旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 生涯を常磐線と近隣だけで過ごした交直流機【3】

広告

《前回のつづきから》

blog.railroad-traveler.info

 

 1963年から製作された1次形は、全機が田端機関区へ新製配置されると、さっそく常磐線の客車列車や貨物列車を牽く運用に就いていきました。

 EF80にとって特に花形だったのは、やはり寝台特急ゆうづる」をはじめとした夜行列車の運用といえるでしょう。常磐線経由の「ゆうづる」や夜行急行「八甲田十和田」の先頭にはEF80が立ち、平駅でED75と交代するまでを担いました。そのため、特に「ゆうづる」では赤いヘッドマークも誇らしげに上野駅に姿を見せることも多くありました。

 こうした花形の仕業だけでなく、登場当時は数多くあった客車による普通列車の先頭にも立ちました。また、常磐線を走行する貨物列車にもEF80は欠かせない存在で、常磐線から直通する列車にも充てられていました。そのため、水戸線にも顔を出す運用もあったといいます。

 また、中には総武本線外房線にまで足を伸ばす運用もありましたが、総武本線新小岩操から佐倉まで、外房線蘇我までとあまり遠くへ行くことはなかったようです。

 そうした中で、今回ご紹介した写真の63号機は、1967年に昭和41年度本予算で新金貨物線と水戸線電化開業用の2次車の一員として日立製作所で落成した、EF80のラストナンバー機でした。落成後は勝田電車区に新製配置され、ほかのEF80と同じく常磐線とその周辺に限られた運用に充てられました。

 2次車だけでなく、EF80には客車列車を牽くための電気暖房用の電源を供給するために、電動発電機を装備した「旅客形」と、客車列車の牽引を考慮しないで電動発電機を省略した「貨物形」がありました。63号機は2次車でも数少ない「旅客形」で、暖房用の電動発電機を装備していました。もっとも、20系以降に製造された客車は、電源車や床下発電装置を装備するなど、客車自身で電源を供給できるようにしたため、貨物形でも「ゆうづる」などを牽くことができました。しかし、旧型客車はそうはいかず、63号機もまたこうした装備をもっていることから、新製当初は客車列車を中心とした仕業についていました。

 やがて客車列車は電車や気動車に置き換えられ、貨物列車はモータリゼーションの進展によって輸送量が落ち込んでいくなど、EF80にとっても厳しい環境になっていきました。そうした中で、1970年代になると交流関係の機器が劣化し、しばしば故障を起こすことが起き始めました。特に70年代なかばになる頃には、この劣化による機器故障が深刻になっていき、故障件数も直流機の2倍以上に跳ね上がるなど、深刻さをましていきました。

 そうした中で、1980年代になるといよいよEF80も活躍の場を狭めていくことになります。貨物列車の削減や、客車列車の電車化・気動車化は全国で進められ、多くの機関車が余剰と化していきました。日本海縦貫線用に製作され、酒田機関区や富山機関区に配置されていたEF81の初期形が余剰となったため、田端機関区へ配置転換されてくると、故障を頻発するようになり運転・検修ともに信頼を失っていたEF80は、真っ先に置き換えの対象となっていきます。

 やがて国鉄分割民営化が具体化する1980年代半ばには、状態の悪いEF80はEF81に置き換えられる形で廃車となっていき、かつて「ゆうづる」や「八甲田十和田」を牽いた華々しい運用はEF81にその座を奪われていったのです。

 そんな悲しい末路を辿ったEF80にとって、国鉄が用意した最後の花道は1985年に筑波で開催された国際科学技術博覧会、いわゆる「つくば科学万博」の波動輸送でしょう。

 科学万博に連日多くの来訪客が訪れ、その会場への交通手段として常磐線の利用者が激増すると踏んだ国鉄は、その万博客輸送のために1日最大で20万人が利用できる臨時駅の設置と、その利用者を輸送するために多数の臨時列車の設定がされました。当然、これらの列車を運転するためには大量の車両が必要になりますが、常磐線は取手以南は直流、これより北は交流で電化されているので、交直流両用の車両が必要でした。しかし交直流両用の電車は製造コストも高く、そもそも必要な線区にのみ配置されていたため余剰車などはないため、不足する分については全国から余剰になった車両をかき集めて対応しました。

 

f:id:norichika583:20211103204226j:plain

1980年代初頭にはEF80の交流機器劣化が原因による故障が頻発し、加えて日本海縦貫線用に製作されたEF81が、貨物列車の削減と客車列車の電車化・気動車化によって余剰となったために酒田区や富山区から田端区へ配転されてきたことで運用を急速に失い、老朽化と余剰によって廃車されていくこととなった。それでも状態が良好な車両はなんとか残ることができたものの、かつて担っていた「ゆうづる」などの花形仕業もEF81に明け渡して、貨物列車など細々と余命を長らえていた。1985年に筑波で催された「つくば科学万博」は常磐線の輸送量が激増し、不足する宿泊施設を補完する目的から列車ホテル「エキスポドリーム」が設定され、定期運用と昼間の「エキスポライナー」の運用で手一杯だったEF81ではなく、既に廃車が決まっていたEF80に白羽の矢が立った。黎明期の国鉄電機として、長年課題だった常磐線の電化後の輸送を支えてきたEF80にとって、国鉄が最後に用意した花道ではあったが、万博中央-土浦間の10kmにも満たない距離を、プッシュプル形式で寝台車を牽いていた。つくば科学万博が終了するとともに、列車ホテル「エキスポドリーム」も運転を終了し、名実ともにEF80はすべての任を終えて翌1986年までに全車が廃車され、系シク消滅となった。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)

