されて雑穀の出回りも少なくなっていた。蝦谷・本茅部・石倉地区の水産物の移出も減少をみていたが、わずかに林産物で面目を維持していたという。しかし蝦谷・本茅部地区の水産物はことごとく鉄道便で移出されており、濁川温泉への往復は下濁川よりも近距離の里道があり、多少の道路修理で通行が可能だといわれた。
 一方、石倉地区や落部村の茂無部地区の住民にとっては、万が一、下濁川駅が実現したならば、石倉からの出荷は水産物のみとなり事実上半減するばかりか、停車場の距離があまりにも近いから、結局、収支がともなわなくなり廃止を余儀なくされると、下濁川駅実現に反対していた。
 こうして波乱を呼んだ森・石倉間の新停車場設置は、鉄道の立場、運転上からみても必要となり、昭和3年12月に札幌鉄道局三浦保線課長と白石函館保線所長らが視察、現地調査をした。その結果、昭和4年度の予算に新駅設置の予算を計上することに決定したというが、新駅設置の候補地は下濁川・蝦谷の2ヶ所で、下濁川設置については地区住民をはじめ森町会議員も一致で請願しており、最も有力といわれる一方、蝦谷は鉄道の運転系統からみて石倉・森間の中間に位置して好条件であり、地区住民が大正10年以来熱心に請願してきた。国鉄としてはいずれに決定しても問題が起きるので、決定は鉄道省が行うこととし、具体的になるのははやくて昭和4年6、7月頃になるものとみられていた。

《出典》
森町(1980)『森町史』p.p.628,629
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石谷駅a03

請願運動を受けて国鉄当局は沿線の調査を実施。
最終的に鉄道の運行上、都合が良い本茅部・蝦谷の中間に信号場を開設する事としました。
そして1930年3月20日、石谷信号場が開設される運びとなった訳です。
地元には1日30~40人の乗降希望者がいたため、国鉄は1931年5月11日に石谷信号場で旅客の便宜乗降を承認しています。
再び『森町史』の記述を引用しましょう。

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 昭和4年6月に本郷(現渡島大野)と軍川(現大沼)間、石倉・森間に信号場を1ヶ所新設して、貨物列車の運転を緩和する方針で計画を進められ、信号場設置の個所は極秘となっていたが、森・石倉間に信号場か仮り駅が設置されることは確実視されていた。
 昭和4年10月、森・石倉間に蝦谷信号場の設置が決定し、函館市の竹内組が工事を請負った。
 一方、多年、蛯谷村と競願してきた濁川としては、蝦谷信号場の設置に一時は失望したが、本道においても7.8マイル(12.6キロメートル)も隔てた間に停車場のないところは1ヶ所もないことから、停車場さえ実現すれば目的が達成されたことになるので、濁川も蝦谷も協力して、今後は一日も早く停車場へ昇格するよう歩調を合わせるべきであるという考え方もあった。
 また、蝦谷信号場設置工事進行中の同年11月には、駅名を茅部信号場とされたいと陳情する一幕もあったが、昭和5年3月20日、石谷信号場として設置された。6年5月頃の石谷信号場には、混合上り1列車と下り2列車の立ち寄りが行なわれており、1日3、40人の乗降希望者があったから、鉄道当局は承認のうえ、旅客の便宜乗降を取り扱う運びになり、5月11日から貨物取り扱いに加えて乗降客を取り扱うようになった。

《出典》
森町(1980)『森町史』p.p.629,630
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ところで引用文には石谷信号場が当初「蝦谷信号場」という名称になる予定だったが、沿線からは「茅部信号場」に変えてほしいとの陳情があったと書かれています。
「茅部信号場にしてくれ」と声を上げたのは蝦谷の住民ではなく、隣接する本茅部の住民だと考えられます。
それで国鉄当局は多少の配慮をして「石谷信号場」と名付けたのですが、実は現地に「石谷」という地名は存在しません。
本茅部は下濁川駅構想が白紙になった濁川と同様、6村の合併前は石倉村に属していたそうです。
そこで石倉村の「石」と、蛯谷村の「谷」を取って「石谷」という名称を造ったという事らしいですね。


駅名標
石谷駅a28

地元では列車の乗降客数、水産物の出荷量がみるみる増加。
1934年度には年間乗降客数が3万人、水産物の年間生産高が50万円を数えるようになり、石谷信号場の一般駅昇格を望む声が相次ぎました。
そして1946年4月1日、遂に一般駅に昇格。
小荷物フロント、貨物フロントが開設され、水産物を貨物列車で発送できるようになりました。

1959年6月、函館本線森~石倉間が自動信号化された事に伴い、従来のタブレット閉塞が廃止。
石谷駅におけるタブレット交換も終了しました。

当時は高度経済成長期の真っ只中でしたが蝦谷の漁業は伸び悩んでしまったそうで、1960年5月25日に早くも貨物フロントが廃止。
一般駅から旅客駅に転じる事となりました。



