残念ながら、
 索道ポスト跡は発見できませんでしたが・・・
探訪を終えて、GPSログと古い地図を照らし合わせて検証すると
 索道が通っていた場所や人道の取り付き場所が判明
 
機会があれば再度現地を訪ねてみたいです
 
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牛車道の②番目のピンカーブから
 住友共電の鉄塔巡視路を奥へと進むと
 
尾根から立川方面へ降る道に合流し
 巡視路はこのまま立川方面へと降っていきます
 
この道を逆に尾根方面へ辿ります
 
山側に土砂止めの石積みが続く立派な道で
 牛車道と似てるけど、さすがに勾配は牛車道ほど緩やかではない
 
しっかりした道を辿っていると
 道が無くなって諦めかけましたが
 
赤テープを頼りに岩を巻きつつ進んでいると再び石積みの道が蘇った
急峻な地形の為、路盤から大きく崩落してますが
 道はトラバースぎみに続いており、一旦見失っても続きは先のライン上に現れる
 
更に進むと、地図上では交差して無い林道に出てビックリ
 
 地図アプリで確認すると⑥番目のピンカーブ手前の牛車道
 
地形図上ではこの道は尾根を通っているので
 実際は100メートル近く立川側に寄っていることになります
古道は牛車道を突き抜けて真っ直ぐに続いてるびっくり
 
実際は突き抜けるというよりも
 古道が通っていたところに牛車道が後から作られたようにみえる
 
もし、辿って来た古道の方が牛車道より新しく作られたのなら
 ここから先は牛車道の⑥番目のピンカーブを経由し
 
c地点までは牛車道を利用すれば済むので
 この先、b地点までの道は作る必要が無かった様に思う
こういうのがリアルタイムで判るのは
 なんといっても地図アプリ、ジオグラフィカのおかげですね~
 
地図とコンパスだけで辿っていると
 今回のように地形図が現状と異なってたら・・・
 
今いる場所が牛車道のどの辺りかなんて
 瞬時に判断するのは、私にはムリムリ(;・∀・)
 
牛車道⑥番目のピンカーブはすぐ近くなので歩いて確認しておきます
 
龍河神社方面から石ヶ山丈の尾根ルートを目指すのなら
 この古道が最短ルートと思われるけど
 
a-c地点は牛車道を利用すればいいね
 

a地点で牛車道を突き抜けてb地点で牛車道に復帰

 ここから牛車道と古道は重複して牛車道を進み、

 

c地点の分岐で尾根側へ左折します

このまま、まっすぐ行くと尾根に出てしまうので

 途中のd地点で右に折れると

 

道幅の広い石積みの道が続いており

 これを辿っていくと尾根上の牛車道分岐に出た

 

c地点から牛車道分岐までの立派な古道を進みます

 

牛車道分岐で尾根に至ります
 
この日の探訪では、古道はここで終わってるのかと思ってましたが
 帰ってから調べると、牛車道を跨いで更に山側へと続いてるらしい
そこで、5月9日に魔戸の滝から兜岩を訪れた復路で確認すると
 間違いなく古道は牛車道を越えて更に山側へと続いてた↓
 
時刻は14時00分
 現在地は標高572mの尾根上にある牛車道分岐です
 
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明治後期の地図を読むと・・・
 牛車道と旧端出場水力発電所の導水路が並走する辺りで
 
石ヶ山丈駅-打除駅間の人道と合流して石ヶ山丈駅付近に登っているように見える
 
もちろん、牛車道も、導水路も、人道も、
 古道が作られた当時に無かった事は言うまでもありませんが・・・
 
この古道は、ここまでのルートとしっかりした道の作りから
 別子開坑二百五十年史話にある雲ヶ原越えの第二次仲持道(泉屋道)のように思えて仕方が無い
 

別子銅山沿革、鳥瞰図  別子開坑二百五十年史話

 

