自動車免許を取ってからは、水戸に電車で行く機会は減ってしまいました。


最近水戸近郊に甥が住むようになってからは車で行くことが増えています。


水戸駅というと北口の風景が印象的です。


なぜか駅と駅前だけが窪んでいます。目の前の国道に行くにも少し上り坂になります。


なぜ水戸駅はこんな場所にできたのでしょうか、これについては水戸駅がかつての水戸城のすぐ近くだからと聞いたことがありますが、水戸城も関東の他の城と同じく市街地の波に飲み込まれ、どこからどこまでが城だったのかはよくわかりません。


水戸一高や三高のある丘や弘道館や昔の県庁あたりが城跡の一部だとは知っていましたが駅から少し離れています。


まあ鉄道好きには、水郡線の水戸駅北側にある切り通しが、かつての水戸城空堀だというのは有名です。


昨年二の丸隅櫓が復元されました。


どこにできたかと思ったら、水戸駅のすぐ近くで驚きました。


では水戸駅はなぜこんな城のすぐ近くに作ることができたのでしょうか。


たいてい城跡と駅は離れているのが相場です。


城跡そのものに駅をつくった平駅(いわき駅)の例はありますが、他の常磐線沿線の城下町、土浦や相馬とかと比較しても駅と城が近くにあります。


昔の城の図面をみてもすぐにわかるのは、地元の人の特権でしょう。

私のように地元以外の人は、まず街の地形などを知ることから始めなくてはなりません。


ただし水戸の場合、昔の城図をみなくてもなんとなく想像はできます。


駅だけが窪んでいることもそうですが、南口にいけばもっとわかりやすい。


南口は起伏が多い北口と違い平らな地形です。


このような平坦地はたいてい沼などを埋め立て(または干拓)した跡に見られます。


偕楽園の近くにある千波湖が、かつては水戸駅の南側と水戸駅そのものまで広がっていたことがわかります。


駅や駅南のあたりが全部千波湖で、それに接する丘が城だったことになります。


丘はかなり高く、水辺に聳え立つ城の姿が想像できそうです。


昔の水戸城図をみると、水戸城は千波湖と那珂川に挟まれた細長い高台の上に築かれていました。


城下町は主に城の西側に集中していたようです。


大工町といういかにも城下町らしい地名も残ります。


水戸の市街地が水戸駅を起点に西に長く伸びているのは、昔の城下町もそうだったからでしょう。


千波湖を埋め立てた平地が城の近くまで迫り、そこに駅ができたから城と駅が近いことがこれで理解できました。



ところで有名な偕楽園は、水戸街道が偕楽園の台地に突き当たって右に大きく曲がる場所にあり、その前に桜川や千波湖が控えています。


梅園で有名ですが、いざとなったら要塞にもなりえる公園です。


明治になって鉄道が偕楽園のすぐ下に敷設されましたが、あのような台地際にある低地は鉄道敷設のさい用地確保がしやすく、実際東京の上野から北も高台と低地のあいだに線路が敷かれています。


国鉄時代を知っている世代では、水戸は水鉄局(水戸鉄道管理局の略)の本拠。

駅の構内に入るとかなりの数の気動車(水郡線用)や電気機関車、ディーゼル機関車(貨物入替用)が迎えてくれました。


急行廃止後はかつての急行型455系が急行色のまま運行、また451系の台車を使い車体だけ新製した717系が緑帯の通称仙台色で乗り入れてきました。


茨城の南部では見られない車両があるあたり、違う地方に来た錯覚にとらわれることもありました。