その7(№5657.)から続く

今回は番外編その2として、名古屋・大阪の五輪招致の蹉跌(失敗)を取り上げます。
いずれも招致活動に乗り出しながらかなわなかったわけですが、それなら「失敗の原因」は果たしてどこにあったのか?

それぞれ分けて見ていくことにしましょう。

【1988年名古屋五輪招致】
この構想は、1977年8月、当時の愛知県知事が招致運動に着手したもの。同年8月25日、知事は名古屋への五輪招致計画を新聞紙上で発表しますが、そのとき、名古屋市長は渡米中で、市関係者にとっては寝耳に水の話。サッカーのワールドカップ(W杯)とは異なり、五輪は主催が国ではなく都市になるため、本来であれば名古屋市と十分に計画をすり合わせなければならないはずでしたが、それが全くない「見切り発車」。今にして思えば、開催都市の長を出し抜いて、県側が一方的に発表したことが、招致失敗の遠因になっているのではないかと思われてなりません。
それでも政治的な手続きは滞りなく行われ、1980年には、当時の内閣により名古屋五輪招致決議案が閣議了承され、翌年には衆議院本会議で招致決議案を全会一致で採択しています。
このような政治的手続きの結果を得て、関係者は意気揚々と第84次IOC総会が行われる、ドイツ・バーデンバーデンに乗り込みます。実は総会開催までの間に、招致を争っていた他都市、具体的には豪州のメルボルンが辞退、これにより招致合戦は名古屋と韓国ソウルの一騎打ちとなりました。名古屋招致への最大のライバルと目された「強敵」メルボルンの辞退によって、招致成功への自信を深めた関係者は、1981年9月30日に行われる決選投票に臨むのですが、結果はまさかの27対52と、ダブルスコアに近い大差。これにより、1988年五輪開催都市はソウルに決定、名古屋は開催権を得ることができませんでした。
この敗戦は関係者に大きな衝撃を与えました。それは、関係者の誰もが、「名古屋で決まりだ」と信じて疑わなかったから。悪く言えば、あまりにも楽観的に構えていたから。
招致失敗の理由は様々に指摘されますが、関係者の楽観論以外に大きかったと思われる要因のひとつが、招致に対する反対運動。当時、財政負担の増加や環境破壊などを理由に五輪開催に反対する市民団体が数団体結成され、五輪招致反対派の人物を名古屋市長選挙に立候補させたり、署名活動を行ったりしました。署名活動によって集められた署名は、IOCにも届けられています。さらに反対派は、上記IOC総会が開催されるドイツ・バーデンバーデンにも乗り込み、現地でビラ撒きやデモ活動などを行いました。これらが全く影響しなかったかといえば、そのようなことはないでしょう。委員が「名古屋では市民の理解が得られていない」として、投票に躊躇する理由になったであろうことは、想像に難くありません。
それよりも大きな要因と思われるのが、前述したように県と市で足並みが揃っていなかったことと、県主導の「上から」の招致活動であったこと。これでは、市民を巻き込んだ誘致活動などは不可能で、だからこそ複数の五輪招致に反対する市民団体が設立されたともいえます。
またその他には、既に冬季も含めれば2度開催している日本での開催を疑問視する声もあったこともあります。現にソウルはその点を突いて、「同じアジアであれば初開催の我が国に」というアピールを行っていました。
このように、五輪招致は失敗したのですが、当時の名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)は、名古屋が五輪招致に成功すると信じて疑わなかったのか、何と「名古屋五輪開催決定記念乗車券」なるものを作成し、販売する予定だったそうです。実際には販売前に招致失敗が明らかになり、記念乗車券としては販売されなかったのですが、愛好家から「売ってほしい」という要望が殺到した結果、臨時普通乗車券として抽選販売されたということです。

【2008年大阪五輪招致】
1988年名古屋よりも悲惨な結果になったのがこちら。
もともとは1992年ころから、「大阪に五輪誘致を」という動きが起こったことで、その2年後に大阪市議会が五輪招致に関する決議を全会一致で採択、さらにその4年後には、大阪府議会でも同決議がやはり全会一致で採択されました。そして1996年9月、正式にIOCに対し立候補を表明し、2008年開催の五輪招致を目指すことになりました。
しかし、IOCによる大阪の評価は惨憺たるものでした。治安やインフラ整備などについての評価は悪くなかったものの、当時壊滅的だった大阪市の財政状況、会場アクセスに難があることなどは、マイナスの材料となってしまいました。決定打となったのは、2001年5月にIOC委員が大阪市を視察した際の交通渋滞。彼らを乗せた車が何度も身動きが取れなくなったことは、道路交通の貧弱さを印象付けてしまいました。さらに招致委員会による説明不足も露呈する体たらく。
これらにより、当時招致を目指していた他都市(他には北京・イスタンブール・パリ・トロントが立候補していた)よりも、大阪は相対的に低い地位に甘んぜざるを得ず、挙句には「大阪での五輪開催は困難ではないか」という事実上の落選確定とも取れる「推薦辞退の勧告」を促そうとした動きすらあったといいます。
これでは満足な得票を得られるはずもなく、実際、2001年7月にロシア・モスクワで開催された第112次IOC総会では、大阪の得票数は僅か6票! この得票数は、当然のことながら立候補5都市のうちの最下位。これも当然のことですが、大阪は落選を余儀なくされ、2008年五輪は中国・北京での開催に決定しています。
こちらも失敗した原因は様々な点を指摘できようかと思いますが、名古屋と同様に「上からの招致」すなわち大阪市の主導で行われ、民間の人脈活用や市民の盛り上がりがなかったこと、さらには反対運動が起こってしまったことも挙げられるでしょう。しかし、名古屋と決定的に異なるのは、当時の大阪市の財政状況。既に五輪招致決定の時点で壊滅的だったという話もあり、そのような自治体が五輪などという世界的スポーツイベントを招致するなど、身の丈にそぐわなかった話だったのかもしれません(大阪市の方には大変失礼な物言いですが、ご容赦を)。

その後の五輪は、肥大化・商業化とそれによる経費の増大が顕著になってきており、五輪憲章で定めるような「一都市での開催」がもはや不可能、あるいは著しく困難になってきているのではないかという指摘もなされています。そのような指摘を裏付けるかのように、開催に立候補する都市は減少傾向にあります。今のところ、開催都市は2032年ブリスベーン(豪州)まで決定していますが、その後はどうなるか。いっそのこと、開催地を五輪発祥の地であるアテネに固定してしまってはとも思いますが、様々な意味で五輪が曲がり角に来ていることだけは確かなようです。この点は、最終回でも考えてみたいところです。

次回は日本開催3度目となった、1998年長野にまつわる、鉄道網の変化を取り上げます。

その9(№5669.)に続く