同書においては
 1702(元禄15)年~1749(寛延2)年までの47年間使用された事になっていますが
 
先日、三島図書館で読んだ伊藤玉男さんの「あかがねの峰」によると
 仲持道としては使用されなかったと書かれてました
 
史話によると(139頁)、
 西条藩が立川銅山を稼業していた元禄15年(1702年)
 「三月以降、幕命を以て西条藩より開設を差許された新道路は、前年に出願せる路線(種子川道の設計)に若干の変更を加え、西赤石、上兜の両山の間を縫へる樵徑を取りひろげて、西赤石の山腹を回って石ヶ山丈(文書に謂はゆる石ヶ休場)に出で、そこより立川山村渡瀬へ下り、新居濵浦に到るもので、此の年八月には渡瀬(舊眼鏡橋の袂)に中宿を設け、新居濵に口屋(宿濱)を建てた。」

とあります

 

別子と立川両銅山が合併したのは1749(寛延2)年で

 これより銅山越を越えて馬の背、セリ割、落としを通る第三次仲持道(泉屋道)となりますが

 

伊藤玉男氏の考察によると

 既に合併前に第三次仲持道のルートが当時の絵図に描かれており

 

雲ヶ原を越えるルートは使用されなかったというのである

 

 

正解はこうだとは断言できないけど

 ここまで辿って来た古道はただの道では無いと感じました

 

オーラが出てたよぉ~

 

別子銅山周辺には炭の道とか

 石積みを伴った道が他にも色々と張り巡らされているみたいだけど・・・

(稼業が長期になると、坑木や薪、木炭の生産、運搬の距離が遠くなり、山中で行われた精錬作業では亜硫酸ガスによって銅山周辺の山は禿げ上がる。この為遠くから坑木や炭、薪を運んでこなければならなかった)

 

わたし的には幻の第二次泉屋道(仲持道)という事で

 ルートをこの様に想像しました↓

牛車道分岐から先の古道は未調査なので判りませんが

 

ほぼ同じ経路を辿ると思われる種子川造林道を

 5月9日に歩きましたが

 

岩屋の石鐙は史話の写真どおりに昭和初期のまま現存しましたが

 320年前の泉屋道らしき痕跡は発見できませんでした

 

第二次仲持道として47年間使用されたという説キラキラ

 

既に西条藩による立川銅山稼業時から

 第三次仲持道(泉屋道)が立川銅山内を通っており

 

第二次仲持道は泉屋道としては使用されなかったという説キラキラ

 

はっきりとした証拠史料は今のところありませんが

 住友史料館の未公開の史料の中には

 

その謎を解く鍵が今も眠っているのかも知れません

 

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さてさて

  時刻は14時になりました

 

そろそろ折り返します

 

d地点を左へ
 右へ行くと尾根ルートで、生子山(エントツ山)まで縦走できます
(途中に犬返しの剣が待ち受けてますが、ロープ等整備されています)
c地点で牛車道に合流し、b地点までは牛車道を進みます
 
おそらく、わざに此処から古道に分け入る人は居ないと思われ
 見落としやすいb地点にも拘わらず赤テープは無かったです
 
牛車道の⑥番目のピンカーブをショートカットって感じで
 山側には石積みが続いてる
 
a地点で牛車道を横切りますが
 こちらは、分かり易い様に赤テープが入口に巻かれてた
 
この古道を利用する人もa-b間は牛車道を利用してるみたい
 

この辺りは山側の傾斜がかなりきつく

 斜面一杯に土砂が流れ落ちてる

 

そして崩落地を越えます

大きく崩落してるので一瞬ルートを見失っても
 足元の路盤が真っ直ぐ続いてると想定した先に続きの路盤が現れます

 

なんだろう?境界だろうか・・・

 何て漢字だろう、枡かな?

