上野-金沢間を結んだ夜行急行列車「能登」の歴史を時刻表で振り返る。
今回は国鉄時代の「能登」をまとめた。


「能登」は上野-金沢間を上越線(長岡)経由、または信越線(長野)経由で結ぶイメージが強い。それは私が子供の頃、1980年代に「能登」という列車名を覚えたからである。
この記事を書くにあたり、私が生まれる前の1967年の時刻表(復刻版)を調べると、意外なことに「能登」は東京駅から東海道線を下り、米原から北陸線を金沢へ向かうルートで運転されていた。

 

 

 


交通公社の時刻表1967年9月号、東海道線下り。
さらに意外なのは、「能登」は東京-名古屋間で「大和」という急行と併結運転されていた。この「大和」という列車は、名古屋で「能登」と分割すると関西線を奈良方面へ向かい、王寺でさらに分割し、そのまま関西線を湊町まで行く編成と、和歌山線を和歌山市まで行く編成に枝分れした。

 

 

 

 


交通公社の時刻表1967年9月号、「能登」「大和」の編成表。
「能登」が8両、「大和」が6両」。和歌山市行きはたった1両の寝台車となっている。当時の国鉄はよくここまで細かい運用をしていたと感心する。
 

 

 

 

次に交通公社の時刻表1980年6月号、高崎線下り。
この当時の「能登」は上越線(長岡)経由。信越線(長野)経由は「越前」であった。「能登」と同じ区間を寝台特急「北陸」も運転している。

 

 

 

 


次に交通公社の時刻表1982年12月号、信越線上り。
この年の11月、上越新幹線が開業し上信越方面の列車体系は大きく変化した。「能登」は信越線経由に変更され、「越前」は臨時列車に格下げされた。

 

 

 

 


国鉄民営化の前年、1986年春、当時中学2年生の私は同級生と一緒に「能登」に乗り金沢へ行った。これはその時の寝台指定券。
夜行寝台に乗るのは初めてで、ずいぶん興奮したことを覚えている。3段式のB寝台は狭かったはずだが、鉄道少年には寝台車はあこがれの的のような存在だったから、車内で見るものすべてが珍しいものばかりで不便だと思うことなかった。今思えば笑ってしまうが・・

 

 

 

 


寝台指定券もこの頃は大きいサイズで、すべてカタカナ表記の書体もコンピューター黎明期といった趣きがある。

急行料金と寝台料金を合せて6200円。さらに乗車券も加えると1万円を超える。中学生にそんな大金があるはずもなく、親に何度も頼み込んで渋々金を出してもらったのを今でもよく覚えている。

 

 

 

 


交通公社の時刻表1986年8月号、信越線下り
高崎発22時48分、確かに私が乗った「能登」と同時刻である。赤く塗りつぶしてあるのは、当時、私は自分の乗った特急、急行列車を塗りつぶしていたからである。数字が見えにくいが、まさか数十年後にブログ記事の画像に使うとは思わなかったので、これはご愛嬌。

 

 

 

 


交通公社の時刻表1986年8月号、列車編成表。
この当時、「能登」は客車8両、荷物車1両の計9両編成。星一つの印は3段式寝台を意味する。


以上、国鉄時代の「能登」をまとめた。次回はJR時代の「能登」を振り返る。