その6(№5636.)から続く

更新を再開いたしましたので、連載記事のアップも再開いたします。現在ストップしている「五輪と鉄道」ですが、既に最終回まで記事が完成しておりますので、これを年内に全てアップする方向で参ります。さしあたり、今日(11月30日火曜日)に2本まとめてアップし、12月の火曜日に2本ずつアップしていくつもりでおります。

ご挨拶とご案内はそのくらいにして、本題に参ります。
今回は番外編として、国鉄を走った2つの「オリンピア」なる列車と、その他1964年東京・1972年札幌開催時に運転された臨時列車について取り上げます。
現在はIOCの基準が厳しくなり、また国鉄も民営化されたこともあって、現在のJRでは「オリンピア」その他五輪を想起させる名前を列車に命名することはできなくなっていますが、当時は国鉄(国有鉄道)であったことから、普通に命名されていました。

【1964年東京開催時の『オリンピア』など】
このときに運転された「オリンピア」は、実は観客輸送とは何の関係もない列車で、五輪観戦に訪れた外国人客を熱海の温泉地に案内するための列車として運転されたものです。列車種別は急行でありながら、使用車両は何と、東海道新幹線開業前日まで特急「こだま」「つばめ」などに使用されていた151系。もっとも、急行として運転されたことと運転区間が短かったことから、食堂車などの営業はなされなかったようです。
ここで「あれ? 田町の151系は東海道新幹線開業と同時に向日町に引っ越したはずでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、実は田町にいた151系特急編成のうち、2編成だけが新幹線開業後も田町に残されていたそうです。その残された2編成を使って、「オリンピア」が運転されたわけでして。
来日外国人客を当て込んだ列車は他にもあり、「オリンピア」と同じ区間で運転された準急「臨時たちばな」、上野-日光間で運転された準急「臨時日光」など。「臨時日光」は157系を使用し、1等車も連結した堂々たる編成。しかも前年に冷房化改造が実施されており、居住性は特急用の151系と全く遜色ないものになっていました。「臨時日光」に充当された157系は、五輪終了後には急行「伊豆」に転用されることになります。
さて次に、それでは「オリンピア」その他臨時列車の乗車率はどうだったかといえば、好調だったのは「臨時日光」だけで(こちらは80~90パーセントの乗車率を叩き出した)、五輪を名乗った「オリンピア」の乗車率は、何と10パーセント台と惨憺たるものだったそうです。当時の国鉄当局は、このような惨憺たる乗車率の原因を「宣伝が足りなかったから」としていましたが、そもそも当時の外国人観光客の間における、観光地としての「熱海」の知名度が日光や箱根に比べて大きく劣っていたという事実もあり、この点は国鉄当局ばかりを責めるわけにもいかないのでしょう。
余談ですが、その箱根へのアクセスルートである小田急では、前年に新型ロマンスカー3100形(NSE車)を導入し、外国人観光客の利用も多く好評を博したそうです。3100形は当初から冷房を搭載して登場していますが、3100形投入開始前後には、SE車3000形も冷房搭載を済ませており、両者の間では、展望席の有無以外にはサービスレベルの格差がなくなっていました。
なお、これらとは別に、国内からの五輪観戦客を当て込んだ列車は他にもあり、東京-下関間で名無しの急行、上野-福島間で名無しの準急が走り、その他の路線でも臨時列車が運転されたという記録が残っていますが、面白いのは東京-熊本間の臨時急行「聖火」。この列車名は恐らく、五輪の聖火と熊本県の前身である肥後国の異称「火の国」とのダブルミーニングでしょうが、熊本から東京まで22時間をかけて走っていました。この列車は九州内の修学旅行生の輸送に活用され、利用した生徒たちは実際に五輪競技を観戦したようです。しかしこの「聖火」、寝台車ではなく座席車だったようですから、あのボックス席で22時間を過ごして体力の消耗いかばかりか…と思います。12系の登場は1964年東京五輪開催の5年後、14系の登場はさらにその2年後、札幌五輪開催の年ですから。

【1972年札幌五輪開催時の『オリンピア』】
1964年当時の「オリンピア」とは異なり、こちらは実際に首都圏-札幌間の観客輸送を当て込んで設定された臨時列車。
当時は当然ながら青函トンネルなどなく、東京から北海道へは青函連絡船を介した乗り継ぎにならざるを得ませんし、所要時間もかかりますが、それでも当時は航空運賃が非常に高額だったため、安く移動できる国鉄を利用する層もそれなりにありました。国鉄当局は、当時の利用実績から、国鉄利用者は全体の4割とはじき出し、それを前提に臨時列車の設定を行っています。
「オリンピア」の運転ダイヤは以下のとおり。使用車両は、本州側が583系電車、北海道側が80系気動車でした。

下り 

オリンピア1号 上野1930→水 戸2057→青森0445
連絡船     青森0505→→→→→→→ 函館0855
オリンピア2号 函館0925→東室蘭1208→札幌1356
上り

オリンピア2号 札幌2110→小 樽2144→函館0230
連絡船     函館0250→→→→→→→ 青森0640
オリンピア1号 青森0810→福 島1337→上野1645

この列車の面白いところは、本州側・北海道側それぞれで同じ「オリンピア」という列車名を名乗っていたことと、本州側・北海道側両方で上下の経由ルートが異なること。
まず列車名について、本州側の上野-青森間では「オリンピア1号」、北海道側の函館-札幌間では「オリンピア2号」と名乗っていました。当時は現在のような「下り奇数・上り偶数」の新幹線方式を在来線では採用しておらず、号数は上下とも1号・2号…と呼んでいましたから、このような芸当が可能でした。さらに、本州側の「1号」は、下りは寝台をセットして運転し(したがって下り『1号』は寝台特急となる)、上りは座席車として運転しました。このあたりは、昼夜兼行仕様である583系の特性が遺憾なく発揮されています。
次に運転ルートですが、上野-青森は下りが常磐線経由、なおかつ夜行で「ゆうづる」のルートと同じであるのに対し、登りは東北本線経由で昼行と、「はつかり」ルートと同じ。函館-札幌は下りが室蘭本線・千歳線経由で現在の「北斗」のルートと同じとなっているのに対し、上りは小樽経由で当時の「北海」のルートと同じでした。
このように、上下で運転区間・時間帯はおろか所要時間までもが異なるのは、本州側・北海道側とも、貨物列車も含め非常に多くの列車が走る中に臨時列車を埋め込もうとした、苦肉の策だったのかもしれません。特に上りは、下りよりも明らかに時間がかかっていて、なおかつ青森駅でのインターバルが長すぎるという問題もありますが、これももしかしたら、そこしかダイヤを引けなかったということでしょう。

【その他】
それ以後には、1998年長野開催時の臨時列車もありますが、こちらは1998年長野開催前の鉄道の変貌について取り上げる際に言及することにします。

次回は番外編その2として、1998年長野以前の日本の五輪招致、1988年名古屋と2008年大阪の、それぞれの招致活動の蹉跌を取り上げます。

その8(№5658.)へ続く