番外 廃止から33年、昭和58年当時の時刻表より、佐世保駅の年表にも書いてある急行「平戸」の紹介 | コウさんのコウ通大百科 PART3

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(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)


 
 長崎県佐世保市の玄関口でありますJR九州・松浦鉄道(MR)佐世保駅は、明治31年(1898年)1月の開業から、3年前に開業120周年、今年開業から123年、翌月には124年になろうとしておりまして、そんな現在の駅舎は画像1のように平成13年12月に完成しました高架駅でありまして、多くの方々がこの駅を利用されております。
 
 現在は、JR九州に関しましては783系電車・787系電車で運行されております特急「みどり」、817系電車・415系電車で運行されております佐世保線の普通列車、そして大村線に直通します画像2のYC1系気動車がそれぞれ発着しておりまして、多くの利用者の姿が見られております。
 
 それでも、今年3月まではキハ200系気動車が、6月まではキハ66・67系気動車がそれぞれ見られておりましたが、残念ながらキハ200系気動車は他の路線へ、キハ66・67系気動車は残念ながら運行終了へと至っておりまして、今年乗り入れ車両に関しまして大きな動きが見られていた事は記憶に新しいのではないかと思います。
 
 また、MRに関しましては、主力車両の以下画像のMR-600形気動車、さらに各1両が存在しますMR-400形・MR-500形各気動車がこの佐世保駅に乗り入れておりまして、北松浦半島を回る形でたびら平戸口・松浦・伊万里方面へ運行されております。
 
 尚、令和2年3月の改正までは松浦鉄道の車両もJR佐世保線に1往復乗り入れておりまして、画像左側のMR-600形気動車(MR-615)が画像の松浦鉄道ホームを経ましてJRホームであります2番ホームへと入線するようにもなっておりましたが、残念ながら乗り入れは廃止されておりまして、2番ホームへは定期列車では乗り入れる列車は見られなくなっております。
 
 
 このように、佐世保駅も動きが見られておりますが、令和2年8月には5・6番ホームが本数減もありまして使用停止となっておりまして、画像のように柵も設けられている事から直接は行かれなくなっております。
 
 そんな中で、直接見にくくなりましたのが、画像の年表であります。この年表は、平成20年の佐世保駅開業110周年を機に設けられました年表でもありましたが、この年表が詳しく見る事ができなくなってしまっております。
 
 
 さて、今回ここからご紹介しますのは、その年表に書かれておりました、急行「平戸」に関しましての話題をご紹介してまいります。また、今回の話題の中では私自身が購入しました昭和58年時刻表をも参考にしながらご紹介してまいります。
 

 急行「平戸」とは、昭和36年に運行を開始しておりまして、当初の運行区間は、上の表にもありますように大阪~下関~小倉~博多~佐賀~佐世保間でありまして、平戸(松浦線)へは通らない事から名称とはかけ離れた路線で運行されておりました。そして、昭和43年10月の改正(いわゆるヨン・サン・トウ)で運行区間が変更されまして、以下のように運行区間が変更されておりました。

 博多~(筑肥線)~筑前前原~東唐津(旧駅)~山本~伊万里~(松浦線)~松浦~平戸口(旧称)~佐々~佐世保~(佐世保線)~早岐~(大村線)~大村~諫早~(長崎線・当時は長与経由の旧線のみ)~長崎

 この改正では、当初の運行区間とは大きくかけ離れた形となっておりましたが、当時上の区間を昭和40年から運行されておりました急行「九十九島」を改称したものでありました。
 

 しかし、昭和47年までは上の表の運行区間で運行されておりましたが、その年長崎線の運行区間におきまして新線(市布経由)に運行区間が変更されまして、その後昭和58年には、福岡市地下鉄相互乗り入れによる筑肥線電化(唐津~姪浜間)・一部区間廃止(博多~姪浜・虹ノ松原~山本間)により運行区間が唐津駅発着に変更されましたため、以下のように昭和63年の廃止まで運行されるようになりました。

 唐津~(唐津線)~山本~(筑肥線)~伊万里~(松浦線)~松浦~平戸口(旧称)~佐々~佐世保~(佐世保線)~早岐~(大村線)~大村~諫早~(長崎線・市布経由)~長崎
 
 
 以下画像は、私が所蔵しております、昭和58年改正の時刻表で掲載されておりました急行「平戸」(筑肥線・松浦線)であります。この年の改正で、先述のように筑肥線唐津~姪浜間電化に伴いまして唐津駅発着に改められたばかりの時刻でもあります。
 
 (筑肥線、唐津→伊万里)
 