石谷駅の職制〈1973年4月〉

1971年9月21日、函館本線桂川~石谷間が複線化。
1974年10月31日には石谷~本石倉間も複線化し、石谷駅の前後が複線区間となりました。

国鉄は1984年2月1日ダイヤ改正において、ヤード系集結輸送から拠点間直行輸送への一大転換を実施。
これに伴い全国各地の小駅で小荷物フロントを一斉に廃止する事となり、石谷駅も例に漏れず小荷物扱いを終了しました。
石谷駅のフロント業務は出改札のみとなりましたが、これも1986年11月1日ダイヤ改正に伴い廃止され、完全無人駅となりました。


駅名板 駅名看板 いしや
石谷駅a16

1987年4月1日、分割民営化に伴いJR北海道が石谷駅を継承。

2021年1月27日には駅から約900m南東にある亀吉道路踏切で、クロネコヤマトのトラックが20両編成の貨物列車(隅田川始発・札幌行き3059レ)に衝突する事故が発生しました。
この事故でヤマト運輸㈱のドライバー(当時51歳)がケガを負って病院に運ばれましたが、幸いにも命に別条は無かったとの事です。
貨物列車の運転士も無事でした。
函館本線森~長万部間は事故の影響で上下線ともに運転を見合わせ、当日17:30に運転再開となりました。

2021年12月17日、JR北海道は自社公式サイトにて「2022年3月ダイヤ改正について」と題したプレスリリースを公開。
その中で利用者の少ない7駅の廃止を告知しており、石谷駅の廃止も確定しました。
2022年3月12日、ダイヤ改正と共に石谷駅は廃止される事となります。
ただし石谷駅では特急列車を先行させるために普通列車の待避を行なう事があるので、ダイヤ改正後も信号場として残る可能性が考えられます。



石谷駅a05

現在の石谷駅は函館駅を拠点駅とする函館地区駅(担当区域:函館本線函館~石倉間、砂原支線全区間)に属し、地区駅長配下の管理駅である森駅が管轄する完全無人駅です。
普通列車のみ発着し、特急・貨物列車は全て通過します。
駅舎は信号場として開業した当初から健在の木造建築です。
かつては下見張りとモルタルを組み合わせた外装でしたが、後年に板の部分を羽目張りに直しています。

国鉄時代は駅構内に「八雲保線区森保線支区石谷検査班」が置かれていました。
検査班というのは軌道検査長・軌道検査掛の2~5名で組織し、軌道換算キロ15kmおきに1班ずつ配置した班の事で、線路の点検と検査データの記録、支区長への検査報告を担当しました。
その検査報告を基に保線支区の計画担当(計画助役・技術掛)が工事計画を策定し、作業助役を通じて概ね40名前後の作業班(保線指導掛・保線機械掛・軌道作業長・軌道掛)に軌道補修工事をさせた訳ですね。
なお、軌道補修工事は本区事務室の線路助役を通じ、国鉄部外の建設会社に発注する事もありました。



石谷駅a04

駅の真ん前には函館バスの石谷駅前停留所があります。
駅舎手前に置かれた下り(八雲・長万部方面)のバス停はともかく、上り(森・函館方面)のバス停は狭い路肩に置かれています。
しかも背後は海岸まで崖になっているので逃げ場がありません。
バス停が置かれた国道5号線はクルマがハイスピードで行き交うので、その路肩でバスを待つのは相当危険だと思います。



石谷駅a08
木造駅舎 待合室
石谷駅a06
木造駅舎 待合室
石谷駅a09
木造駅舎 待合室
石谷駅a07

待合室の様子。
壁に張られたベニヤ板をよく見ると「太→中→中→細」の順で4枚1組とし、規則的に並べているのが分かります。


木造駅舎 待合室 出札窓口 手小荷物窓口
石谷駅a10

出札窓口と手小荷物窓口。
板で塞がれていますが出札棚・チッキ台ともに健在で、海岸に向かって少し傾いていますね。
出札棚の上には近隣住民が飾りつけた花瓶と駅ノートが置かれています。



石谷駅a17

石谷駅a18

ホーム側から木造駅舎を眺めた様子。



石谷駅a12

改札口とプラットホームを結ぶ階段。
注意喚起のトラ模様が付いています。



石谷駅a11

改札口と並んで設けられた駅事務室の玄関。
引き戸は網戸とアルミサッシの二重構造です。


石谷駅事務室 運転事務室 運転取扱業務
石谷駅a14

駅事務室には駅構内を見渡せるよう、出っ張った大窓を設けています。
国鉄時代の駅舎によく見られる構造ですね。
とはいえ事務室の位置がホームよりも低いので、見晴らしはそれほど良くも無いでしょうね。
タブレット閉塞を運用していた頃は、この大窓の傍にタブレット閉塞器を設置していました。
鉄道電話機も大窓の手前にあり、運転取扱業務を担った当務駅長(助役・予備助役・運転掛を含む)の面影を感じられます。
写真右側の引き戸は宿直室の玄関ですね。