 

ザレ気味の古道
 
竹藪を越えて 
 
牛車道②番目のピンカーブへの分岐(標高460m)まで降りて来ました
 
何故かここから先は土砂止めの石積みがありません
 

龍河神社、犬返しへ続く道と古道が交差する四差路

2年前からの課題だった
 「この四差路からの種子川山三角点方向へ続く道がいったいどうなっているのか」
 
確認した結果は地形図とは異なって
 牛車道を突き抜けて牛車道分岐へと続いてた
 
探索結果からこの道は
 1880(明治13)年に完成した牛車道よりも古く
 
1702(元禄15)年に作られたと記録にある第二次泉屋道かも知れない
 と想像を膨らませることが出来ましたウインク
分岐のすぐ山側には住友共電の鉄塔が建っており
 さらに進むと四国電力西条線19番鉄塔があり、尾根上にも20番鉄塔があります
(2019年にエスケープルートとして利用しました)
 
来た道から真っ直ぐに降ると立川中宿方面へ向かいますが
 当初は通行困難と聞いてたので今回は辿りませんでしたが
 
この道が古道の続きのようなので
 一度辿ってみなければなりませんねw
 
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今回は左に折れて
 2019年と同じく龍河神社方面へ降ります
15時01分
龍河神社の先の電波塔まで車道として整備されている牛車道に出ました
 
前にも書きましたが、
 この辺りは植林に覆われ、一日中全く陽が射し込まない森になってます

 

歴史ある龍河神社の参道を降ります

 

参道途中から右に折れて

 立川集落の脇を降り、県道47号新居浜・別子山線へ

 

県道脇に古い吊り橋があります

 

この橋を渡った先の集落の向うには

 下部鉄道の廃線跡が通っており黒石駅跡があります

 

1905(明治38)年に開設された黒石駅は貯鉱庫や複式の機関庫を備えており

 東平から3,575mのブルイヘルト式複式高架索道が接続していた重要駅でした

 

元「中央公論」編集長で

 「時刻表2万キロ」、「最長片道切符の旅」等で知られる作家の宮脇俊三氏が

 

晩年に「鉄道廃線跡を歩く」の取材で住友別子鉱山鉄道を訪れた際に

 

バス停「新道」で車を降り、足谷川に架かる吊り橋を渡り・・・とあったので、

 

前々から宮脇氏の渡った橋を自分も渡ってみなければと思ってました(;^_^A

 

 

この吊り橋より350m程上流には

 もう一つ吊り橋があって「温泉口の吊り橋」と呼ばれてる

 

温泉口というバス停の奥にあり、

 対岸の黒石駅跡近くには温泉マークが記されてる

別子山地域バスの路線図を見ると吊り橋も含めて

 橋が架かってる場所にバス停が設けられるケースが多いみたい

 

じゃあ、

 この吊り橋の名前も「新道の吊り橋」だろうかと思っていたら

 違いましたo(*>Д<)ゝ < ザンネ-ンッ!!

 

こちらの吊り橋は「車屋橋」と呼ぶそうな

 

どのような理由かは分からないけど

 下部鉄道の廃線跡にも、近くに車屋トンネルがあるので

 

この辺りは車屋と呼ばれていたのかもしれない

車屋橋を渡り、集落を抜けて下部鉄道の廃線跡へやって来ました
この廃線跡を訪ねるのは4年振りで
 端出場まで辿って、折り返し山根収銅所まで廃線探訪をしたいと思います
 
長くなりましたが、
 最後までご覧いただきましてありがとうございました

 

では、またバイバイ

 

次回も見てね(≧▽≦)

 

 

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20. 古書「別子開坑二百五十年史話」 へ

21. 「あかがねの峰」 伊藤玉男 へ

 

追記 

今年は丑年という事で

 別子銅山の近代化に大きな役割を果たした牛車道を

 

春に4回にわたって探訪しましたが

 探訪記は今年中に最終回を迎えることが出来ずアセアセ

 

遂に年を跨ぐことになりました

 

ホントに月日の流れる早さにはビックリです

 

今年も拙いブログにお付き合い頂きましてありがとうございました

 

これに懲りずに

 また来年もよろしくお願い申し上げます

 

皆様も良いお年をお迎えください!