 (松浦線、有田・伊万里→平戸口→佐世保)
 
 (松浦線、佐世保→平戸口→伊万里・有田)
 
 (筑肥線、伊万里→唐津)
 
 当時の停車地を見ていただければわかるのではないかと思いますが、筑肥線区間(山本~伊万里間)はノンストップ(実際は大川野駅に運転停車)で運行、松浦線区間(伊万里~佐世保間)では浦ノ崎・松浦・平戸口(現・たびら平戸口)・江迎(現・江迎鹿町)・肥前吉井(現・吉井)・佐々と停車駅が少ない形で運行されていた事もわかるのではないでしょうか。
 
 また、当時の松浦線や筑肥線も本数は現在よりも多くはありませんでした。特に現在の松浦鉄道からしますとピーク時よりは減便されているとはいえども、それよりも非常に少ない本数であった事が伺えます。
 

 一方、大村・長崎線に関しましては、大村線区間については川棚・大村の各駅、長崎線区間も諫早~長崎間は浦上駅までしか停車しませんでした。こうして見ましても、停車地だけで考えてみまして特急並みの運行は行われていた事が伺えていたようであります。
 
 (佐世保線・大村線、佐世保→早岐→諫早・長崎)
 
 (大村線・佐世保線、長崎・諫早→早岐→佐世保)
 
 所で、この頃には、青く囲ってある所からわかりますように、門司港~博多~佐賀~早岐・佐世保・~(大村線・長与経由)~長崎間に夜行普通列車「ながさき」が運行されていた頃でもありました。この列車に関しましては当ブログでも何度かご紹介しましたが、当時寝台車付きで夜行列車が運行されていた姿は正直魅力的ではなかったかなと思ってならない所ではあります。尚、この列車は翌昭和59年1月に廃止されておりまして、これによりまして長崎線・佐世保線の電車化につながっております。
 

 さて、急行「平戸」に関しまして戻りますと、編成は、基本編成はキハ58系気動車2両編成でありまして、全車自由席による運行でもありました。それでも、この列車は博多駅発着でありました昭和50年~58年まではキハ58系気動車(キハ65形気動車も含む時もありました)の3両編成、JR化後昭和62年~廃止までは平戸口~長崎間はキハ58系気動車4両編成でも運行されておりまして、需要にもこたえた形でも運行されていたようでもありました。
 

 結局、以下の表にもあります昭和63年の松浦線の第3セクター(松浦鉄道)化に伴いまして急行「平戸」は廃止となりまして、その後も平戸口(→たびら平戸口)~佐世保間ではその名残となります快速列車も長崎駅発着の直通列車としても運行されてもいましたが、その後乗り入れは廃止となりまして、名残の列車も現在は普通列車として運行されております。
 

 画像の車両は、平成22年にリバイバル企画として、長崎~松浦鉄道~武雄温泉間でリバイバル急行「平戸」が運行されていた時に使用されました2両でありましたが、このうちの2両目にあたりますキハ58 569が国鉄時代やJR化後に長崎運転所(当時)に所属していた事がありましたので、この時に急行「平戸」も運行されていたのではないかと思われます。

 ちなみに、リバイバル運行時は松浦鉄道全線経由で運行されまして、武雄温泉駅が終点となっておりましたが、実は伊万里駅が画像のように筑肥線と松浦鉄道西九州線とが現在は分断されておりますので、このような形にになってしまっておりました。上の画像からもわかりますように、昭和58年当時にも筑肥線からの直通列車が4往復存在してはいましたが、もしもこれが分断されていなかったら、もしかしたら筑肥線を経由して唐津まで運行されていたでしょうから、これは残念ではあった所ではなかったでしょうか。
 
 (JR伊万里駅)
 
 (MR伊万里駅)
 
 (JR・MR伊万里駅を分断する道路)
 

 今回はかつて存在しました急行「平戸」に関しましてご紹介しましたが、私自身、長崎・佐世保線系統に最後まで残りました急行でもありましたので、それに関しましては良く覚えておりますし、小さい頃ではありましたが廃止までに乗車歴も数度ありました。やはり、編成としましては国鉄末期から考えてみましても短かった訳でもありましたので(唐津~平戸口間)、わからなくはなかったと思います。本当に、「平戸」も廃止からもう33年になる訳でもありますし、MR西九州線にも急行列車が走っていた事がわかる姿ではなかったかと思いますが、記録が残る限りこの列車に関しましては語られる事になるのではないかと思ってなりません。
 
 (注)時刻が見にくい方は画像をクリックしてご覧ください。