 

 言葉通り「かき集めた」ので、波動輸送用につくられた12系客車はもちろんのこと、583系や20系客車といった寝台特急に使われていた車両や、はてはキハ58系といった急行形気動車までもが常磐線に馳せ参じ、まさに国鉄の「総力戦」で万博輸送にあたったのです。

 そうした中、そもそも宿泊施設などもない筑波でこれだけ大規模のな博覧会を開催したのですから、泊りがけの来訪客への対応も問題になりました。ホテルはつくられたものの、すべてを捌くことはできません。そこで、国鉄は20系客車や583系といった寝台車を列車ホテルとして提供し、泊りがけの来訪客に対応したのです。

 これら臨時列車の中でも、客車で運転される列車には当然機関車が必要でした。この頃の常磐線で主役となっていたEF81は、通常の運用もあるので臨時列車に回すには限りがあります。そこで、すでにEF81に主役の座を明渡し、余剰となっていたEF80に白羽の矢が立ったのです。これこそが、EF80に国鉄が用意した最後の花道だったのです。

 万博輸送のために、12系や20系といった客車をEF80が牽きました。特に「列車ホテル」として国鉄が提供した「エキスポドリーム」は、土浦駅で客扱いをしたあと、土浦駅構内の留置線で一夜を明かし、再び土浦駅で客扱いをした後に万博中央駅まで運転されるというダイヤでした。その距離は10kmにも満たない短いもので、通常の客車列車の運転取扱では機関車の機回しにかかる手間とコストが課題となります。そこで、既に定期運用から外されていたEF80が客車の両端に連結される「プッシュプル」として、短距離の運転を可能にしたのです。すなわち、1つの列車にEF80が前後に1両ずつ、合計で2両が使われたのでした。

 こうして、短い距離ながらも、寝台列車を牽く役割を任されたEF80にとっては、まさに「最後のご奉公」となったのでした。

  つくば科学万博が1985年9月16日に閉幕すると、これら万博輸送も終了し、「エキスポドリーム」も運転を終了しました。EF80も最後の任を解かれると、計画通りに廃車となっていき、分割民営化を控えた1986年までに全機が廃車となり形式消滅しました。1963年に製造されて運用を始めてから23年でその歴史に幕を閉じるのは、国鉄形電機としては比較的短い方だといえるでしょう。殊に唯一の現存機となった63号機は1967年に落成しているので、それよりもさらに短い19年でその役を降りていったのです。

 

f:id:norichika583:20211010180932j:plain

群馬県の横川運転所跡地に開設された碓氷峠鉄道文化むらには、数多くの国鉄車両が保存展示されているが、その中にEF80も1両が保存されている。63号機は2次形のうちの1両で、全部で63両製造されたEF80のラストナンバー機である。保存される鉄道車両は、多くがトップナンバー機であるが、このようにラストナンバー機が選ばれることは珍しい。2次形は前部標識灯の意匠が変わり、張り出し形にすることで雨水が溜まることを防いだ。この変更で、EF62以降の国鉄電機の標準的な顔つきになるとともに、側面の採光用窓もHゴム支持に変えられたことで、ルーバーの形状以外はごくありふれたスタイルになってしまった。また、1次形では台車は心皿式台車であったが、ピッチングが激しく問題になったため動力伝達方式を引張棒式に変更された。この変更で、乗務員室扉下には台車からスカート部にかけて長くて太い棒が通されている。63号機も含めてEF80は常磐線を中心に、主に水戸局管内で使用されたので、写真のように東北本線を走行する「はくつる」の先頭に立つことはなかったと思う。(EF80 63 碓氷峠鉄道文化むら 2011年7月 筆者撮影)

 

 EF80がすべて引退していった後、EF81がその役を引き継ぎました。1987年に国鉄分割民営化がされると、EF80は1両も継承されることはなく、首都圏と常磐線のEF81の運用もJR東日本が引き継ぎ、かつてEF80の牙城であった田端機関区は田端運転所と名を変えて車両基地としての機能は旅客会社へ、そして車両配置はなくなったものの乗務員区所としての田端機関区は貨物会社が引き継ぎました。

 活躍した期間こそ短かったものの、その間に寝台特急を牽く花形仕業から、生活を支える貨物輸送まで、常磐線にはなくてはならなかったEF80の功績は大きいといえるでしょう。加えて、交流機器の劣化で短命に終わりましたが、黎明期の交流電機の技術をもって初の本線用交直流機として量産されたことは、後に登場するEF81はもちろん、民営化後に製作されたEH500EF510といった車両開発の礎を築いたという意味でも、EF80の果たした役割は重要だったといえます。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info