横川の渡しを使用する
日本通運のトラック
遠州地方の交通発達史より
現在の国道152号線(旧秋葉街道)船明ダム湖の上流域にある横山は、天竜川が右に曲がりながらも左へ曲がれば渋川から東栄鳳来にも抜ける事ができる交通の要衝となっていました。秋葉街道も相月から天竜川東岸を上り谷川に差し掛かると"横山の渡し(谷川の渡し)"がありました。
トラックは戦前からのデザインを踏襲しているいすゞ製トラックで、ガソリン車ならいすゞTX80ディーゼル車ならいすゞTX60です。
戦前の天竜川沿岸の主要交通だった
プロペラ船
遠州地方の交通発達史より
北遠地方でバス事業を行なっていた遠州自動車商会と秋葉自動車商会が1931年に合併し誕生した遠州秋葉自動車商会が運行していたプロペラ船は、木造船に40psの飛行機エンジンを搭載し、直径2mのプロペラで水上を推進する飛行艇で水上バスにも近い。定員は上り25名、下りは30名。
西川(現在の秋葉ダム付近)ー鹿島間を上り3.5時間、下り2時間で結び爆音を轟かせて運行、所要時間がふつうの船の半分で、料金は高かったが人気はあった。1929年からは中部ー西渡ー鹿島間に延長、1940年まで運行が続いた。

横山に橋が架けられたのは1935年。木造の吊り橋でした。そのため自動車は使用出来ず、横山の渡しが誕生しました。
谷川の渡しに乗る
遠州秋葉自動車商会のバス
1938年頃
遠州鉄道40年史より
1949年、久根鉱山で使用していた麻芯の古ワイヤーをした吊り橋(木造補剛トラス橋)が架けられました。戦前は久根鉱山峰之澤鉱山で採掘された鉱石を帆船での鉱石輸送が行われていましたが、戦後にはトラックに切り替えられ、道路整備が急がれました。


横山橋改修工事のため渡船風景
1953年11月17日
S氏提供
1953年、新たに横山橋が架橋するとのことで渡し船が復活しました。新しい吊り橋(アンガートラス橋)に書き換えられていました。  

木造船に『これでもか』と云わんばかりの人を乗せています。当時は佐久間ダム秋葉ダムは無く水量も多く"あばれ天竜"と度々下流域に洪水を起こしていました。現在の付近の川幅の倍近く流れも逞しく見えます。

S氏の祖父が唄ったのか天龍川沿岸に伝わるものか船頭小唄の歌詞が綴られています。

この半年、工場勤務を命ぜられ、1日30,000歩以上歩く力仕事をしていますが、せーのムキー💢と、重い台車を引いたり押したりすると、船頭小唄みたいな唄が思い浮かぶときがあります。
辛い肉体労働でもその先にある僅かな給料コインたち子供たちの明るい笑顔爆笑爆笑を見るために必死に頑張るとき、腹の中ではこんな唄を噛みしめて"やまやのおとうちゃん"はがんばりますプンプン

元唄は三船敏郎だったのですね😅。
僕が知っているのは竹中直人の歌う山の男の唄です。

絵面に政治思考が反映されているので、三船敏郎ver.を先に添付させて頂きました。