『レイルマガジン』誌が刊行形態を変更するという。定期刊行をやめ、不定期のムックのようになるらしい。休刊と言わず刊行形態変更と称するあたり、やめるにやめれない役所臭さが漂う。

 

1983年の暮れのある日、書店で鉄道趣味誌を立ち読みしようと棚に目をやると見慣れない雑誌があった。表紙はED75三重連。思わず手に取ってみると、いきなりED75とDD51の三重連のカラーグラフとドライブガイドと銘打ったその撮影ガイド。さらにページをめくっていくとEF58・EF15のガイドや現役トロッコ(軽便鉄道)の写真などなど。目が点になりながらも、これはとんでもない雑誌が現れたものだと驚いた。ひとことでいうと、線路端の鉄チャン目線で編集された雑誌というのが第一印象で、既存の雑誌とは一線を画していた。年が明けてすぐに北海道に撮影に出かけたのだが、そこで出会った鉄チャンの間でもしばしば本誌のことが話題になり、その後の展開に大いに期待した。

写真の扱いなどは同年春に休刊となった『レールガイ』誌に酷似していた。この雑誌、キセルをしながらの紀行文を載せてしまったことが国鉄の怒りをかって荷物輸送の特別扱承認を取り消され、あえなく休刊の憂き目にあった(らしい)。しかし、写真の扱いは確かで、狩勝新線の大俯瞰撮影の写真を掲載するなど鉄チャンに軸足を置いた編集方針のように思われた。それだけに休刊をとても残念に思ったものだ。創刊された『レイルマガジン』の編集スタッフの顔ぶれをみると『レールガイ』の関係者もいるようで、どうりでと合点がいった。

『レイルマガジン』で僕が最も印象深く残っているのは、NO.41(1987年5月号)の『さらば「国鉄」』と題する34人の寄稿記事の冒頭に添えられた文章だ。多くの鉄道ファン、国鉄ファンの心情をかくも的確に表現した文章に感激した。やはり同誌は線路端の鉄チャンのための雑誌との思いを強くした。

↓レイルマガジンNO.41。なぜ34人という中途半端な数なのか。国鉄全盛期のプロ野球•国鉄スワローズのエース金田正一の背番号にちなんで34人としたのではないかと思う。

また、かつては年に1回保存蒸機の特集があり、そこに掲載された素晴らしい写真の数々をため息まじりに鑑賞したものだ。廣田尚敬プロがまるまる編集を担当した号もあって、ものすごく刺激を受けたりもした。

 

他の鉄道趣味誌の定期購読をやめた後も、本誌だけは創刊号から欠かさず購読してきた。それが線路端の鉄チャンの矜持という意識もあった。それなのに2009年5月号を最後に購読をやめた。活字離れということが言われて久しいが、近年は隔月刊になるなど厳しい状況だったのだろうと推察する。

定期刊行最後となる最新号を流し読みしたが、往時のレイルマガジンらしいグラフィック誌としての特徴がなくなってしまっていて、判型以外他誌と区別がつかず残念な思いを禁じ得なかった。

若い頃レイルマガジン誌から大いに影響を受けた身の僕としては、お世話になりました、お疲れさまでしたと申し上げたい。