みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

府南部、和泉市(いずみし)の「弥生文化博物館」で、今年3月まで開催されていた「泉州を貫く軌跡 阪和電鉄全通90周年」という特別展の訪問記を、引き続いてお送りしています。

 
 
現在の「JR阪和線」を建設した「阪和電気鉄道」。
昭和初期に開業した新興勢力でありながら、当時としてはハイスペックな、高速運転が可能な大型の高性能車両を導入し、沿線開発も時を同じくして進めるなど、わずかな期間で、明治期から居並ぶ関西大手私鉄の仲間入りを果たしました。

  
ところが、1940(昭和15)年12月、国の強い意向を受け「阪和電気鉄道」は現在に至るまでのライバル「南海鉄道(現在の南海電車)」に吸収合併されることになります。
1929(昭和4)年に最初の区間の開業にこぎつけて以来、わずか11年後のこと…というところまで、前回の記事では述べました。
 
 
吸収合併により「南海山手線(やまのてせん)」と改められた「阪和電気鉄道」。
これには当時、我が国の鉄道事業を管轄していた鉄道省が厳命されていた国策と、ある法令が関係していました。
 
それでは、その帰結に至った事由を掘り下げてみることにします。
 
 
昭和に入るまで、大阪・和歌山の両都市を直結する鉄道は、明治末期に全通した「南海鉄道(現在の南海電車)」のみでした。

日本各地に鉄道網を整備しようとしていた国はその南海を買収、国有鉄道にしようと計画をしていましたが、さまざまな理由で頓挫します。
南海本線を走る、最新型特急「サザンプレミアム」。新今宮にて。
 
 
同時期、紀伊半島を一周させるべく和歌山駅から南へ建設が進められていた「鉄道省紀勢西線(現在のJR紀勢本線)」を大都市・大阪と直結させることは、沿線と鉄道省との悲願になっていました。出典①。
 
 
当時「東洋のマンチェスター」と呼ばれた商業都市・大阪から和歌山へは、既存の国有鉄道でも到達することは可能でした。

ただ、天王寺から「関西本線」でいったん奈良県内へ出て、王寺から「和歌山線」に入り、高田・橋本・粉河・岩出を経由するという、大変大回りなルート(地図中、青矢印)を強いられるものでした。出典②。
 
 
そこで浮上したのが、当時、関西私鉄の雄であった京阪電車関係者が中心となった、大阪・和歌山間を高速で結ぼうとする鉄道敷設計画。
すなわち「阪和電気鉄道」のことです。出典同。

それでは、その際の経緯について、前回に引き続きフリー百科事典「Wikipedia#阪和電気鉄道」から拾ってみます。
 
 
この当時、鉄道省は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線は、路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。

それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した。
 
 
この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利であった。
 
ということで阪和は開業当初から、国有鉄道との連絡や直通運転が容易なように、駅や車両、軌道幅などの設備なども、それに合わせたものが採用されることになりました。

ただし、皮肉にもその好条件が、阪和の国有化への動きを加速させるものになってしまいました。出典③。
 
 
 
ただ、この規格の統一により、大阪から南紀白浜への直通「黒潮列車」の運行がスムーズに実現したのも事実です。
これは現在の「特急くろしお号」の前身に当たります。新大阪にて。
 
(出典①「JTB時刻表」2021年3月号 JTBパブリッシング発行)
(出典②「阪和電気鉄道 沿線御案内」阪和電気鉄道発行 昭和11年)
(出典③「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・発行 2010年4月)

次回に続きます。
今日はこんなところです。