2003(平成15)年のGW、新大阪から西鹿児島まで「なは」のレガートシートに乗りとおしました。
レガートシートを選択したのは、見たことも乗ったことも無い、大阪から九州を目指した夜行急行の面影を辿りたかったからです。
関西-九州ブルートレインのトップは、西鹿児島行の「なは」。
2003.4.29 新大阪
1973(昭和48)年10月の時刻表を繰ると、関西-九州間夜行列車のトップは大阪15:05発の急行「屋久島1号」でした。
「よみがえる『なは』の旅路」と言え、銀塩カメラの時代故夜間の写真がほぼありません。
新大阪-下関間はEF65 1136が先頭でした。
レガートシートの指定券は割と直前に手に入れましたが、座席番号が4番とは寂しい現実でした。
指定席は3番から発売されますね。
この時は「周遊きっぷ」の九州ゾーンを使いましたが、出発直前に買いにくく、短い有効日数など使いにくいきっぷでした。
多くの乗り鉄を育てた「ワイド・ミニ周遊券」よ、もう一度と思わずにいられません。
オハ24 303に乗車した「なは」指定券と、「周遊きっぷ」ゆき券・九州ゾーン券
オハ24 303のリクライニング角度はとても深かったですが、座り心地が固く熟睡出来ませんでした。
バケットシートで体がホールドされて姿勢を変えられなかったのも一因ですが、往年の旧型客車はリクライニングすらしなかったので、贅沢を言ってはいけません。
岡山を過ぎてから窓の外は雨、停車駅の尾道では風情を感じました。
車内は5~6人いたかどうか、鉄道ファンの裾野が広がった今だったらどうでしょう。
4:17分頃、運転停車の下関では懐かしいEF81のブロワー音が微かに聞こえました。
当時下り「さくら」「なは」の2本はJR貨物門司機関区持ちで、EF81 300or450番台の登板があるか気になりましたが、下関・門司共に運転停車では確認しようがありませんでした。
実感で一番乗客が多かったのは、夜が明けた博多-熊本間でしたが、10人くらい。
満足に眠れず、熊本での付属編成解放を見るのもだるくて車外へ出なかったことは、後悔しています。
それでも有明海・天草灘の車窓は、日本海を見慣れた私には新鮮でした。
ヤシの木が普通に生えている光景は、南国に来たなと実感します。
熊本県に入ってから、墓地に出征兵士の像を多く見かけました。
南九州から相当召集されたのでしょうか。
「お前の頭はいつまで国鉄時代なのか」と言われそうですが、「鹿児島中央」より「西鹿児島」の方が、今もピンと来ます。
31レ 特急客 なは
ED76 61[大]+25形客車[鹿カコ]
2003.4.30 西鹿児島(当時)
最後尾のオハネフ25 2209は、新天地が見つかって良かったですね。
碓氷峠鉄道文化むらのEF58 172は宮原機関区、オハネ12 29は竹下客車区配置※1
当時大阪-佐世保間の急行「西海2・1号」の1~4号車、新大阪・大阪-博多間の急行「つくし2号」の1~10号車は竹下客車区持ちでした。※2
機関車運用はわかりませんが、EF58 172がオハネ12 29を牽引する機会は何度かあったのでは、と思います。
2016.6.12 碓氷峠鉄道文化むら
「頑固な国鉄脳」と言われても、やはり「西鹿児島」ですよ…
2003.4.30
鹿児島本線が分断される前に、往年の急行「屋久島」の面影を辿ることが出来て、悔いを残さずに済んだ旅でした。
※1「鉄道ピクトリアル」アーカイブスセレクション8 国鉄ダイヤ改正 特急大増発時代1970(2005年5月刊)に収められた1973年版 国鉄車両配置表(昭和48年3月31日現在)による。
※2「鉄道ピクトリアル」2020年1月号「思い出の客車列車」による。