本多静六記念館 | 国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園鉄道の探索 ~記憶に残る景勝区間~

国立公園内を走る鉄道の紹介と風景の発見
車窓から眺めて「これはいい」と感じた風景の散策記

テーマ:

[ 国立公園鉄道の探索 ]

本多静六記念館

 

「日本の公園の父」と言われ、我が国の国立公園成立に多大な貢献をされた林学博士・本多静六氏の記念館を訪ねました。

 

 

 

 

 

 

 

「本多静六記念館」は、埼玉県久喜市菖蒲総合庁舎の5階にあります。

 

本多静六氏(1866~1952)は、現在は久喜市に編入された菖蒲町河原井の出身です。

 

東京帝国大学農科大学の前身・東京山林学校に入学の後、ドイツに留学、ミュンヘン大学で国家経済博士の学位を取得、さらに1899年には日本で最初の林学博士の学位を取得されました。

 

帰国後の活動は、単に林学に留まらず多岐に及び、現在の環境デザイナーの先駆けとなる仕事も手掛けます。

そして、日本各地の公園設立や各地の自然条件を活用した地域振興策を提言して、現在の造園学も礎も築きました。

 

さらに晩年には、日本の国立公園設立にも大きな関わりを持つことになります。

 

 

 

 

 

 

 

菖蒲総合庁舎に入り、エレベーターで5階に移動します。

 

 

 

5階の廊下には、本多博士が携わった各地のポスターも掲げられています。

 

 

 

 

記念館に入室すると、まず正面中央に「公園設計に関する業績」に関する展示が目に入ります。

 

「公園設計に関する業績」を中心にして周囲には、左回りで

「生い立ち」 「ドイツへの留学」  「林学者としての業績」 

 「人生哲学と社会貢献」 「菖蒲地区の歴史と暮らし」  「情報コーナー」 の各展示がなされています。

 

 

 

「生い立ち」から「ドイツ留学」に至るコーナーでは、幼くして父を亡くし、苦学した後に本多家の婿養子となり、大学へ進学、そしてドイツに留学するまでの過程が記されています。

 

 

 

 

 

 

 

留学生活の記録、そしてターラント高等山林学校での勉学、ミュンヘン大学で学位取得に至る経緯が記載されたコーナーです。

 

 

 

 

 

「林学者としての業績」のコーナー、すぐ下には東北本線・野辺地駅の防雪林の模型の展示もあります。

 

ドイツ留学からの帰国後、同郷の渋沢栄一氏が開催した歓迎会の席上で、本多静六氏は鉄道防雪林の創設を提案します。当時、日本鉄道の役員で、冬季の雪害対策を迫られていた渋沢氏は「この提言は実用性がある」と判断して、早速防雪林事業は進められることになりました。

 

 

 

 

本多氏の鉄道防雪林への愛情は生涯続きました。

本多静六氏のひ孫にあたる遠山益氏は、著作「本多静六 日本の森林を育てた人」の中で次のように記しています。

「第二次大戦後、国鉄では財源の補充に困りその対策として防雪林の払い下げを企画した。この計画がラジオ放送されるや、本多は直ちにときの運輸大臣 小沢佐重喜(小沢一郎の父)のもとに書簡を送ってその暴挙を戒め、取り止めを求めた。これに対して当局からはそのような意図はないと伝えられた」

 

 

 

 

林学者の仕事の中で、この「森林づくり」は中核となる業績です。

 

江戸末期から、明治時代にかけて、日本各地の山は乱伐、災害などで荒廃しており、近代国家の基盤を安定させるためには、森林再生は必要不可欠な事業でした。

 

乱伐で荒廃した多摩川上流の東京の水源林の再生も、銅生産による煙害ではげ山化した足尾の山の復元も、最初に手掛けたのは本多静六氏でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

今は、鬱蒼とした樹木が生い茂る明治神宮も、それまでは練兵所として利用されるような草原でした。

明治神宮の森は、本多静六氏と、後輩の林学者・本郷高徳氏や上原敬二氏による造園計画により人工的に復元された原生林です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中央の「公園設計に関する業績」のボックスの中に入ります。

 

北海道・釧路の春採公園から鹿児島の「霧島錦江湾国立公園」に至るまで、全国80か所の公園の設計に携わった業績が展示されています。

 

因みにこの他の地域でも例えば、ここでの展示はありませんが樺太の森林事業も手掛けられたようです。そちらの方の森は、ソ連時代に人民の資源としてすべて伐採された、という話も聞いたことがあります。

 

 

さて、全国でたくさんの公園設立事業に携わった本多静六氏は、1927(昭和2)年には、氏が60歳の時ですが、国立公園協会の副会長に就任されます。1930(昭和5)年には国立公園調査会の委員となります。

 

国土の再生、復元、そして風景の創出、という事業を手掛けてこられた本多静六氏が我が国の国立公園創設に携わったことにより、その後の日本の国立公園運営は一つの方向性が示されていくことになります。

 

後年、「日本の国立公園は造園技術者たちによって運営されてきた」と批判めいた指摘を受けることにもなります。

これは、元来「国立公園の目的は保存であって造成ではない」という原理主義的な意見も根強くみられたからです。

 

そもそも、国立公園とは、自然自体が作り出す類まれな美観や現象がみられる壮大な地域で、人間が行うことといえば、そこに至る鉄道や道路を建設したり、国立公園内を探索する小径や展望所、宿泊施設を整備するに限られる、というものでした。

 

しかし、我が国の場合は、古来人為が及ぶ自然が多く、殊に幕末から明治期にかけては各地で森林が荒廃して原生自然地帯は高山などに僅かに残されている、という状況でしたから、設立当初から「再生、復元、風景の創出」という事業は不可欠であったものと思われます。

 

例えば、戦後指定された「秩父多摩国立公園」(現在の秩父多摩甲斐国立公園)の多摩川上流地帯などは、本多静六氏が開始した水源林再生事業が行われる以前は、皆伐されはげ山のような状態で、復元された後美林として蘇った森です。

復元事業がなければ、多摩川上流部は国立公園指定区域から外されていたはずです。

 

本多静六氏は、ある地域の風景計画講演の折

「樹木の移植も人間が植えたと解るようなことは避け、自然に生えたように工夫することが大切です」と述べています。

 

今、全国の再生された森が織りなす風景地で

「こんなに美しい森が、荒らされることなく残されていたんだ」と感じることがあったら、それはまさに本多静六氏が意図していたことが実現されている、ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会貢献のコーナーでは人生哲学も語られています。

 

この中でも

「人生の最大の幸福は職業の道楽化にある」

これは、凄い言葉ですね。

 

ここには書いてありませんが、本多静六氏の著作の中には、本業の林学や造園学だけではなく、「自分を生かす人生」などの人生哲学の本もたくさんみられます。

 

氏はそうした著書の中で様々な先達の言葉も引用しておられます。その中で興味深いのは、

 

「予は仕事に追われず仕事を追いかけ、常に仕事を完全に統御して、仕事の奴隷にならぬように努めている。・・・・・」

(プーカ―・ワシントン)

 

「汝の仕事を追え。そうでなければ仕事が汝を追うであろう」

(フランクリン)

 

仕事に追われるな、仕事を追え、 というスタンスですね。

 

経験上、我が国の組織でこの流儀で仕事をすると周囲と軋轢を生む、ということも事実です。

それでも、貫き通せば「職業の道楽化」への道は開ける、ということになりましょうか。

 

生涯の課題として考えたいと思います。

 

 

 

地元菖蒲町を紹介するコーナーもあります。

この上には展望台もありますので、次回は菖蒲町の風景など眺めてみたいと思います。