石谷駅a13

駅事務室からプラットホームに上がる階段もあります。
こちらも改札口側の階段と同様、注意喚起のトラ模様が付いています。



石谷駅a15

大窓から駅事務室を覗くと、壁に手書きの緊急連絡網と作業内規が貼られています。
「要注列車要注作業の取扱方」と題した作業内規には「61.3.3」と日付が書かれていますね。

緊急連絡網には関係各所の電話番号を列記しています。
国鉄関係は局番号を除いた4桁の鉄道電話番号、部外は市外局番を抜いた5桁のNTT電話番号です。
中央には駅員4名の姓が書かれているほか、左右の連絡箇所欄を見ると「函車万支区」「万転区」「函館保線区森管理室」「長万部保線区落部管理室」「長万部保線区八雲管理室」「森電気区」といった名称が書かれています。

「函車万支区」は1984年2月1日に長万部車掌区を縮小改組した「函館車掌区長万部支区」の略称ですね。
「万転区」は1985年3月14日に長万部機関区と五稜郭貨車区長万部支区を統合し発足した「長万部運転区」の略称です。
各保線区の管理室は1985年8月1日の機構改革により、保線支区を縮小改組した「保線管理室」ですね。
函館保線区森管理室の前身は八雲保線区森保線支区、長万部保線区落部管理室の前身は八雲保線区落部保線支区、長万部保線区八雲管理室の前身は八雲保線区八雲保線支区です。
「森電気区」は同時期に実施された電気関係区所の合理化により、函館電気区から森電気支区(電力・通信の保全を担当)、森信号支区(信号の保全を担当)を切り離し発足した現業機関です。

以上の事から作業内規の「61.3.3」とは「1986(昭和61)年3月3日」を指しており、緊急連絡網も国鉄末期に作成された物だと分かります。
なお、緊急連絡先の右下には「皆口組」「河野組」という名前が書かれていますが、これらは国鉄から軌道補修工事や建築補修工事などを受注していた建設会社かも知れません。



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石谷駅a19

石谷駅a21

石谷駅a22

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を組み合わせた、いわゆる「国鉄型配線」。
駅舎側の単式ホームが1番線で上り列車(森・大沼・函館方面)が発着します。
島式ホームは内側の線路が2番線で、普通列車が特急の追い抜きを待ち合わせる時に使う待避線です。
外側の3番線は下り列車(八雲・長万部方面)が発着します。



石谷駅a23

両ホームを繋ぐ構内踏切。
警報機・遮断機を備えています。



石谷駅a24

なお、1番線の構内踏切手前をよく見ると・・・



石谷駅a26

・・・ホームの床面に黄色い足跡マークが付いています。
風雨に晒され塗料の剥がれが進行していますね。



石谷駅a25

近くには1番線ホームと駅事務室を繋ぐ階段もあります。
この足跡マークは国鉄時代、当務駅長がホーム上で列車扱いをする際の立ち位置にマーキングした物です。
同様の足跡マークは日高本線勇払駅にも残っていますね。



石谷駅a27

2番線を出発するキハ40-1806。



石谷駅a29

駅舎の東隣にはガラス張りの廟みたいな建物があります。



石谷駅a30

中には石碑が納まっています。
この石碑は北海道指定有形文化財に登録されている「茅部の鯡供養塔」です。
江戸時代の宝暦年間、蝦谷古丹を含む茅部の一帯はニシンの豊漁地として有名になりました。
当時は地元漁民の他にも、箱館・亀田・上磯などから多数のヤン衆が来てニシン漁場が大盛況。
特に1757(宝暦7)年の春ニシンは大豊漁で、浜辺にはニシンの山が築かれたと伝わっています。
しかし当時は加工製造技術が未熟で、漁獲したニシンの大半は処理できず放置されてしまいました。
これを見かねた佐藤彦左衛門が漁師達と合議し、放置されたニシンの群れを土中に埋めて塚とし、供養塔を立てて慰霊法要を行ないました。

その後、蝦谷はニシンの盛漁地として大成しましたが、明治以後は次第に漁獲量が減少。
往時の面影はすっかり消えてしまいましたが、鯡供養塔は漁業史上最も重要な「ニシンのみを祀る供養塔」である事から世間の関心が高まりました。
そして石谷信号場が開業した直後の1930年6月22日、鯡供養塔が史跡保存法により仮指定となりました。
更に1963年12月24日、北海道有形文化財の指定を受け、自治体によって永久保存管理されるに至ったのです。
石谷駅の廃止まで残り12日。
訪問のついでに鯡供養塔を参拝し、蝦谷の歴史に触れてみては如何でしょうか?


※写真は全て2019年4月30日撮影
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最終更新日 : 2022-03-06

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